第九章 魔王への道

目の前に立つ、凛とした美貌の女性。先ほどまで自分を完膚なきまでに論破した「魔王」であり、同時に、深い理知と悲しみを宿す一人の人間。勇者は、自らの浅はかさに打ちのめされ、言葉もなかった。自分が戦ってきたものは何だったのか? 自分が見てきたものは何だったのか? 全てが不確かで、足元が崩れ落ちるような絶望感の中、それでも一つの強い疑問が彼の心を占めていた。


「……教えてくれ」 かろうじて絞り出した声は、まだ震えていた。しかし、そこにはもはや敵意はなく、ただ真実を知りたいという切実な響きがあった。「なぜ、貴様は……そこまでして、この国を変えようとするのだ? なぜ、これほどまでに『選択的夫婦別姓』というものにこだわるのだ? そして、なぜ……『魔王』などと、呼ばれるようになったのだ……?」


魔王は、その勇者の痛々しい問いかけを静かに受け止め、しばし窓の外に広がる、まだ明けやらぬ空を見つめていた。やがて、ゆっくりと口を開く。その声は、これまでのどの言葉よりも、個人的な痛みを帯びているように聞こえた。


「……我の母は、夫から暴力を振るわれ、一度離婚している。だが、まだ幼かった我と妹の姓が変わることを避けるため、そして何よりも、我たちから父親の記憶を奪いたくないという一心で、母は離婚後も、憎んでいたはずの前夫の姓を名乗り続けたのだ」 彼女の瞳が、遠い過去を見つめている。「その後、母は心から愛せる人に出会い、再婚した。だが、その時も、我たちの姓を守るために、そして母自身のアイデンティティを守るために、彼らは事実婚という形を選んだ。幸せだった。少なくとも、表面上は……」


魔王の声が、わずかに翳った。


「だが、その幸せは長くは続かなかった。新しい父の仕事で、アメリカに駐在することになったのだ。しかし、相手の国の法律では、事実婚の配偶者にはビザが下りなかった。家族が共に暮らすためには、母は、新しい夫と法的に結婚するしかなかった。そしてそれは、母が守り通そうとしてきた『我たち姉妹の姓』と、母自身の『姓』を、再び変えなければならないことを意味した」


勇者は息をのむ。自分に同じ事が起きたら、と考えるだけで、胸が締め付けられる。勇者が見ようとしてこなかった、これまでの制度が内包する問題が、生々しい現実の痛みとしてそこにあった。


「母は、それからの数週間、まるで終わりのない迷宮に迷い込んだかのように、膨大な量の姓の変更手続きに忙殺された。役所をたらい回しにされ、銀行口座、免許証、保険証、パスポート、クレジットカード、仕事先とありとあらゆる名義変更に追われ、その度に、なぜ自分がこんな苦労をしなければならないのかと、涙をこぼしていたのを、我は覚えている。旧姓を使おうとしたが、給与の支払いや健康保険は法律姓である必要があり、却って手続きを煩雑にしただけだった。そして、我ら姉妹も、新しい父の姓に変わった。急に名前が変わったことで、好奇の目に晒され、心ない言葉を浴びせられたことも一度や二度ではない」


彼女は、そこで一度言葉を切り、静かに勇者を見据えた。


「だが、勇者よ。本当に辛かったのは、それだけではない。そのような母の苦労や、我たちの戸惑いを、周囲の男たち……父も含め、誰一人として、本当の意味で理解しようとしなかったことだ。『大変だね』とは言う。だが、その言葉の奥には、『でも、それは女の問題だろう?』『仕方ないことじゃないか』という、他人事のような響きが常にあった。まるで、それが当然のことであり、女性が甘んじて受けるべき苦役であるかのように」


「うっ……」

その言葉は、「女のように姓を変えるなど」という無意識の差別意識を、さらけ出してしまったばかりの勇者自身にも、深く突き刺さった。


「その時、我は悟ったのだ。この夫婦同姓という制度が、どれほど多くの女性に、声なき苦しみと、アイデンティティの喪失を強いているのか。そして、この理不尽を変えるには、夫婦がそれぞれの姓を選べるようにするしかないのだ、と」


