第六章 灯は己の中に

(もう、俺には何も言い返せないのか…? だが、ここで思考を止めてしまえば、それこそ魔王の思う壺だ。守りたいもの…そのために最も望ましい仕組み…?)

「クソッ、考えてやる、考えてやるとも!」


敗北感と、最後の意地にも似た反骨精神が入り混じった感情が、勇者を突き動かした。彼はゆっくりと顔を上げ、虚空を睨むように思考の海に沈み込んでいく。


魔王は、玉座に深々と腰を下ろし、静かに言った。「言葉に出しながら考えてみるが良い。その方が思考もまとまるであろう。お前の結論が出るまで、我は口を挟まぬ」


勇者の脳裏には、これまでの議論が渦巻いていた。静かに口を開き、考えていることを整理していく。


「個人が法的に使える名前があるとすれば、それはどこかで記録されていなければならない。日本では、それは戸籍だ。名前として戸籍に書いてあれば法的に使えるというのは、今と同じだ、問題ない」


魔王は、一人考えをまとめる勇者の姿を静かに、しかし鋭い眼差しで見守っている。


「だが、結婚で姓を変えた人がいるとしよう。旧姓も新姓も法的に有効な名前と認めてしまえば、魔王が指摘した通りの大混乱が起きるだろう。誰が本当は何という名前なのか、社会が把握できなくなる。再婚を繰り返した場合、なおさらだ。一人の人間が持つ法的な姓は、常に一つであるべきだ。それが混乱を避ける大原則のはずだ」


独り言を言いながら、勇者は今までにないほど考えに没頭していた。では、どうすればいい?


「一方、現行の戸籍は、家族の名前『氏』として姓を記載している。結婚したら一緒の戸籍に入る、そしてどちらかの姓に統一する、というシステムは、社会の安定のために維持すべきだ」


魔王は身じろぎしたが、何も言わない。


「だが、個人の名前として、旧姓を使い続けたいという人に、法的な裏付けをするためには、もうひとつ姓を記載しなければならない。クソッ、言ってることが矛盾してる」


勇者は左手で額を押さえた。思考が行き詰まり、苦悶の表情を浮かべる。


「通称ではダメだった……法的根拠がなければ、それは『宙に浮いた名前』でしかない……」


その時、魔王が静かに口を開いた。「どうした、勇者よ。思考の袋小路か? 原点に立ち返ってみるのだな。何が問題で、何を守りたいのか。そして、矛盾をどうすれば乗り越えられるのか」


その言葉が、まるで暗闇を照らす一筋の光明のように、勇者の思考を新たな方向へと導いた。


(矛盾を乗り越える…? 戸籍上の『家の名』の統一と、個人の『法的な姓』の維持…この二つを両立させる方法…?)


不意に、勇者の目に閃きが宿った。


「……!そうだ! もしや、答えはそこにあるのではないか!? 結婚して戸籍上の『家の名』は一つに統一する。例えば、AさんがBさんと結婚して、戸籍上は『B家』となる。Aさんは戸籍の記載上、筆頭者であるBに合わせてB姓となる。だが!」


勇者は興奮に身を乗り出した。


「もしAさんが望むなら、その戸籍に、彼女の『旧姓であるA』こそが、彼女の社会生活における唯一の法的な氏名である、と記録するんだ! つまり、戸籍の『家の名』、あるいは戸籍筆頭者の姓はBだが、Aさん個人を法的に示す姓、社会的に通用する公的な姓は『A』ただ一つ。これで、家の名は統一されつつ、個人の元の姓も法的な力を持って、しかも唯一無二の姓として使える! これなら複数の法的氏名が乱立する混乱もないし、改姓の苦痛も実質的になくなる! 通称のような曖昧さもない! これこそが…!」


勇者は、まるで世紀の発見でもしたかのように、紅潮した顔で魔王を見つめた。自分が考え出したこの方法ならば、全ての矛盾を解決できるはずだ、と。


魔王は、その勇者の熱弁を静かに聞き終えると、その仮面の下で、ふっと息を吐いたのが分かった。それは安堵のようでもあり、あるいは長年の苦労が報われたかのような、微かな感慨のようでもあった。

そして、魔王は静かに、しかしはっきりと告げた。


「…よくぞ辿り着いた、勇者よ。お前が今、ひねり出したその『解決策』――戸籍上の家族の呼称としての姓とは別に、個人の法的な活動名として旧姓を唯一有効なものとして記録し、その使用を全面的に認める、というその考え。それこそが、まさしく、お前が『邪法』と呼んで忌み嫌い、我がこの国にもたらそうとしている変革――すなわち『選択的夫婦別姓制度』が目指す、個人の尊厳と法的安定性を両立させるための一つの具体的なあり方、その核心なのだ」

「な……」


勇者は、雷に打たれたかのように立ち尽くした。

自分が、忌むべき魔王の企みとして全力で否定し続けてきたものが、今、数々の議論の果てに、自分自身の思考の中から、最も合理的で、最も個人の尊厳を守れる「解決策」として導き出されてしまったというのか。守ろうとした伝統、守ろうとした秩序、それらが内包していた矛盾や不合理の先にある答えが、これだったというのか。

彼の足元で、彼がよじ登ってきた価値観の塔が、音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。

自分が戦ってきた相手は、そして自分が否定してきたものは、一体何だったのだろうか。

その衝撃は、あまりにも大きかった。

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