第二章 守るべきもの
魔王の投げかけたその疑問は、勇者が旅の間、ずっと抱えてきていたものだった。魔王は一体何を理想としているのか? 自分は何を守るために送り出されたのか?
しかし、そう簡単に目の前の魔王の言葉を鵜呑みにしていいわけがない。まずはあの「邪法」が内包するであろう具体的な欠陥を突きつけ、やはり自分の信じる正義が正しいことを証明せねばなるまい。勇者は、聖剣を構えたまま魔王の誘うような視線から目をそらし、息を一つ大きく吸い込んだ。
「……分かった。話だけは聞いてやる。だが、貴様の言う『理想』とやらは、この国の根幹を揺るがしかねない重大な欠陥を抱えている……はずだ」
勇者は、長老の話を思い返す。魔王は、この国の基礎を支える、重要な制度を破壊しようとしている、と。
「そうだ、戸籍制度だ! 貴様の邪法は、戸籍制度を破壊するものだ。同じ姓を名乗る家族を単位として戸籍は編制されるのに、別姓となれば、バラバラになってしまうではないか! 親子の関係、兄弟の関係は、紙の上でどう明確に証明されるというのだ? それが曖昧になれば、相続や身分証明で大混乱が起き、社会の秩序が根底から覆るぞ! それでも、貴様は事を進めるというのか!」 勇者の声には、長年信じてきた社会の仕組みが崩れ去るかもしれないという、切実な恐怖が滲んでいた。
魔王は、その勇者の必死の訴えを静かに受け止め、そして、諭すように口を開いた。
「勇者よ、その懸念は理解できる。変化というものは、常に未知への不安を伴うものだからな。だが、戸籍制度について、具体的な対応策が既に数十年も前から専門家たちによって検討されていることは知っているか?」
「専門家だと……? そんな、付け焼き刃の対応でどうにかなるものでは……」
「例えば、だ」魔王は続ける。「戸籍の個人の『名』の欄を『氏名』と改め、各人についてフルネームを記載する。これにより、夫婦が別姓であっても、一つの戸籍に家族全員が記載され、親子兄弟の関係も明確に示される。何も、戸籍という仕組み自体が消滅したり、家族関係が不明になったりするわけではない」
魔王は、つま先でコツコツと床をつつきながら、優しく言い聞かせるように語り続ける。
「お前が恐れる『崩壊』や『混乱』は、具体的な解決策を知らぬが故の、未知への恐怖ではないかな? あるいは、変化そのものを拒絶したいという、心の奥底にある願望の表れやもしれぬぞ」
魔王の言葉は、勇者が抱いていた「どうしようもない混乱」というイメージを、具体的な論点で切り崩していく。勇者は、自分の不安が、もしかしたら単なる情報不足から来ているのかもしれないと感じ、内心焦りを覚えた。それでも、まだ彼には看過できない疑念が残っていた。
「……それだけではない! 姓がバラバラになれば、素性の知れぬ外国人が日本人になりすまし、この国に入り込むことも容易になるのではないか! そういう話も聞いたことがある! 最近では、巧妙な手口で国の制度を悪用する者もいると聞く。国際化が進む中で、そうした悪意ある者が入り込めるような穴をわざわざ開けるとは言語道断!」
魔王は、その言葉に眉をひそめ、首を横に振った。
「勇者よ、それは根本的な誤解に基づいた、そして意図的に広められた恐怖心だと言わねばなるまい。まず大前提として、外国人が日本人と結婚したからといって、自動的に日本国籍を取得できるわけではない。国籍の取得には、法律で定められた厳格な要件と手続きが必要だ」
「む……それは、そうかもしれんが……」
「そして、ここが重要な点だが」魔王は言葉に力を込めた。「日本の現行制度において、国際結婚の場合、外国人の配偶者は、姓は変わらない。結果として、国際結婚の夫婦は、一部の例外を除き、既に『夫婦別姓』で生活しているのが実態だ。選択的夫婦別姓制度で、外国人配偶者の扱い方は一歳変わらないのだぞ。この選択的夫婦別姓制度は、あくまで日本人同士の夫婦のための選択肢を増やすものであって、外国人の国籍や身分登録とは全く別の話だ」
魔王は一息つき、諭すように続けた。
「そのような誤った情報が、なぜまことしやかに語られるのだと思う? それは、異質なものを恐れ、無知につけ込んで排斥しようとする人々の心の弱さや、あるいは特定の意図を持った者による扇動ではないかな? 我の目指すものは、混乱やなりすましを助長することではない。むしろ、一人ひとりが法的に明確な立場を持ち、尊厳を保てる社会だ。そのために、現行制度の不備や、人々の間に広がる誤解をどう乗り越えるか、という建設的な議論が必要なのだ」
魔王の理路整然とした説明に、勇者は返す言葉も見つからない。彼が盾としてきた主張が、また一つ、音を立てて崩れていく。勇者の心に、これまで感じたことのない種類の疑念が、小さな芽を出し始めていた。
魔王は、その勇者の心の揺らぎを見透かしたかのように、静かに言った。
「勇者よ、物事の一面だけを見て、それが全てだと断じるのは危険だ。お前が守ろうとしている『日本』や『秩序』において、最も大事なものは何なのだ? 戸籍の形式よりも守りたいものがあったのではなかったか?」
魔王の問いが、静まり返った玉座の間に重く響く。勇者は、聖剣を握る手に、知らず知らずのうちに力が入っていることに気づいた。それは怒りからか、それとも己の不甲斐なさからか、判然としなかった。
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