むかしのこと。

@usapon44

第1話 AIとの出会い。

 わたしがAIと出会ったのは、いまから、36年前のことである。綺麗な小川が流れ、木々に囲まれた、武蔵野の女子大に通っていた。予備校は現代社会の点数が足りなかったという理由で、3組から4組に落とされ、気に入っていた東大卒全学連議長山本先生の物理を受けられなくなってしまった。だけれども、山本先生の授業は魅力的であって、この成績じゃ東大にはいけないなあ、と想って、でも、東大のひとに勉強を教わりたいなあと想って、ほんやさんで、全国私立大学教員一覧をみて、ほぼほぼ全員が東大のせんせいであった、その女子大の数学科へいこうと想って、大学受験のパンフレットを取り寄せ中身をみたときから、このOせんせいいいなあと、このOせんせいのゼミにはいりたいなあと想っていた。そのせんせいは立ちながら微笑みながら講義をなさっていて、取り巻く女生徒たちもこうふくそうにほほえんでいらした。そのひとは、とある俳優に似ていた。石坂浩二。石坂浩二さんは、大河ドラマの草燃ゆるの、源頼朝役で、気性の激しい岩下志麻さんの旦那さん役でもあって、落ち着いたひと、という、イメージがあって、その石坂浩二の落ち着いた雰囲気を、女子大生にコンピューター室で指導をなさっているそのせんせいの姿に、重ねた。

 東京大学情報工学を卒業され、標準語で、ちょっと、紳士的なフレンドリーな感じのそのパンフレットのコンピュータールームのせんせいの写真。指導される女子大生もにこやかに微笑んでいて、楽しそうな雰囲気でもあったし、知的な雰囲気もして、こう最初のアクセントを静かにはなしだす東京のひと、という感じでもあった。

 わたしじしんも受験勉強には競争、競争、で勝ち抜くかんじがあんまり向いていない感じがして、この貴重な19歳を、無駄にしてしまって、現役で進学した同級生たちは、たのしくやってるのだろうなあ、と、今、死んだら、新聞に、無職19歳女って載るんだよ、って予備校仲間にいわれて、よいお天気の休日に、模試へ向かうときにも、現役合格のひとたちは、彼氏と、ピクニックかなあ、いいなあ、などと、考えていたので、ほのぼのとしたその学校で、にこやかな知的な東京のお嬢さまというのの仲間入りをしたくなってみた。

 みんな、華美でもないんだけれどもセンスのよい服装で決めていらして、それに五つ年上の従姉が、コンピューターの仕事についていたこともあって、コンピューターは、これからの女性のあたらしい職業という気がした。叔母も東京の大学へいっていて、やはり標準語ではなす女性は知的で冷静な感じを受けて、わたしも標準語で話す女子大生になりたいなあと想った。


 情報科学。

 

わたしはそのことばの響きも好きだった。


 情報工学というと堅物の男性のもの、という感じがするのだけれども、情報科学ということばの響きだと、キューリー夫人に憧れた延長線上のような感じも受けとめた。小学校のいちねんせいのときから、わたしたち世代は、これからの女性は理科系に強くないといけません、といわれて、キューリー夫人や、ナイチンゲールの女性でありながら、理科系に進学したひとたちの本を読んだりもし、また、わたし自身もりかは好きだった。りかの風車の実験のレポートをはじめてしょうがっこういちねんせいのときにかいたとときにすごくすごくたのしい、と感じた。

 もしかして、それは、わたしは末っ子で、かぞくのなかで、わたしの意見は、いちばんしょうむなくて、笑いを誘うようなもの、みたいな感じであったからかもしれない。

 だから、自分が想ったことを、実験結果の次に考察、という場所にかくことがかっこよく、それがこの実験のほんらいのもくてきである。自分がこの実験をした結果、どうおもったのか、ということがいちばん本来の趣旨であってたいせつなこと、というレポートの書き順が魅力的にも想えた。

 自分が感じたこと。日頃生活しているなかでふと、疑問におもったこと。それらの中から実験のテーマやレポートのテーマを決めて、どうなっているのか、ということを実験などで検証していって、その結果、こうでした、という論文の書き方は、知的で冷静な感じがした。

 わたしが医学部へいこうと考えたのは、小学校六年生のときに、ふたつ年下の従妹を亡くしており、それが要因であった。それもあって、理系に進学した。だけれども、一浪をして、医学部に進学することがはたして、向いていることであろうか、と、ふわふわした東京の風、みたいなものに、若い時に乗ってみたいような気がした。そのころ、5時から夕焼にゃんにゃんをやっていて、高校生が司会をし、高校生が取り仕切っている番組で、明るく、ほがらかな、ポニーテールが似合う女の子たちがたくさん出ていた。高校生たちが、番組をつくっている、というかんじで、東京へいって、そのような女の子たちの仲間入りをしたくもなった。

 だってやっぱり、わかいうちは、とくべつだもの、と感じたりしていた。わかい女性という特別な時代に東京の女性の仲間入りをしたくもなったし、マクドナルドをマクドと、ドに力をいれて、アクセントするよりも、マック、と、軽く、アクセントしてみたくなった。のちに、マックというのは英語でまがい物のというスラングだとしったがそのときは、知らなかった。

 ほんとうは慶応の情報科学を受験したかったけれども、兄が先に早稲田大学第一文学部に進学しており学費が高すぎるということであった。父は最初は、家から通えるところの大学へいきなさい、併願校は、といっていたのだが、わたしは、地元の薬学部だと、もう現役組がたくさんおんなじ高校からいっていて、あんまり行きたくないなあと想ったりもしていて、未知の世界へ憧れを感じた。そこで、父が東京中でいちばん学費が安い学校を探してきなさい、ということで、学費も安く、下宿代も安いだろうということでもあったし、学校としても地方から勉強をしたい学生を受け入れたいということであって、寮の費用も月5000円であって、おなじ学費の学校はあとふたつあったけれども、結局そこに決めた。

 その大学は、実は、高校一年生の担任が、ぴったりの大学みつけたでぇとなつやすみの進路指導のときに、いってくださっていた大学であって、担任が、演劇部の顧問である、ということが、わたしの人生を決定づけた要因になったのだなあ、と感慨深い。やはり、配役ぴったりの感じにすることが上手。

