第十章 ただひとりの理解者
「……だが、なぜだ……?」
勇者は、 ほとんど吐息に近い声を絞り出した。その瞳は、深い混乱と、自己への絶望に濡れていた。
「なぜ、こんな俺なのだ……? 何も見えていなかった、浅はかで、愚かで……そんな俺に、一体何の価値があるというのだ……? 俺は、貴様の敵だったはずだ……!」
彼女――かつて魔王と呼ばれた女性は、その勇者の痛々しい問いかけを静かに受け止めた。その眼差しに潜む深い悲しみが、今の勇者にははっきりと感じられる。
「価値がない、だと? 勇者よ、お前はまだ己の真価を理解しておらぬ」
彼女の声は、厳しさではなく、むしろ確信に満ちた響きを持っていた。
「我が欲したのは、初めから全てを見通す賢者ではない。お前のように、たとえ歪んだ形であっても純粋な『正義』を信じ、傷つき、悩み、そして自らの過ちと無知に正面から向き合い、その厚い殻を内側から打ち破って真実を見つめようともがく者だ。その痛みを伴う変革の過程こそが、何よりも雄弁なのだ。お前が今感じている絶望は、無知で偽りの自分を殺し、真の理解者として生まれ変わるための産みの苦しみだ」
彼女は一歩、勇者に近づいた。その瞳には、強い意志の光が宿っていた。
「我は、お前がここにたどり着くまでの旅路を見てきた。お前は、古い世界の住人の心も、新しい世界の理も、その身をもって知っている。その両義性と、何よりもその『痛みを知る心』こそが、凝り固まった人々の心に届く稀有な力となる。我の言葉は、時に『魔王』というレッテル故、時にその正しさ故に、人々の耳を塞がせる。だが、お前ならば……お前がその口で語る真実ならば、あるいは……!」
その言葉は、勇者の打ちひしがれた心に、かすかな、しかし確かな熱を灯し始めた。自分が経てきた苦悩が、無価値なものではなかったのかもしれない、と。
彼女は、その勇者の表情の変化を見逃さなかった。膝をついている勇者に、手を差し伸べる。
「勇者よ、我と共に来い。お前が打ち砕かれた『守るべきだったもの』の代わりに、真に守る価値のある未来を、この手で築くのだ。一人ひとりがその尊厳を誰にも侵されることなく、自らの足で立ち、自らの意思で生きられる、まだ見ぬ新しい世界を、共に創ろうではないか!」
その声には、揺るぎない決意と、共に歩む者への熱い期待が込められていた。
勇者は、彼女の言葉と、その瞳に宿る揺るぎない意志に圧倒され、しばらく沈黙した。彼の心の中で、絶望と、かすかな希望、そして目の前の女性への畏敬の念にも似た新しい感情が入り混じる。
勇者は、ゆっくりと顔を上げ、手を差し伸べる彼女の瞳をじっと見つめた。勇者の胸の中で、心臓がうるさいぐらいにドクンドクンと跳ねている。勇者にはない遥か遠くを見渡す視座、確かな未来へのビジョンをもつその目が、自分が必要だと、そう言ってくれている。間違えてばかりの自分も、この人と一緒なら、共に新しい世界のために歩むことができれば、あるいは……。
彼女の手を取ろうとした勇者の手が、寸前で止まった。
「どうした?」
ふと、彼女の申し出を現実のものとして考え始めた瞬間、これまでの議論で最も彼を苦しめ、そして最も本質的だと気づかされた問題が、彼の思考の表面に浮かび上がってきた。勇者は顔を伏せる。
「二人で共に歩む……そのためには、最後に一つだけ、いや、最初に解決しなければならない問題が、残っている」
勇者は、もう一度顔を上げ、彼女の目を見つめる。
「俺と、お前の……その、呼び名、いや……『姓』の問題だ」
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