第2章 火の影
2章-1
「これでよし、と。できましたね、イフラーム様!」
明日、使節団との交渉であるという前日の夜。ようやく、明日使われるかもしれない条約の署名用原本ができ上がった。これが最後の書類になる。
「これが使われるといいけどね...…」
使われるなら、こんな使節団などそもそも来ない。イフラームはその思いを飲み込む。
「使われなくてもいいんです。武器は十全にそろっていてこそ、スーイン様が思う存分使節団と戦えるんですから」
そう。今自分たちが用意した条約は、おそらく明日は使われない。最後にイフラームが飲み込んだ一言は、しかしユーリも痛いほどわかっていて、でも気落ちしないように元気にイフラームに答える。
そしてそんなユーリを見ていると、今やつながりが薄くなったとはいえ、やはり雪の国は右大公家に連なる系列なのだとイフラームは納得する。スーインとユーリが持つ、政務への取り組み方の姿勢、美点が本当によく似通っている。
「この書類、最後ににスーイン様にお見せになります?」
てきぱきと書類を整理しながら問いかけてくるユーリの声に、イフラームは我に返る。
「いや……これはさすがによいだろう。もう遅い」
「そうですか......そういえば、スーイン様は今どちらに?」
無邪気なユーリの質問に、イフラームは一瞬表情をこわばらせるが、すぐにいつもの微笑をのぼらせた。
「最後の打ち合わせに、アーサー王陛下のところにいるよ」
「そう……ですか」
答えながら、ユーリはうかつな質問をしたことを後悔する。
水の国に来て、数か月。さすがに、表面的だけではない、隠された心情の機微が見えてくるようになった今、イフラームの前でアーサー王につながりそうな話題は持ち出さないことが良いことぐらいは、わかってきていたはずだった。
「スーインは、アーサー王陛下のために水の国を守っているのだからね」
イフラームも、ユーリがすぐに自分の心の揺れに感づいたことに気づいたが、それを訂正したり、取り繕ったりすることは放棄した。
恋愛感情に基づく嫉妬は感じない。けれども、スーインとアーサーの間にある確かな絆には、どうしても心がざわつく。それもまた、突き詰めれば「嫉妬」と呼ぶしかないのだろう。
――ならば、最初からそう認めてしまえばいい。
水の国を守るスーインのことを、ただ、まるごと愛したのだから。
それが、長年の経験からイフラームが導き出した答えだった。
「そのように、国を守ることができるスーイン様がうらやましいです」
ユーリはさみしげに笑う。
「わたしも……国を失っておる。それでもまた、守りたい国に出会えるのは、願ってもない僥倖だと思うのだよ」
イフラームは、ユーリを説得しようとしたわけではなかった。ただ、自分の正直な気持ちを話しただけだった。
だが、その言葉にやどる真実がユーリの気持ちを動かしたのだろう、さみしげな笑顔から、心からの温かい笑顔に変わった。
「イフラーム様。その通りです」
イフラームは、その笑顔に安堵を覚え、自身も柔らかく微笑みを返す。
「明日使う書類は、わたしが会場に運んでおこう。明日は見た目から戦闘態勢を整えてくるのだよ。スーインもばっちり整えた見た目で行くからね、負けないように」
「ありがとうございます。アリスに抜かりなく準備してもらっています。では、失礼します」
「楽しみにしておるぞ。では、また明日」
部屋を出ていくユーリを見送り、イフラームはこのあとをどうするか考える。
気持ちとしては、癒しの力でスーインを寝かせたい気持ちは勝っていた。
エリシアの入宮を決めて以来、ずっと無理なスケジュールで動いている。火の王が婚約の宴に乱入したせいで、火の国使節団との交渉という余計な政務も増えた。ただでさえ入宮だけでも手一杯のところ、負担が激増している。
寝かせてすっきりした頭で交渉に臨ませてあげたい。
だが。
さすがに、アーサーとの会談後のスーインに、自分が出張っていくのは僭越な気がする。
一日ぐらい、無理をさせても問題あるまい。
小さくため息をついて結論づけると、明日の段取りを付けて、イフラームは執務室を後にし、自室へと引き上げた。
**
「水の国はやはり寒くてかなわないわね」
火の国の使節としての正装だと、水の国の冬場にはそぐわない薄物になってしまい、ネフェルナは寒さに耐えられず、自分の両肩を抱く。
交渉の場の控室としてあてがわれた部屋は見晴らしが良い半面、水路に大きく面している為か、水面を渡って入ってくる空気が冷たい。
火の王ザハルが、水の国は伝統を重んじる国だから、正装を崩してはならぬと厳命されて、しぶしぶ従ったのだが、やはり寒すぎる。
――ザハル兄ぃの言うことなんて無視して、厚物のマントはおって行っちゃおうかしら。
そう、不届きな考えがネフェルナの頭をかすめたころ、交渉の場の準備ができました、という触れが来た。
間が良いのか、悪いのか。