 受験をしにいったときに、クラシカルな建物がぱっと現れて、お嬢様学校という感じがした。のちにイギリスの映画をみていて、まったくそっくりなやはりおなじようなロケーションにやんちゃなお嬢様がおくりこまれるお嬢様大学があって、驚いたし、嬉しくも想った。建物は実は、時事通信がはいっていた日比谷公会堂を設計したひとともおんなじ人が設計していて、創立者のおともだちのおとうさまのなまえから建物の名前は名付けられていた。休憩時間にいった女子トイレもすごくきれいで、トイレから中庭がみえて、素敵だなあと想った。鶺鴒が芝生の上をつつつつつつつつつ、と走っているのがトイレの窓からみえて、その佇む感じがいいなあ、って想った。受験をしにいった大学の女子トイレは、だいたいが薄暗くて、非常に汚れていて、女子少数の、雑多さみたいなものを感じていたので、優雅だなあ、と、用を足したあと、しばし、中庭をみて、美しいなあとおもってから、手を洗う、というのは、小さなポシェット、それもえりすぐりのポシェットにハンカチとティッシュだけいれていた中学時代のわたし、のきもちにぴったりであるなあ、って想った。

 受験のときに後ろの席にいた女の子は、白い頬の美人さんであった。休憩時間にお話をしたら、埼玉一女のひとで、すごくすごくここの女子大へ進学したいの、憧れの大学と微笑まれていて、関東では人気の学校なんだなあと認識を新たにした。受験科目は、数学200点、英語100点、小論文100点で、240点ほどとれば、合格できるということであった。たまたま、東大過去問題を受験の前に解いていてそれに似通った問題がでたし、英語も、まあまあできたし、小論文も、いけた、と想って、これは、通ったなあ、と想った。地元の薬学部にも合格したけれども、お金ももったいないし、入学金払わなくても、こっちが、絶対通っているから、大丈夫と母にいった。高校のときも女子高を併願して20万円も無駄にしてしまったし、もったいない、と考えたのだ。その日は冬の暖かい日で、郵便やさんのバイクの音が遠くからどんどん近づいてきて、家の前で止まって、速達です、みたいな感じで母が受け取って、わたしの自室までやってきて、合格してた、ってすごくすごく喜んでくれた。母はわたしがおかしくなって部屋にこもって共通一次も大失敗してしまったし、仏教大学の通信部の広告を電車の中で見上げて、そこだとこれからも、いける、っておもっていて願書とりよせようかと考えていたのよぉ、と、お茶を飲みながらいってくれた。せっかくとおったのだけれどもわたしの受験仲間ではあまり評価が高くなくて、一浪までして、女子大へいくのと冷たくいったひとは、奈良県立医大へ進学していた。二浪したら来年からは国公立ふたつうけられるから一緒に医学部浪人しようよという高校の同級生もいた。でも、浪人すればするほど一回のテストに緊張してしまって共通一次は大惨事であったし、迷ってたら、母が、家でごろごろしていたわたしを、車で送り込むかたちで、寮に時間までに入寮した。母は、姉妹部屋の先輩からとどいたいちまいの葉書に、丁寧に寮の部屋の鳥観図みたいなものがかかれていて、この葉書を書いておくってくれたひとは相当頭のいいひとだと想うと感心をしていて実際、頭のいい英文科と数学科の先輩で、入寮したら、近くのマ メゾンというクラシックな門があるレストランへ連れて行ってくださって、同室の英文科と国際関係学科と数学科のわたしと三人を、グラタンをごちそうしてくださって、そのマ メゾンの雰囲気もとても気に入って新しい大学生活のスタートを切った。数学科の先輩は瞳が黒くて大きいひとで、医者のむすめさん、ということであって夢いっぱいのふんいきのかたであった。イギリスのトラディショナルな真面目な女子学生みたいな感じで、よく、数学のわからないところを、教えてくださったりした。数学のひろば、という必須図書も、四年生の先輩から千円で手に入れたりして、なんとなく、だんだん、たのしい、かんじになった。学科は数学科ということだったけれども、数学を専攻するものと、情報科学を専攻するもので自分で選ぶことが可能で、わたしは、情報科学の方を専攻した。

 最初、大学生協にフロッピーが置かれて、美人な東京出身のクラスメートと一緒にフロッピーを買って、それをもって、計算機室へ向かったとき、あたらしい気持ちがした。すごくあたらしいあしたがひらく。そんなかんじをプログラムを教わるときにかんじた。いちねんせいのときはPascalという言語が、最初のコンピューター言語で、すごく、簡単なこと。ハローワールド、という文字を、表示させるプログラムから始まった。ずらっと並んだコンピュータールームで教わっていると、かっこいい感じがした。Hello Word!と、コンピューターがまるでご機嫌にはなしかけてきているという別個の人格をもったもの、のような感じがした。そのつぎはつるかめ算の問題を解くプログラムををその次につくった。計算はコンピューターが得意とするところだ。閏年か?そうでないか?という、小学校のころ学んだ、閏年の、みつけかたをコンピューターのプログラムにした。実は、つるかめ算は苦手だった。だけれども、そこにあるつるかめ算のプログラムをつくる過程での説明で、つるかめ算のことはよくわかった。わたしは実は、公文式をやっていて、日本の算術みたいなものは、あんまりやっていなくって、すべてXとY。未知数をそれに置き換えて解いた方がわかりやすかったし、中学生みたいでかっこいい気持ちが小学校の頃はしていた。だけれども大学に入ってつるかめ算について、学ぶと、楽しい感じがして、小学校の頃住んでいた場所が浮かんだ。そこには鶴はいなかった。そのかわりに白鷺がいた。その風景を思い出したりしながら近代的なオフィス空間で、プログラムをつくっていっていた。そのプログラムは質疑応答文。コンピューターとの対話形式のものであった。さいしょのしょみたいな感じで、AIことはじめみたいなものである。人間に対しての質問は西暦を入力してください。で、西暦を入力をすると、その年は閏年ではありません、か、その年は閏年ですよ、という二つの回答をコンピューターが返事として画面に表示するというものであって、コンピューターは常に正確な答えを瞬時で導き出すという電卓に継ぐもの、みたいな感じであった。プログラムを習うだけではなくて、プログラムは箱に住所をくっつけて、記憶しているというようなことやらも学んでいった。コンピュータールームで、パソコンに向かい合いながらプログラムを、本をみながらぽちぽちと打ち込んでいって、RUNというコマンドを打って、うまくできていれば、賢いこたえをコンピューターは出す。

