魔王と別姓と勇者
浅焔 透
第一章 玉座の間
「魔王! 貴様の野望もここまでだ!」
月の光すら遮る暗雲立ち込める魔王城。その最深部、玉座の間に、一人の若者の声が響き渡った。黒曜石を磨き上げた床に、聖剣の切っ先を向け、息を切らしながらも勇気を奮い立たせるその男こそ、単身魔王討伐に乗り込んできた勇者であった。
段上にある玉座に深々と腰を下ろす魔王は、しかし、その敵意に満ちた言葉にも、余裕を崩さない。玉座から流れ落ちる紫紺のマント、顔には黒鉄の仮面をつけ、手には七色の宝石が輝く錫杖を持ったその姿は威圧感に満ちているが、声色は穏やかだった。
「ほう、一人でここまで辿り着くとは。褒めて遣わそう、勇者よ。その魂の輝き、この国に新たな夜明けをもたらすためにこそ必要だ。我がものとなり、我が理想の成就に、力を貸せぬか?」
「何を馬鹿なことを! 貴様が目論む『選択的夫婦別姓』などという邪法、この俺が必ず阻止してみせる! 日本を、貴様の好きにはさせん!」
勇者の声は、彼の純粋な正義感と、故郷で聞かされてきた「古き良きものを守るべき」という教えに裏打ちされた、真摯な怒りに満ちていた。
魔王は興味深そうに片眉を上げた。
「邪法、か。勇者よ、お前は一体、何をもってそれを邪法と断じるのだ?」
「決まっている! 夫婦が別々の姓を名乗るなど、家族の一体感を失わせる元凶だ! 家族の絆が薄れてしまうではないか! 俺が、いつか築くと夢見た温かい家庭、その姿とはあまりにもかけ離れている! 俺は、そんな家族のあり方を認めるわけにはいかないのだ!」
勇者の言葉には、彼が大切に育んできた、そして将来必ず実現させたいと願う家族の理想像が色濃く反映されていた。それは、彼にとって譲れない一線だった。
魔王はくつくつと喉を鳴らして笑った。
「絆、ね。勇者よ、お前がそこまで『姓の統一』という目に見える形にこだわるのは、それが揺らぐことへの恐怖心からか? それとも、お前自身が、それ以外の絆の形を、真に理解しようと努めたことがないだけではないのか? 家族の絆とは、同じ姓を名乗ることのみによって育まれるものなのか? 愛情、相互の尊重、共に過ごす時間、そういったものよりも、紙に記された文字の方が重いと申すか?」
「そ、それは…しかし、現に多くの者がそう感じている! 姓の統一こそが、家族の証なのだ!」
「ふむ。世界の多くの国では夫婦別姓やその選択が認められているが、それによって家族の絆が損なわれているという客観的なデータは存在しないぞ、勇者よ」 魔王は淡々と続ける。「日本国内とて、国際結婚の夫婦や、様々な事情で夫婦や親子で姓が異なる家族は既に数多く存在する。彼らの絆が薄いと、お前は断言できるのか?」
勇者は言葉に詰まる。確かに、隣村にも国際結婚をした夫婦がいたが、彼らが不仲であるという話は聞かなかった。彼の「常識」が、目の前の魔王の言葉によって静かに揺さぶられていく。
それでも、勇者はもう一つの大きな懸念を、正義感に燃える瞳で口にした。
「だとしても! 夫婦同姓は、我が国日本の何千年にもわたる伝統であり、文化なのだ! それを破壊するつもりか!」 これこそが、多くの人々が最も恐れていることの一つだと勇者は信じていた。先祖代々受け継がれてきたものが、目の前で壊されようとしている。その危機感が彼を突き動かしていた。
魔王は、その言葉を待っていたかのように、ゆっくりと立ち上がった。
「伝統、そして文化か。勇者よ、お前はいつから夫婦同姓が法律で義務付けられたか知っているか?」
「え……? それは、ずっと昔から、それこそ武士の時代から……」
「残念ながら不正解だ。夫婦同姓が法律で義務付けられたのは、1898年、明治31年の明治民法からだ。それ以前、例えば武士階級においても、妻が実家の氏を名乗り続ける例は珍しくなかった。例えば、北条政子が良い例だろう」 魔王は、歴史の教科書を紐解くように語る。「さらに言えば、1876年、明治9年の太政官指令では、妻は実家の氏を名乗るべきである、とされていたのだぞ」
「そん、な……馬鹿な……」
勇者は愕然とする。信じていた「日本の伝統」が、実は高々130年ほどでしかなかったという事実に、勇者は頭を殴られたような衝撃を受けた。
「文化や伝統とは、固定化されたものではない。時代とともに変化し、発展するものだ。明治期に確立された制度を、絶対不変の『伝統』として固守することこそ、歴史のダイナミズムを無視する行為ではないかな」
「ええい、うるさい!」勇者は、剣を振り回しながら叫ぶ。「お前を倒せば,全てが解決するのだ!」
「まずはその剣を収め、我が話を聞いてみる気はないか? それで、そなたが辿り着いた結論が我を倒すことなら、それでもよい。だが、まずは考えて見てほしいのだ」
魔王は、再び玉座に腰を下ろし、慈悲深くも、有無を言わせぬ力強さで勇者に語りかける。
「勇者よ。お前が真に守りたいものは何なのか。そして、我が真に目指すものは何なのか。それを知りたくはないか?」
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