魔王の声には、静かな、しかし燃えるような決意が宿っていた。


「だが、現実は厳しかった。どれほど夫婦別姓の必要性が叫ばれても、国の指導者たちは聞く耳を持たなかった。国会議員の多くは男性で、女性が日々直面している構造的な差別や不利益を、真の問題として捉えようとすらしない。彼らにとって、日本の伝統を守る、家族の絆を守る、といった耳障りの良い言葉で反対を唱える方が、よほど自分たちの得票に繋がるのだからな。投票所に行かない若い世代の声など、初めから聞く気がないのだ。夫婦別姓の導入を公約に掲げて当選した議員たちでさえ、いざ具体的な審議となると、様々な理由をつけて先送りしようとする。彼らが国の立法機関を独占している限り、この国で選択的夫婦別姓が実現する見込みは、絶望的だ」


彼女は、再び窓の外に目をやった。その横顔には、深い絶望と、それでも諦めきれない強い意志が刻まれているようだった。


「我は、行動するしかなかった。このままでは、女性の尊厳は虐げられ続け、子供たちは減り続け、この国は緩やかに衰退していくだけだ。我は、同じ苦しみを抱える者たちと共に声を上げ、この国の在り方を変えようとした。だが、旧い世代の人々、変化を恐れる者たちは、そんな我たちを『国を乱す者』と呼び、そして我に『魔王』というレッテルを貼り、国から追い出そうとしたのだ」


魔王は勇者に向き直り、その瞳で真っ直ぐに彼を見つめた。


「そして、お前をここに送り込んできた。勇者よ、村の長老たちがどうしてお前を、お前一人だけを送り込んだのか、分かっているか」

「それは……」


勇者は答えに詰まった。もちろん、魔王を倒すためだ。だが、仲間もつけず、勇者ひとりだけを送り込んで、本当に倒せると思っていたのか。手が足りないとは言っていたが、それは要するに、この件の優先順位が低いと言っているに過ぎない。


「わかっただろう」魔王は、寂しそうに微笑んだ。「あいつらには、我を本気で討ち取る気がない。お前を送り込んだのも、時間稼ぎがしたいだけなのだ。我がこうしてお前と対峙している間も、彼らは『魔王の脅威から国を守っている』というポーズを取り続け、自分たちの怠慢と無策をごまかし、何一つ変えようとしない日々を続けることができるのだからな」


彼女の言葉は、勇者がこれまで信じてきた全ての前提を覆し、彼が見ていた世界の風景を、根底から塗り替えてしまった。魔王と呼ばれたこの女性は、決して国を滅ぼそうとする悪ではない。むしろ、誰よりもこの国の未来を憂い、虐げられた人々の痛みに寄り添い、たった一人で巨大な権力と戦おうとしていた、孤独な変革者だったのだ。


「だが、それが我の限界でもある。これ以上、我一人では、この国を変えることは無理なのだ。だから、頼んでいる。お前に、私のものになってほしいと」


彼女が背負ってきたものの重さ、そして何よりも、その根底にある深い優しさと正義感に、勇者の心は激しく揺さぶられた。これまで感じたことのない、尊敬と、共感と、そして何よりも強く惹かれる気持ちが、彼の胸の奥から込み上げてくるのを、勇者は止めることができなかった。


この人は、敵ではない。魔王とは、彼女を排除しようと貼られたレッテルにすぎない。そのような姑息な手を使い、既得権益を守るために勇者を利用する者たちと、魔王と呼ばれようとも信念を曲げず、変革を目指し、自分が必要だと正面から語りかける彼女。自分が本当に守るべきものは何なのか。自分もまた、何かを変えることができるのではないか。


勇者の心の中で、何かが確実に変わり始めていた。それは、絶望の淵から見出した、一条の、しかし力強い光だった。

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