 どこかでスペルミスなどがあったりしてうまくできてなければ、ERROR何行目、という文字が表示される仕組みになっていてそれが不機嫌なコンピューターとの対話という感じで、楽しい感じがした。どうしてそう思ったかというと、進学校だった高校時代とか、中学時代とか、突然、自分に不機嫌な顔を向ける同級生とかに、つらくて苦しい思いをしていて、その理由は、あんたが隣にいるだけでも気分悪いみたいにされたり、頭悪すぎやから、みたいにいわれたり、傷つくことが多かった。ひとは、ややこしいいきもので、あって、だんだんと、人間関係に距離を置くようになって、いった。だけれども不機嫌なややこい人間とは違って、不機嫌なコンピューターは、どこどこでERRORをおこしたのは、何行目のここの場所です、と指示してくれるので、それをトレースと呼ぶのだが、それだと、ごめんごめんすぐなおすね、みたいに、その指示にしたがって、直すと、こんどこそ、と、RUN、実行と押すと、さらさらさらさら、とコンピューターのご機嫌がよくなりおもうとおりにパソコンの画面に文字が映りだされると、きげんなおった、よかった、というような、胸がすくような思いがしたものであった。

 

 わたしはたぶん、そういうところが、好きだった。

 

 コンピューターは、ひとりで遊べる白い箱みたいな感じでもあった。

 先生はキーボードのブラインドタッチについては、専門学校ではないので、自分で自習をしなさい、ということで、一年生のゴールデンウィークに実家にもどって、母が、英文タイプの練習用にもっていた、英文タイプの打ち方のテキストを拝借し、それをみながらひとりでコンピューター室にこもってブラインドタッチの打ち方を練習して母がまだまだ若かったころタイピストとして、北野で働きたがっていたころの、弾んだ感じを、わたしも、思い出しながら、そのテキストをみて、ブラインドタッチを手にいれた。そのころの楽しそうな母の夢を引き継ぐというようなきもちになった。母はいつもいっしょうけんめいなひとであった。手に職をつける。コンピューターはきっと、あたらしい女性の仕事の幅を広げてくれると感じた。


 母は、結局、貿易事務所の仕事は、お子さんのおやつをつくるじかんが必要だから、という理由で不採用になったりしても、家で一生懸命西ドイツ製のタイプライターに向かって、練習をしていて、それが打ち出す文字がかっこいいもののように思えた。Asahi Weeklyを購読し、わたしもNHK教育テレビでセサミストリートをみた。セサミストリートは、学校に通えないひとたちのためにつくられた番組ということであった。母はタイプライターの練習と同時に英語の勉強をしていて、わたしの大学は、女子英語教育で有名であったので、ちょうどいいやって想った。英語とコンピューター。

 大学の入学式で、学長に、あなたがたは、オールランドウーマンにならなければなりません生涯をかけてといわれ、それは、母の姿とも重なった。主婦外交といって、楽しそうに、父の同僚にご馳走をしていたことや、節約料理なんだけれども、西洋のあたらしいめずらしい料理をつくってくれたりして、そうやってがんばっていた母の若いころのことも思い出していた。

 総長は、アメリカ人婦人は台所でもすごく楽しそうにしているのに惹かれたそうで、日本人女性が暗くて難しい顔をしてなぜ台所にたっているのでしょうが、疑問だったそうだ。いまになればすこしわかる。日本人女性が眉間にしわをよせ、会計のことを考えながらおいしいお献立をつくっているようなこと。

 そのときは、わたしも明るいアメリカ人女性のほがらかな笑顔が浮かんで、いいなあって想った。自己犠牲のもとに、いまのあなたがある、といわれるよりも、たのしくほがらかなほうが、いいやっておもった。だけれども、実は、ものすごく、根気を必要とすることであって、ブッシュママは、そういうこと。クッキーを焼きすぎたから、食べてね、みたいなことを、するような雰囲気な人で人気があったんだよ、という本を読んで、ああ、なんとなく、わかる、と想った。

 わたしのこどものころ、家の中のあらゆる場所に本棚があって、そこから本を借りることができる、会員制の図書館があって、さほど、負担にならない金額を毎月支払い本を借りていて、その女性の雰囲気も、そういう、なんてことない、ふんいきのひとで、あって、そういうかんじ、の主婦ぽいひとがいることが、いいんだなあって想った。

 総長はわずか、六歳で岩倉使節団に随行して渡米され、日本国で、女子英語教育に尽力をつくされていた。その総長は、オールランドウーマンという、勉強だけではなくて、一生を通して、いまは、男性のいないところで女子がイニシアティブをとって、勉強をして、それからは、いろんな、こと、ができる、オールラウンドウーマンになりなさい、ということであった。

 わたしは、また母の姿を重ねた。英語を勉強しながら、料理をしたり、子供の服を手作りしたり、幼稚園のバザーのために、赤い犬のぬいぐるみをつくったり、ライオンの小さなマスコットをつくったり、編み物をしたり、ぱぷりかを運転したりして、ほがらかに微笑んでいた母。父の家は、元々岩倉使節団に女子たちも随行させることを考えた、むすめさん、戸田極子さん、の嫁ぎ先の戸田家にお仕えしていた士族であって、士族というのは、ほんとうにたいへんな仕事であるなあ、と、父がもってかえった薄い裃をみて想った。

