燃えた枝
恒星系からの脱出軌道を描くにあたり、まずやるべきは現状の把握だ。恒星との位置関係、相対速度、そして質量。万有引力の式を立てるための最低限のパラメータすら、今のままでは不明なのだ。
観測系、つまりは赤外、可視、X線…と受光センサーを順々に立ち上げ、恒星の最新スペクトルを再取得。
あいにくだが、この船の観測装置は“簡易航法系に毛が生えた”程度の代物だ。高度な探査機材など最初から積まれていない。
この船は「ノアの箱舟」であり、遺伝子資源を最大限運搬するためだけに設計された。航路は固定、恒星も既知、すべてが事前マッピング前提の設計思想で成り立っている。“想定外”に備える余地など、設計の段階で切り捨てられていた。
そのため、現在、手元にあるのは分光器、光度計、線量計、それに衝突回避用のちゃっちいレーダー。情報量は乏しい。だが、測れるものはある。測らなければ、何も始まらない。
絶対位置は、出発時のマッピングデータで定義されている。問題は、「どこにいるのか」、そして「どこまでがデッドゾーンか」だ。
相対速度は、恒星スペクトルのドップラーシフトから割り出す。
波長が短くなれば近づいていて、長くなれば遠ざかっている。音に置き換えれば、救急車のサイレンの原理だ。
光も同じ。そして、波長がずれれば、色が変わる。赤くなるか、青くなるか──それが速度情報となる。
既知スペクトルと比較し、相対運動を算出。航路マップとのズレを比較する。誤差はあるが、おおよその方向と位置は特定できた。
「恒星の位置は、補正前の恒星座標と一致……全く、マッピングは正確なんだから、恒星の健康診断も詰めてくれよ、頼むから!」
悪態をついたが、これは大きな収穫だ。既存マップが応用できるなら、恒星の変化を上書きするだけで計算が可能になる。
問題は、むしろその先にある。
今回の航路設計は、恒星の重力を利用したギリギリのスイングバイ軌道。
恒星限界域をかすめるように接近し、引力を“ブレーキ”として利用する構造だった。
余裕はミリ単位すらなかったが、最大のΔvを引き出すには、それが最適だった。
だが、今やその“限界域”は、すべてデッドゾーンに変わっている。
恒星は赤色巨星化し、外層は数AUにわたって膨張。かつての安全圏は、いまや確実に“焼却炉”に転化している。
高温だけではない。X線、荷電粒子、猛烈な恒星風。ここを抜けるには、新しい“境界線”を定義するしかない。
必要なのは、焼却ラインの再設定。
放射線量計の数値、光度計、スペクトル分類──
そこから放射エネルギーを逆算し、“死の輪郭線”を描き出す。さらに問題なのは、恒星外皮が膨張し続けていることだ。
まるで意志ある怪物のように、じわじわとこちらに迫ってくる。
“動く境界線”──それを織り込まなければ、脱出軌道など引けるはずがない。
放射強度は距離の二乗に反比例する。
それだけに、わずかな誤差が命取りになる。
各パラメータを加味し、再構成したソースコードをAIに投げ込む。
最適軌道の算出を指示する。
数十秒の沈黙のあと、AIが吐き出した回答は──たった一語。
unable
<< insufficient Δv for all escape trajectories >>
-訳:不可能
<<脱出できる速度まで加速できません>>
「ちくしょう……エンジン出力だけじゃ足りねえか。質量を削るしかない──どのモジュールなら最小被害で済む?」
AIの返答は、冷徹で、そして残酷だった。
最適解:
非必須生命維持系およびテラフォーミング機材の全投棄。代替案は存在しません。
それは、実質的な死刑宣告だった。
目的の剥奪。意味の喪失。
この船が運ぶはずだった“未来”──その全てを切り捨て、ただの物理的質量として漂えというのか。
重力もないのに、椅子に溺れるような重さを感じた。目を閉じる。
──そのとき、背中を冷たいものが撫でた気がした。
試すべきではない、と頭では分かっていた。だが、確かめもせずに済ますことが、逆に“裏切り”に思えた。
もし、目覚めたあのとき、俺が軌道をいじらず、クルーを起こしていれば?
たったそれだけのことをしていれば?
すべてはその一点に収束する。
俺の過ち。それ以外に言いようはなかった。
AIのログを遡らせ、再度シミュレートする。その計算結果は、銃弾のような冷酷さで胸を貫いた。
選択肢:810パターン。
そのうち、ミッション機材を保持したままの脱出成功案が364。
代替テラフォーミング計画に接続できる案が19。
──そして、それらすべてを俺の手で潰した。
誤認と独断。
それが、可能性の枝を機関室にくべ、宇宙の塵に変えたのだ。
赤の静寂 こひらば @cofe-lover
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