もうマントを厚物に変える余裕がない。しぶしぶ、薄物のマントを翻し、ネフェルナは部下たちを引き連れ、水の国の文官に先導されて交渉の場に向かった。
「火の国使節団、ご到着」
先導の文官の声に合わせて、交渉の場である広間に入る。
目の前の長机の向こうに、右大公家のカラーである赤の朝服をまとった目つきの鋭い女と、そのすぐ脇に侍従のような少女が立っているのが、ネフェルナの目に入った。
「よく参られた。昨夜はよく休まれましたかな?」
けっして高くないが、よく通る声。真ん中にいて、これだけ威厳を発しているということは、間違いなく右大公のスーイン……ザハル兄ぃが執着している相手だろう。
「寒さには震えておりますが、良い休息が取れました」
当てこするつもりはないが、しかし事実を素直に答える。
相向かいに立つ右大公は、面白そうに笑うと、着席を促した。
「座られよ」
向き合った長机に、水の国、火の国双方の出席者が着席する。
「さて、火の国におかれては、わが国に申したき儀があるとのこと。申されよ」
「端的に申し上げます。火の国に協力していただきたい」
「協力するとは、つまりどういうことじゃ」
目の前の女は、表情を変えることなくさらに問い詰める。
わかってるくせに。
ネフェルナは思わず舌打ちをしてしまう。
いらだちのあまり、ネフェルナは交渉の初めから、切り札になる情報を話してしまう。
「最近、こちらの国では王太子になるはずの王子がお亡くなりになったとか?お世継ぎがいらっしゃらない国が、どうやって続いていくのかしら?」
水の国の廷臣たちにざわめきが広がっていく。当たり前だ。アスリーア第一王妃の第一王子が薨去したことは、厳密に箝口令が敷かれていると聞く。その情報を火の国使節団が知っているとなると、水の国内部にとっては大問題のはず。
案の定、背後に控える廷臣たちがさざ波のように頭を寄せ合い、ささやき始める。
やがて、そのざわめきの波は敵意を持って一点――女大公――に集まる。
それはおそらく、情報統制に失敗した非難に基づくものだろう。外交の場で出た話であるから、確かに一瞬、外交担当の右大公家の責任であるかのように見えてしまう。
しかし本来、国内で情報がきちんと封じられていれば、そもそも国外に漏れることなどないはずだ。そして、その情報統制こそ、本来は国内を管轄する左大公家の責務である。
つまり、左大公家が本来は非難されるはずなのだ。
だが男尊女卑が根強いこの国では、どんな小さな波紋も、女である右大公の過失に結びつけられるだろう――ザハルはそう読んでいた。
ネフェルナも、その思惑に乗り、この場でわざと第一王子薨去の話題を投じた。
計算通り、右大公家への非難の空気が醸成されたことを見て取ったネフェルナは、内心ほくそ笑んで右大公に視線を戻した。
勝ち誇って見せるつもりが、ひどく冷静な右大公の視線にぶつかり、ネフェルナの胸に困惑と動揺が広がる。
「み、水の国はお困りになりませんの?」
「困るとは?火の国にわざわざ心配いただかなくても結構、我らは方策を見つけ進んでいきます」
全く揺れない水面そのものの顔をして、右大公は返答する。
その回答に、今度は火の国側に動揺が広がった。
火の国側では、この攻撃が無効になることは全く想定していなかった。動揺に乗じて、火の国に従属することを口にさせる作戦だったのだ。
「それはつまり、ぞ……先に書状でご連絡したことに対して、否とお答えになった、ということでよろしいか?」
おかしい。
何が起きているのだ、と、思わず廷臣たちの中の、濃青の朝服を着ている者――つまり、左大公家の者――を探してしまう。
どの4氏族も、王家は漆黒、左大公家は濃青、右大公家は深紅と決まっている。
だが、濃青の出で立ちの者がすぐに見つからない。
左大公家は、助力は惜しまないのではなかったか。なぜいない。
「ネフェルナ姫、ここは一旦引きましょう」
ネフェルナの苛立ちが募ったことを察した次官が、そっと背後からネフェルナに囁く。
苛立ちのあまり、ザハルに止められていた言葉を口に上らせてしまう危機を自分でも感じたネフェルナは、次官に小さく頷いた。
「我が国のことは、我が国で決めるゆえ、口出し無用、と言ったまでで、貴国のご提案には、否も応も言うてはおらぬ」
憎らしいほどに落ち着き払って答える右大公に、ネフェルナはやっとの思いで応酬する。
「わざわざ先んじて書状を出しているにも関わらず、そのような不誠実なお答え。この交渉は不調と我が王に報告しようと思うが、いかが考える」
「また数日後、話し合いましょう。改めて、日取りはご連絡いたします」
すかさず、右大公の横に座る少女が立ち上がり、事務的に告げる。右大公は目をつむっており、本日はこれ以上の交渉を受け付ける意志がないことを示していた。
負けじとネフェルナも、次官に目配せし、数日後の予定を待っている、と伝えさせた。
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