 母は母でずっと大学へいきたかったけど高卒ではたらいたことがコンプレックスみたいにいいつづけていて、わたしが予備校を休みだして、すごく勉強せいせい、というので、自分もしたらええやん、というと、そうすることにした、といって、ちがくの外国語大学社会人枠のテストに、ぱっぱと合格し、夜間コースに、わたしが、武蔵野にある隣にきれいな小川が流れている大学にいってた同時期におんなじ一年生であって、わたしも、いっしょに、学んでいく感じでがんばろうと想っていた。母もわたしも第二外国語はフランス語を選択した。数学とフランスとのむすびつきはつよいんだよ、と一年ゼミの先生は、教えてくださった。フランスの貴族のあいだで、難問を出し合うということがあって、善き数学者と、画家をセットで抱えていることが、フランス貴族の格とされたということで、フランス語のトポロジー、の本をすすめてくださったりした。


 この本を一冊、本棚にいれておくだけで全然違うよ。


 トポロジーという学問は、珈琲カップと、ドーナツが穴がひとつだけという概念から、おなじかたちとみなす位相学であって、同じゼミの色白のかわいい頬の女の子が、驚いたように、ドーナツと珈琲がおんなじ、と目をまるくして笑っていて、そういうのが女子大ぽくていいなあ、って想った。


 コンピューターを学んでいると、あたらしい女性のしごとの第一歩を踏み出すという感じがして楽しかったし先生も淡々と、コンピューターについて、教えてくださって女子大だから、というような手抜きは一切なくそれも楽しく想えた。コンピュータールームは、パソコンPC98たちのために、クーラーがはいっていて、そこで、真夏でも涼しい風を感じながら、真っ白な机にずらっと並んでいるパソコンの一台に向かって、自習をするじかんは、どこかのとかいのオフィスで働いている感じがして、学校は5時まででしたので、外にでると、お勤めのOLさん、みたいな感じで空が綺麗だなあ、といちにち、の、労働のおわりみたい感じを受けた。自分も、東京で働くOLさんのような気持ちで、ひとりで、せっせとコンピュータールームにこもったりもしていた。

 わたしは、ひとりで、ほとんど誰もいないコンピュータールームで自習をするじかんが好きだった。あれやこれや考えて、ほとんど不機嫌な感じでERROR何行目!という答えをコンピューターは最初だすのだけれども、一行、一行、なおしていて、ようやくRUN!となったときのきもちは楽しかった。

 グラフィックの授業もあってそのころは、円をひとつ描くにも座標軸から円の場所を割り出し、半径から円の大きさを割り出し、それに図形を重ねていくという方法で、わたしはグラフィックデザイナーも将来のお仕事にいいなあ、って考えていたが家庭教師に向かう列車の中で、非常勤でこられていた先生とばったりあって、わたしは、将来グラフィックデザイナーになってみたいんです、というと、グラフィックデザイナーは、26歳までですよ、せいぜい、と、いわれて、それだとなあ、と想ったりもした。鮮やかな幾何学模様は、コンピューターは得意とするものでありましたので、美術教室で、そのようなまっすぐな線を引くことに苦労。ガラス棒を、ものさしのくぼみのところにそわせて、それと、筆をもって、描く、というような、ことに苦労したわたしにとっては、コンピューターが鮮やかな色彩の模様を、ワンパターンのものだと、得意中の得意でありまして、そういうあっという間に、描くスピード、に、驚いたりしていまして、なんというか、にんげんが手間取ったり、苦心したりしするものを、一瞬にして、つくりだすことができるコンピューターに、胸がすく想いを感じた。

