遠く、深く、私だけの声

「……お母さん」


夜の台所。冷蔵庫のモーター音がかすかに鳴るだけで、家全体がひどく静かだった。


「……ねえ、お母さん」


私の声に、誰も応えない。返ってくるのは沈黙と、微かにきしむ床板の音。


けれど、私は知っている。


そこに誰かがいることを。


数週間前から、私は“誰か”の声を聞くようになった。


それは、私の背中にぴたりと張り付くようにして語りかけてくる。「やめたほうがいい」「それは間違ってる」「また怒られるよ」「誰にも言えないね」「バレたら終わりだね」


誰かに見られているわけじゃない。けれど、まるでこの“声”が、私の一挙手一投足を監視しているかのように、鋭く、冷たく、そして時折、妙に優しく話しかけてくる。


最初は、夢かと思った。次に、幻聴かと思った。


だけど違う。“あの声”は現実だ。証拠なんてない。だけど確信がある。


そして、あの声は、日に日に私に近づいてくる。


ある日、通学路で聞こえた。「あの子、あなたの秘密知ってるよ」


その“あの子”は、たまたま私の後ろを歩いていたクラスメイトだった。私は振り返り、何も言わず、ただ睨んだ。


次の日、“あの子”は登校してこなかった。


「よくやった」と、声が言った。


そこからだった。私は、抗えなくなった。あの声が命じるままに、無視をして、無表情で睨んで、時には……些細な、ほんの些細な暴力を振るった。


誰も何も言わない。みんな私を避ける。怖がっている。先生たちも見て見ぬふりをする。


私の周囲には、空白ができた。透明な壁のようなものができて、誰も近づけなくなった。


「これでいい。あなたは間違ってない」


その声が、唯一私を肯定してくれる。


だけど――どうして涙が止まらないのだろう。


鏡を見ると、泣き腫らした目の私がいる。記憶があいまいな夜が増えた。朝になると制服が濡れていたり、筆箱の中身が無くなっていたりする。


「……わたしは、おかしくなったの?」


そう問うと、声は静かに言った。


「元からそうだったんだよ。だから、わたしが来たんだ」


「……誰、なの……?」


答えはなかった。


だけど、その夜から、声は少しずつ姿を見せるようになった。窓に映る黒い影。電車の中、窓に写る自分の目が少しだけ違うこと。


何より怖いのは――その影が私と同じ制服を着ていたこと。


もしかして、私の中にはもう一人、私がいるのだろうか。


そう思った時、私はもう、自分で自分が制御できなくなっていた。


誰かがノートを落とすと、私は何も言わずに踏んづけて通り過ぎる。教室で誰かが咳をすれば、私はその子の机を無言で蹴る。


周囲の目が冷たくなる。


それでも、声は優しく言う。


「誰も、あなたの味方じゃなかったじゃない」


「でも、私は違う。ずっと一緒だよ」


「ずっと、一緒にいようね」


その言葉に、私は救われる気がした。


けれど、ある日の放課後。


ひとりの男子生徒が、私に話しかけてきた。


「なあ、最近、お前……誰かと話してるの、見た。いや、ひとりなのに……変だよな。だいじょうぶか?」


私は答えなかった。


代わりに、声が言った。


「こいつは危険だね」


「消しちゃおうか?」


私は……うなずいた。


――その夜、私は、夢の中で彼の叫び声を聞いた。


次の日から彼は、学校に来なくなった。


「よくやったね」


声は褒めてくれる。


でも私は、どこかで気づいていた。


この声は、私の中の“もう一人の私”ではない。


もっと……別の何かだ。


気づいた頃にはもう遅かった。


私の中に、その“何か”が、根を張っていた。

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声が聞こえる 誰かの何かだったもの @kotamushi

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