第五章 宙に浮いた名前

「……魔王よ、ならばこれならどうだ?」


勇者は、もうひとつ見つけた反撃の糸口をたどり、いま一度、魔王に立ち向かう。


「職場や日常生活で、旧姓などの『通称』を名乗ることを、もっと社会全体で広げ、認めていく。戸籍の名は変えずとも、実生活での不便は、それでかなり解消されるのではないか? それならば、大きな制度変更も必要なく、多くの人が救われる道になる。性急に法制度を変更するより、良いのではないか?」


その声には、最後の望みを託すような、かすかな期待が込められていた。これこそが、大きな波風を立てずに済む、現実的な妥協点ではないかと。

魔王は、その勇者の提案を静かに聞いていた。そして、ゆっくりと首を振る。その眼差しは、諭すようでありながら、どこか厳しい光を宿していた。


「勇者よ、その『通称使用の拡大』は、確かに一見、現実的な妥協案に聞こえるやもしれぬ。しかし、それはあくまで『通称』、法的な裏付けを持たぬ仮の名に過ぎぬことを忘れてはならぬ。二つの名を使い分ける煩雑さは、むしろ人々の負担を増やす。経団連の調査では、通称を使用している女性役員の実に八十八パーセントが、何らかの不便や不利益を感じている。この事実を、お前はどう受け止める?」

「仮の名……だが、社会がそれを認めれば……」

「公的な証明書、法律行為、銀行取引の多くでは、依然として戸籍上の本名が求められる。病院で公的保険を使う、運転免許や教員免許・医師などの国家資格をとる、不動産や会社の登記、住宅ローン、それらを法的な裏付けがない通称でできるようにする方が、社会が混乱するのではないか?」

「うぐぐ……」


歯ぎしりをする勇者にかまわず、魔王は、さらに言葉を続ける。


「そして、国際的な場面では、その限界はさらに露呈する。外国の出入国管理や警察、医療機関でそれが常に正式な身分証明として認められる保証はどこにもないのだ。実際に、パスポートの姓とクレジットカードや航空券の姓が異なることで搭乗を拒否されかかったり、身分証明に延々と時間を要したりする悲劇は、後を絶たぬ。研究者が国際学会で、論文の著者名と旅券名が違うために不必要な疑念を抱かれ、旅費が支払われないとか、その実績や信用に傷がつくことすらある」

「いや、待て」勇者は魔王の話を遮った。「聞いたぞ、パスポートに旧姓が併記できるようになったと。それで解決だろう!」

魔王は手を振る。「馬鹿馬鹿しい。確かにできるようになったが、国際的に通用しないのだ。というか、他の国では、旧姓併記という概念が理解されない。何しろ、結婚で姓の変更が強制されるのは世界で日本だけだからな。それに、パスポートのICチップには旧姓は記録されない。国際規格に旧姓などというものを扱う機能がないからだ。パスポートに根拠のないもう一つの姓が書いてあっても、外国の人には理解できず、入国を拒否されたり、ホテルの宿泊を拒否されたりすることが、現実に起きているのだ。これでは、世界で活躍しようとする者の足を、制度が引っ張っているようなものではないか?」


勇者の顔から、最後の希望が消えていくのが見て取れた。事実婚も、通称使用も、彼が探し求めた「逃げ道」や「妥協点」とはなり得ない。むしろ、問題をより複雑にし、新たな苦しみを生む可能性すらある。

魔王は、決定的な一撃を加えるかのように言った。


「さらに言えば、勇者よ。法的な根拠のない通称の使用範囲を無秩序に拡大することは、かえってなりすましや偽造の温床にもなりかねない。誰が法的に誰なのかという明確性が失われれば、行政は混乱し、契約社会の安定も揺らぐ。それは、お前が危惧した戸籍制度の混乱とは別の、しかし同様に深刻な問題を引き起こしかねんのだ」


魔王の言葉は、勇者に現実を突きつけた。小手先の解決ではダメなのだ。だが、小手先ではない解決法なら? 

勇者は叫んだ。


「そういう混乱が出ないようにルールを決めておけばいい話だ。魔王なら、そのぐらいのこと、分かるだろう」


魔王はため息をついた。


「使える名前にルールを決めるというのは我は賛成だ。だが、法的な手続きにおけるルールのことを法律というのだぞ。勇者よ。つまりそなたのいっていることは、法制度の変更だ」


勇者はがっくりと膝をついた。制度の変更を避けるための自分の反論が、結局は制度の変更を提案しているとは。

魔王は、勇者の心の変化を見透かしたように、静かに、しかし力強く言った。


「真に個人の尊厳を守り、社会の無用な混乱を避けるためには、その場しのぎの弥縫びほう策ではなく、明確で、公正で、そして法的に安定した『制度』そのものを見つめ直す必要があるのだ。お前が本当に守りたいものは何か。そのために、どのような仕組みが最も望ましいのか。それを、今一度考えてみる時ではないか?」


その問いかけは、次の扉を開く鍵のように、玉座の間に響き渡った。

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