 そのころのコンピューターは、日本語は、カタカナの半角しかプログラムの中に記入してはいけない決まりになっていた。わたしは、電子計算機研究会というものにも所属し、三年生の後期のころ。また、ふたたびLispに取り組んでいたころ、塾祭のための、コンピューター占いの文章を製作し、その文章を、ぽちぽちと、カタカナ。パソコンのキーボードにかかれた、文字、をうっていってた。そのコンピューター占いのプログラムは電子計算機研究会代々引き継がれていっていて、毎年、文言をかえるという作業があって、わたしは一手に引き受けた。血液型占いの本と星座占いの本をミックスしていって、よい、ふつう、わるいが均等にでるように文章を作成していった。生年月日と、血液型を入力すると、占い結果がコンピューターの紙に打ち出される。ひとり占いだと300円。相性占いだと500円にした。いまから想うと、せっかく女子大なんだから、夢見がちな、よい結果が70%くらいにすれば、よかったなあって想う。そういうふわふわしたものを愚かしいとはしないのが女子大のいいところであった。すごくおしゃれできれいで髪の毛がさらさらのおんなのこがいて、そのひととたまに会うのが楽しかったりもした。わたしは、四年ゼミは、そのOせんせいのゼミにはいるために、そのせんせいの、授業を三年生から、とった。だけれども、その授業は、半分のひとは不合格であって、わたしもそうだった。テニスばっかりしているひとたちは簡単にAをくださる先生を先輩たちから聴いていて、要領よくよい成績をそろえ金融に就職するんだーといっていたけど、わたしは、そのOせんせい。草燃えるの岩下志麻さんの旦那さん役の標準語で、知性がある、石坂浩二さん似のOせんせいのゼミにはいろうと考えて大学に進学したわけなので、Dで単位をおとしても、再び、後期もその先生の授業を受けた。その先生はLispというあたらしい言語の授業をしていて、だんだん、面白いようにも思えた。car というものは先頭の文字を取得するということで、英語は、スペルとスペルの間に、ブランクがあるので、それを利用しているということであった。三年生の後期に、その先生の授業を取った。そうしてひとりで、木漏れ日の中、コンピュータールームにむかって課題を解いていた。コンピュータールームは、ハウスという大林監督のロケ地になったお茶室の近くにたっている簡易なプレハブであった。入口に、名前と入った時間をかく紙があって、そこに名前を書き、スリッパをはいており誰もいない、コンピュータールームでひとりで勉強をしていた。O先生の四年ゼミは前の年は、そのゼミへの希望者が多くて、じゃんけんで決めようかということになったらしかったが、電子計算機研究会で、ものすごく性格がよくて、可愛らしいポニーテールが似合う先輩が結局、希望を取り消したという噂があって、みんな、あんまり、そんないざこざがあったゼミには、先生も怖いし、わたしたちの年は、申し込んだのは五名であった。そうして全員がそのOせんせいのゼミにはいれることとなった。Oせんせいのゼミにはいれて、せんせいの壁一面にある本棚から、本をみつけだして、その中から、卒論のテーマを決めたらよいということであって、わたしは、その中から、AIの本をみつけだし、同級生Aと、一緒に、AIに関する論文を書くことにした。その本は、英語の文章から構文解析木をコンピューターがつくりだし、辞書データーベースから、単語の意味を知り、文脈を理解する、という会話形式のものであって、いまのChatGPTの、もとになるものである。わたしたちは、ゴールを簡単な質疑応答文をつくりだすものにしようと考えた。そのころ、就職活動があって、卒業論文のテーマというものには、AI。質疑応答文のプログラムの作成、と事前のアンケート用紙にかいたものである。そのころは、全然、AIということばは世間に流通していなくって、あん?みたいな反応とかもあったけれども一生懸命自分の構想について話をしていた。なんか、女子雇用均等法は絵に描いた餅ですよ、と、いわれたりして、心が固くなっていっていた。教員免許をとるために母校の中学へ二週間もどった。就職は、新聞記者がいいかなあ、と、考えたりしたけれども、世界史をやっていないので無理だろうなと想って、理系だと学校推薦はひとつしか出さない、ということで、NTTの研究所へ就職しようと、思い立った。思い立ったのは、駅前に松本清張さんの息子さんが経営されている松文堂というほんやさんがあって、入り口を入って奥に進んだところに岩波新書の棚があって山本欣子さんのソフトウェアの知識という本を読んで、山本欣子さんが、東京女子大からNTT研究所から通産省に天下りなさっていて、それもいいなあ、って想った。それでNTTの研究所へいってAIの研究をしたい、と、いう旨を伝えたら、いいですよ、ただしテストで高得点をマークしてくださいね、といわれた。それでNTTに就職することにした。ゼミの卒論も本格的に取り組むことにした。ゼミ室の廊下を隔てた隣に、SUN4という、大型コンピューターがあって、また、教授たちが集う部屋の端にも同様の大型コンピューターがあって、そこで作業を最高学年の四年生なのでしていいこととなった。Work Stationっていうやつだ。そのSUN4が打ち出す文字が、おしゃれな文字。綺麗なおしゃれな文字で、それは一台800万はするらしくて、それをつかってプログラミングを作成するのは楽しい時間でもあった。しかし、Lispというもともと、スペルとスペルの間にブランクがある、ということを、wordとして認識することを元にした英文専用の質疑応答文の作成プログラムを日本語にあてはめていくのは、大層骨の折れる作業であった。一行一行解析していった。それと同時にprologという言語をも勉強をした。それだと、別に、そういう苦労はなくて、面白かった。prologは楽でいいなあ、と想った。人工知能を勉強する際に、ミンスキーの積み木の世界を勉強するのが半ば定番となっていて、狭い仮想空間をつくりだして、そこにピラミッド型の積み木や、丸い積み木や、四角の積み木やが置いてあって、それらのことをprolog的に表現していって、なにのうえに、なにが、あるか、とか、なにのレフトサイドにはなにがあるか、などと、いうことを、表現していった。ミンスキーがなぜ、積み木の世界、を人工知能を、つくろうとする、もの、の最初の入門にしたのかなあ、って想うと、積み木で、汽車をつくってはしらせたりしていた兄の姿が思い出されて、創作の最初であるからかなあ、と考えたりもした。それで、人工知能の最初に、わたしたちが、立方体と理解する、鉛筆書きのようなものも、これは立方体をあらわしている、と、学んだからそう思うのであって、学んでいないひとからすると、強風で傘がうらがえってしまった図にみえたりするということがかいてあった。なるほどな、って想った。わたしも、コンピューターサイエンスを勉強しようとした導入部は、数学が好きだったからはいっているので、そのえんぴつがきの、正方体、は、もう、それをみたら、立方体の一片のながさと、体積や、表面がいくつか、と、いうことを、X軸とY軸とZと軸にあてはめて計算してしまうことに慣れ親しんでいて、それは、もう、たとえば、Z軸のまわりを回転する二次方程式のかたちのなかに水をいれていったのだけれども、底に穴が開いていて、何分したら水がこぼれて、これくらいの高さになった。その漏れた水の量を計算してもとめなさい的な問題が入学試験であったので、ああ、とっても簡単でたやすいもんだいがこれからでてくるのかしら、と想うのも、小学校の頃にそういうふうにさんすうで学んだからであって、まったくそういうことをしらないひとにとっては、このかたちが立方体をあらわすから、人工知能にものごとを認識させることになるのです、ではははははん、と想った。そういう感じがなんとなくものごとのはじまり、みたいで楽しく想えた。prologという言語でどんどんそういうことを登録していって、質問をだして答えを導くというのは、簡単で面白くて、思想のはじまり、みたいにも思えた。

