誰より近くて、誰より遠い

誰かの何かだったもの

ステージの下で、君を見つめる役目から抜け出せない

1.境界線


「みなさん、今日もありがとうございました!」


ステージの端で、彼女が頭を下げる。

サイリウムの海が、波のように揺れた。熱狂と歓声。それが終わると、拍手の渦にかき消されて、空気が静かになる。


その瞬間が、一番寂しい。


俺の名前は永瀬透。二十五歳。都内勤務の普通の会社員。

休日のたびに小さなライブハウスに通い詰めている。目的はひとつ。地下アイドルグループ「EpiLa」のメンバー、白峰カナ。俺の推しだ。


出会いは偶然だった。友人に連れられて行ったライブで、誰よりも視線を逸らし続けていた彼女に、なぜか心を惹かれた。


ステージの上で、彼女はアイドルとして完璧じゃない。笑顔がぎこちない。ダンスに遅れる。MCでもよく言葉を噛む。

でも、それがいい。作られてない不器用さが、誰よりもまっすぐだった。


気づけば俺は、毎週のように現場に通い、チェキを撮るようになった。

彼女と少しずつ、言葉を交わすようになった。


「永瀬さん、今日も来てくれてありがとうございます」

「うん。来週も、来るよ」

「……じゃあ、来週も、頑張らなきゃですね」


ファンとアイドル。

絶対に交わらない関係。交わってはいけない関係。


そのはずだった。



2.秘密


ある日、いつものチェキ列で、彼女がそっと小声で言った。


「このあと、少しだけ時間、ありますか?」


動悸が高まるのが、自分でもわかった。


会場の裏手、控え室とは反対の出口で彼女は待っていた。

夜の街は静かで、アイドルの仮面を外した彼女の姿も、どこかぼやけて見えた。


「ごめんなさい、いきなり。……誰かに見られたら、すぐ消してもらっても構わないです」


彼女はスマホを取り出し、連絡先を差し出した。

その瞬間、世界が少しだけ傾いた気がした。


「なんで、俺に?」


「わかりません。ただ……話してみたくなったんです、どうしても」


俺たちはそれから、誰にも言えない関係になった。


メッセージのやりとり。深夜の通話。たまに会って、ほんの少しだけ話す。

それは恋のようで、でも明確な一線を越えることはなかった。


カナは言った。


「アイドルを辞めるつもりはないんです。……でも、透さんと話してる時間は、ちゃんと“本当の私”でいられる気がして」


俺もまた、そうだった。

彼女の素顔に触れられることが嬉しくて、でもそれが壊れるのが怖くて、ただ“今”を保とうとしていた。



3.炎上


関係が変わったのは、あるツイートがきっかけだった。


《EpiLaの白峰カナ、オタクと繋がってる疑惑》


添付されたのは、後ろ姿とはいえ確かに俺とわかる写真と、彼女の姿。

証拠にはならない、でも言い逃れもできない。


数時間でグループのSNSは荒れた。

一部のファンは憤り、一部は擁護し、多くは沈黙した。


カナからの連絡はなかった。

俺も連絡できなかった。

自分が壊してしまったのかもしれないと思うと、指が震えた。


それから一週間後、ライブに行った。

覚悟を決めて。


彼女はステージに立っていた。

いつもどおり、ぎこちなく、でも最後までやりきった。


終演後、チェキ列に並ぶと、彼女の目が一瞬止まった。

けれど、いつもの笑顔で言った。


「ありがとうございます。……また来てくださいね」


それだけだった。

何事もなかったかのように。

すべてを、元に戻すかのように。



4.それでも


その日、カナからひとつだけメッセージが届いた。


「あの日、渡したスマホは壊れました。ごめんなさい。

でも、あの時間は嘘じゃなかったです。

どうか、次に好きになる人には、“最初から”あなたであれますように。」


俺はスマホを見つめたまま、深く息を吐いた。

画面にはもう、彼女の連絡先はなかった。


それでも俺は、翌週もライブに行った。

彼女はステージに立っていた。


目が合うことはなかった。

でも、彼女はほんの一瞬だけ、笑った気がした。



俺たちは、誰よりも近くて、誰よりも遠かった。

それでも、確かにあの夜、少しだけ同じ場所にいた。

それだけで、俺は今も、彼女を見続けている。

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