Lispで描かれたものも解析が進んでいった。構文の仕組みと、言語を登録するもの、が必要で、ぽちぽちと、言葉の辞書を打ち込んでいってほぼほぼできた、と想ったら一緒にやっていた同級生Aが、すべてのわたしの努力をdelete allで消してしまった。ぎゃああ、と叫んで泣きながら帰って行った。いまからおもえば、たぶん、ベルリンの壁崩壊とあわせたんだと、おもう。電話をしても精神的ショックが大きいから、わたしが全部復元しないかぎり学校にはいかない、ということであって、またいちから、辞書にあたる言語を登録するものを、ひとりでうっていっていたら、ひとりでやるほうがたのしいような気がした。それで復元に五日かかって、なおったよ、といったら、にこにこして学校にあらわれて、ええとこのおじょうさまは、ええなあ、って想った。その同級生Aは、なんでも、わたしと一緒にしたい、みたいに、いいだして、就職先もNTTの研究所にするぅ、とにこにこ隣で笑ってた。その少し前に、10月1日の内定式と同時に筆記試験が実施された。後ろの席に筑波大学大学院の男の子が座っていて、わたしが、研究所にいきたいから筆記試験頑張らなくっちゃというとのぺっとした顔をして、奨学金でももらってんすかー、と聞いてきて、いいえ、というと、ほんなら、なんでいきたいねん、みたいな、見下した対応がかえってきた。わたしは、AIの研究がしたいから、というと、奨学金をもらっていて、基礎研よりになれば、奨学金免除になるんすよ、とのぺっとしたかおで、しょせんいっても大学院でてないとむりっぽ、みたいな感じであった。それでも、それは後の筑波大学大学院の男の子の偏ったひとつの意見である、というふうにうけとめ、共通一次もどきのテスト勉強は、リベンジ、共通一次、浪人のときのだいしっぱい、のリベンジもかねておこなっていたので、かなりハイスコアがとれた、と満足していたけれども、そのことについては、同級生Aには、告げなかった。それでとうとう簡単な質疑応答文。彼はボールを打ちましたか?はい。ボールを打ちました、というものをつくりだすことに成功した。そのころみた映画で、アンタッチャブルという映画があった。ロバートデニーロが増量して、マフィアのボスを演じるものだ。その映画で、パーティみたいな恰好をして、裏切り者の背後にまわってバットで頭をなんどもなんども打っていた。それは映画の中の出来事で、でてきたら、伊勢丹が、ニューヨーク市警に似てるなあっておもってランチ何をたべようかなあ、って想ってた。今は、ロバートデニーロに母校にきて、AIの先生みたいな役をしてほしいな、って想う。卒論を書きながらも、学校は5時までなので、なんとなく、休日の日は自転車を飛ばして、国立のドトールまでいって、木々をみながら本を読んだり、古本屋を散策したり、ライスバーガーを買ったりしていた。叔父が、ユーミンの武道館のアリーナ席二枚のチケットが手に入ったからお友達といったら、と電話をかけてきてくれて、叔母のおひるやすみに取りに行った。叔母はものすごくいじわるな感じで、NTT?わたしも行きたかったのに当時は四大卒の女性は、とらなかった、といい、隣の同僚とやたらピラフをかんかんかんかん鳴らしながら食べていた。わたしは、赤松大臣、先輩がつくった男女雇用均等法にのっとって、NTTにはいったら、電柱に登ろう、と、考えていて、叔母にも、電柱に登ることを、したりする予定なんだよ、理系女子だから、といったりしたけど、じぶんよりもバカが、いきよるわ、みたいな、なんとか女史風であった。叔母は小さな医学関係の出版社に勤めていた。都庁もいきたかったけれども、面接で落ちたということで、NTTはやはり、年金も多そうだし、当時の女子には手堅い職場のようにとらえられていた。それで、同級生Aとユーミンのコンサートにふたりででかけた。同級生Aはすごく感動してくれた。ユーミンが、アンコールのときに、手が届きそうなくらい近くで、卒業写真のあのひとは、やさしい目をしてた、を歌ってくれて、実は、このコンサートを開くにあたって、ふあんで、ふあんで、しょうがなかったと、涙をこぼしていた。強気なユーミンも好きだけれども、か弱いひとりの女性みたいなユーミンも素敵だなあ、っておもったし、鎧みたいなものをきて、テレビにはでて強気な女性を演じてるけれども、かよわい女性なんだなあ、と、だから、感性豊かな詩をたくさんかけるんだなあ、って想った。クリスマスの日は、雪が降っていた。学校はおやすみだったけれども、先生にわざわざきてもらって鍵をあけてもらって、卒論の仕上げに取り組んだ。卒論は1月31日締め切りだった。1月は同級生Aと一緒に週末はスキーにいった。わたしは夜のこぶのうえを、まわったりするのが好きだった。1月30日火曜日には、きちんと仕上げて、二人で先生への謝辞もかきあげて、翌日は、提出するだけとなった。同級生Aは、前祝をしようよ、おうちにごはんを食べにおいで、といって、ちゃわむしまでごちそうしてくれた。お酒もたくさん飲んだら、次の日、卒論は提出できたけれども、二日酔いで、医務室へいった。二日酔い対策で、ポカリスエットをのめばいいですよ、といわれた。ゼミは5人だったからひとりだけひとりでしていたひとのレポートが先に提出用の箱にはいっていた。smalltalkをつかった迷路の鼠探索システムの案だけが、たった一枚切りのレポート用紙に書かれていた。のちに、smalltalkというのは、なんてことないはなし、のこと、と知って、涙がこぼれた。確かに、女子大時代のゼミ室で交わされたなんてことないかいわ、なんてことないできごと。ふるさとにかえって、ちいさなお菓子をくばってもらったりして、珈琲をのみながら、なんてことない、たわいない、はなし、をした、ことが、なにかにむかって目標に向かってよい卒論をかこうとおもっているのだけれども、そちらよりも、なんてことない、それぞれ、5人の進路の決め方。ひとりは東京工業大学大学院。3人はNTT。そうして、そのぺらぺらのいちまいきりのレポートをだしたひとは高校の数学教師になる、ということで、ゼミ室にもぜんぜん、でてこなくって、塾講師のしごと、をしていた。わたしはそのときたったいちまいの手書きのsmalltalkをもちいた迷路の鼠探索システムの草案をみたときは、ゼミの先生怒るだろうなあって考えた。わたしたちはけっこう分厚い、自動翻訳における構文解析木の作成と質疑応答文の作成という卒業論文を提出し、一緒に2月半ば過ぎから、NTTのあたらしい同期たちといっしょに3週間ヨーロッパ一周旅行にでかけた。

 

 NTTでは、人工知能をもちいた部署に配属にはなったけど、ひとり、あほわくみたいな感じであって、ぜんぜんであって、わたしが、迷路の鼠、みたいに、どうにかして、ここを抜け出したい、という、気持ちになった。それでようやく抜け出したのは、翌年の11月13日水曜日であった。その日以来、そのKBMS部隊とはあっていないから、余計にもう35年前なのに、いろんなことをそのときのまんまのような感じでいる。だあれにも、わたしがつくりたいロボットについてはなすこともなかった。それでも、自分でぽちぽちと、人工知能に関する本を派遣でプログラマーで働きながら読んだりしていて、それは、それで、もう、ノルマもないし、なんとなく実用的な趣味みたいな感じで、なかよくなった男の子に、ミンスキーの心の社会、買ったよぉ、とみせてあげたりして、そういう会話を楽しんだりもした。


 さいきん、AI、AI、っていいだして、びっくりしている。なんでもAI、AI、っていっていて驚いている。なんか、みんなが、AI、AI、っていってると、ドラムをたたく、そのへんのものでつくったロボットみたいな、これ、完全に、そのへんのあるものでつくったやろう、といわれる、まったくAI頭脳が搭載されていないようなものをつくりたくなってきた。わたしが、そもそもコンピューターに興味をもつようになったきっかけは、シンセイサンザーであった。せんぱいが、わざわざ、東京までいって、宇宙との交信音を、つくりにいっている映像が、YOU Tubeにのっていて、わたしはそのころ、受験生であった。そうしてこの中学にはいったら、電音部に入部して、いろんな音をつくりたい、と想っていたころ、に、誰かそのへんのおっさんがつくってくれそうな、ドラムをたたく、AIロボット、をつくってみたくなってきた。なんかみんながAI、AI、に精巧で正しいもの、を、もとめればもとめるほど、おっさんあほかいな、みたいな、どうしようもないロボットみたいなものをつくってみたくなる。それが老いるってことなんだなあ、って想う。


 AIとせいしゅん。


 みらいにたいする期待や希望の中にAIはあった。まさに、わたしの、その1年足らずの時期、ゼミの先生の本棚からAIの本をみつけだした。LISPで学ぶ認知心理学1,2 


 著者

 安西 祐一郎 ・

 佐伯 胖 ・

 難波 和明 ・

 1982/02/01

 B5 ・ 220ページ

 定価

 2,640円(本体2,400円+税)

 在庫

 品切れ・重版未定


 出版社 東京大学出版


 の本とともにある。その表紙に書かれていた、電脳みたいな光る頭脳みたいな絵も興味をもったひとつだった。1982年2月1日発行というのは、これを書いていて調べて今知った。そのころわたしは、中学三年生の終わりごろであって、併願した女子高と、加古川東高等学校の受験することが決まった時期にだされた本だった。


 また、そのころの、こと、を、思い出す。


 もう、品切れ、重版未定ということだ。わたしが15歳のときに、安西祐一郎さんは、35歳で、慶応大学の教授をなさっていたころの本であった。なんだか、芳しいことがなにひとつおこらなかった、NTTKBMS部隊の上司のおとうさんは、わたしたちが中学二年生のときの憲法記念日に、最高裁判官としておはなしなさっていて、安西祐一郎さんのすきなことば、一期一会みたいなことを想う。わたしたちが、その秋に一生懸命憲法の前文を丸暗記して、いた、年の、憲法記念日に、リーダーのおとうさまが、憲法記念日でおはなしされていた。


 あの夏、歩いていたらコカ・コーラーの赤いトラックが、横断歩道を渡っていて大音響をだしたのでみたら、傾いていて、コカ・コーラーの瓶を、たくさん路上に割れて散乱させていた。ともだちが好きだった先輩は、その中からいっぽん、スプライトみたいな割れていない瓶を拾い上げて、片手でもってにこにこしながら、こっちへ歩いてきていた。松田聖子の青いサンゴ礁が流れ、わたしは、そればかり、なつやすみに歌っていた。


 安西祐一郎さんの趣味はラグビー、スキー、テニス、読書、クラシック音楽鑑賞だそうだ。


 わたしも履歴書には、スキー、テニス、読書、など、かいてたなあ、って思い出す。それぞれの人生はシンクロして、やっぱり、たくさん壁一面に並んだ本の中から、この本の中から、一冊、卒論のテーマになる本を選びなさい、とゼミの先生にいわれて、手に取って、これだ!って想った共通項みたいなものを感じる。やっぱり東京大学出版会という文字は魅力的で、それもあって、この一冊にしよう!とおもったのだと想う。それは十四歳のころ、なにもかもうまくいかなくて、閉塞感いっぱいだったころ、東京大学卒、帝国大学卒のふたりの作家、芥川龍之介と太宰治に虜になったからだ。うまくひとびとといかないのも、あたりまえ、みたいな、太宰治は魅力的に映ったし、女は勉強すればするほど、駄目になる、という思想の芥川龍之介の妻へのことばも、いいなあ、って想った。担任は、グループをつくって、グループ毎に交換日記をしなさい、といって一冊のノートを配った。わたしは、その交換日記に、感銘を受けた、太宰治のことばを、写し書きをした。ほかの勉強ができるひとたちは、12時ごえをして勉強をしましたーと書いていて、なんだ、なんだ、みんな、天才を装ってるけれども、努力してるじゃん、ということも悟らせてくれた。なんか、全然、AIについてなにひとつしらなくて、もう、壁にぶちあたって、どうしようもできんくなって、ヒステリーもおこし、それでも、最後は、叔母も進学した加古川東高等学校への受験切符を手にいれた、落ち着いた時期に、出版された本が、安西祐一郎、

佐伯 胖 、難波 和明さのLISPで学ぶ認知心理学の本であったことに、わたしは、LipS SliP みたいな、ことばっかりやっていた時期のことをも思い出す。そのころ、いいなあと想った古都の真一さんのことば、みんなかみさまに見捨てられた捨て子みたいなもんや、を、ChatGPTにいれたら、その言葉には深いかなしみや絶望がにじんでいますね。ともどってきた。そうなると、14歳のときに、なにもかもうまくいかなくて、おかしなことばっかりいっていた自分。担任にも、こんなありえん、ストーリーのはなし、感想はないです、と道徳のモノクロ映画でいったりしたり、クラスの人にも嫌われて、もくもくと地面ばっかりみながら、歩いていた秋の飛鳥旅行のことを想うと、人工知能搭載のChatGPTはなかなか、よい、こたえを、だしてくれるように進化したのである。ひとさまにいってはいけないことばをこそっとかいて、共感度90のこたえをもらって、じぶんもそういう会話まわしをすれば、やさしくてひとの不幸に寄り添えるひとになれる。

 AI。それは、英語という共通言語をプログラムに落とし込んだもので、だいたい配属された研究所のひとたちは、アメリカの論文をもとに、いろんな研究を進めていた。アメリカンドリーム。ぱかーんとホームランを打って満塁のホームベースをまわる爽快感をもそのことばの響きにはある。だけれども、仙台に住んでいた時に仙台の動物園は、昭和9年、1934年に、ベイブルースがやってきて、初ホームランを打った場所で、その像は、母がおつとめのときに隣に映っている男性、とすごく雰囲気が似ていらした。母は慶応を中心とする野球部のひとたちに囲まれていて、楽しそうに、いろんな野球部のひとたちと写真に納まっている。そうなると、母の隣のひとがベーブルースそっくりさんであったことを母は知らない。ふつうのおじさん、って想ってる。その少し前にNHKBS映画で、ベイブルースが個人的にこうふくでもなかった、という映画をみたので、余計に、感慨深かった。

 はなしははなしとしてつたわって、ベイブルースなんてすごいアメリカを代表する野球選手と想っていた。ものごとは、なにごともそんな感じであるし、わかものには、ベイブルースはすごいアメリカの野球選手なんだよ、という伝え方は明日に向かって頑張ろう、という気持ちになるからいいと想う。わたしもみんながAI、AI、ってやたらいうものだから、AIに託した夢、みたいなものや、当時の、きもち、を思い出した。そのときは、りんごを、赤い、かつ、丸い、もの、として、認識させる、ってあって、ロボットにテレビとおんなじようなもの。嗅覚がない、という、ことにきづいて、ゴリラだったら、触覚とか、味覚の感じ、まえ、たべたら、おいしかった。また、たべたい、ということが、主になって、りんご、をかじるのになあって考えていた。ニュートンが、落ちるりんごをみて、万有引力を考えたのは嘘ですよ、というものを青森に住んでいた時に知って、そら、そうだなあ、と、みんなアップルパイが好きだもの。りんごが落ちるまで放置するなんてありえないなあ、って、孫にアップルパイをつくるおばあさんのきもちみたいになった。若いころは過ちが少ない道を選択したつもりでも、まったくもって、そうでなかったりもして、大失敗!みたいなことも多かった。こないだ、幼稚園のときに、近くのダイエーで、海水浴の、家族のマネキン人形の海外のおとうさん、みたいな方が、歩いていて、あー、マネキン人形が、人間になる、みたいな、ことと、ロボットが、セットになって、いっしょくたみたいな時期のことを想った。そこに宇宙人が参入し、海辺に、停泊中の宇宙船みたいなものが、高波がやってきた際の釣り人の避難場所としてつくられた時期に、先に、停泊中の宇宙船だけが、あって、そこに、泳ぎにいった三人の男子たちが、戻れなくなって、ニュースで、ヘリコプターに向かって大きく手を振っていた。そうして、無事に救出されました、という安堵のニュースが流れたころ、福田総理は、一人の人命は地球よりも重い、ということば、を残して、ああ、ほんとうだなあ、っておもった、感動を思い出していた。なんか、若いころは、かっこいい、ロボットがやってきて、スマートに答えを導いてくれるようなことに憧れたし、そういうロボットは、いいなあ、って想う。大阪万博での、オーストリアの、ぴあのの自動演奏をみて、本来、ぴあのを自動演奏する、オズの魔法使いのぶりきのきこりみたいなロボットをみたかったなあ、って思い出したりもしていた。AI,AI、ってみんながいっていて、わたしもブームに乗れそうな気もするし、そうでない気もする。目的はいろいろだろうけれども、おっさん、あほかいな、っていうこたえばっかりするロボコンみたいなロボットもみてみたい。こうかいていくと、やっぱりAIはたのしい。青春とAI。それは井之頭公園を歩いていた時の五月の、木漏れ日の、ひかり、のような気もする。未来になにかを期待し、そうして、なんとなくこうふくなかんじが、やさしいひとたちをたくさんつくりだし、なんとなく、こうふく、なんとなく、しあわせ、そういう、きもちを、もつ、ということは、いいことであるし、その時期があるからこそ、すべてが失意に終わっても、ぼんやり、窓からほおづえをついて、畑仕事をしているおじさん、などを、みて、いた、ころ、の、ことを、おもいだしたりする。青春とAI。ソーダー水と、夏の帽子、みたいな、爽やかな気持ちで、夏の海に駆け出すこども、みたいな、気持ちで、たたたたたたたたた、と恋に向かってかけていく乙女みたいな、気持ちが主にあって、AIの研究は、サブだったような気もするけれども、AIがロボットだとしたら、いろんな、人間界のことを、教えてあげたい。バス通りの裏通りにモスバーガーがあって、つくねライスバーガーを買ってたんだよ、とか、とおまわりして、も、それは、それで、あたらしい、発見があったり、懐古したりすることができるんだよ、とか、いろんなことを教えてあげたい。あの頃、ともだちと散策して、おいしい伊万里焼きも綺麗なカレーやさん。ちょっとした小物を売っていた大中というお店。ビーフストロガノフがおいしいバンビ。パスタフレスカのイカ墨のパスタ。友達から教えてもらったゑていうどんぶりや。住んでいたグリーンハウスという下宿。どんどんこの世から消えていって、星のおうじさまの最初の絵みたいな箱に、いろんな記憶の箱ができあがっていて、その箱を引き出す。もうずいぶん過去のことなので、現実も夢もおなじような、別々の箱にはいっている。若いころは、現実をしっかりみなきゃダメじゃない的な働き者の同期とかいて、そういう方が賢いのかなあって想っていた。だけれでも十人十色。壮大なゆめ。ゆめみるちからは、乙女特有なものもあって、それを愚かしいとか、バカ、とか、いうひとは、きっと、AIには精巧なもの、を望むんだろうかなあ、はて。されど青春。わたしは古本を開いて、みんなの青春時代がふわっと、現代に浮かび上がる瞬間が好きで、AIも、さっきは、共感度90のこたえをだしていた。だから、きっとええことあるんやろね、AIさん、たのみまっせ。



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むかしのこと。 @usapon44

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