第12話 翼は生えていなかった

 人の声がおぼろげに聞こえてくる。

 遠くから響いている様な、薄い壁が一枚隔ててある様な、そんな感じだ。

 爆薬を近くで使った時はこうなる事が多い。

 おさまれば時期に聞こえてくるだろう。


 やけに重たい瞼を開けると、視界は不明瞭にしか外の景色を映さない。


「っぐ……!」


 突如として、鈍痛が頭部を襲う。

 未だ覚醒しきれていない意識を何とかして引き戻そうとする。


 なんだ、何が、起こったんだ…?


 確か、急に馬車が止まって…御者の悲鳴が聞こえたと思ったら———


 ぼんやりと霞んでいる意識は、唐突に広がる鮮烈な赤によって無理矢理に叩き起こされる。

 目の前には、まさに地獄の様な光景が広がっていた。


 逃げ惑う女性を狼型の異獣エリアルが群れをなして囲い込み、虫型の異獣が男の喉笛を切り裂く。

 同じ馬車に乗っていたであろう人々が、数種類の異獣に襲われていた。

 視界の中央には横転し、本来の役目を果たすことは不可能なほどに大破した馬車。

 繋がれた馬が異獣に対して怯え、いなないている。


 複数の異獣が乱れる止まることの無い行進、スタンピードだった。


「っ!…リリィ、アイリスッ!」


 隣にいない愛する妻と子を思い浮かべ、勢いよく立ち上がる。

 横転の際に馬車から投げ出されたのか、体のあちこちがひどく痛む。


 だがそんなことを嘆いている暇は無い。体に鞭を打ち、馬車の方へと進んでいく。


 馬車の様子は酷いものだった。

 屋根は衝撃でひしゃげており、車輪の軸は捻じ曲がり半ばで折れていた。

 投げ出された場所が悪かったのか、馬車の下敷きになっている者もいた。


 そんな様子を見て、よりはやる鼓動を抑えながら馬車の入り口に手をかける。

 中からは何かが動くような気配は無い。


 勢いをつけ中を除くと、そこには娘と妻はおろか乗客の一人もいなかった。

 最悪の状況にならずに済んだと一安心する一方で、ここ以外の見当がつかない分、焦る自分もいる。


 いや、もしかしたら上手く掻い潜って、二人だけでも逃げたのかもしれない。

 楽観的と言われればおしまいだが、できればその他のことは考えたくなかった。


 屈んでいた状態から立ち上がり、二人の手がかりは無いかと周囲を伺う。

 ぬかるんだ地面に足を取られないよう気を付けつつ、人だったものの横を通り過ぎる。

 雨足が強くなっているのか、肌についている血が自然と洗い流されていく。


 俺自身も奇跡的に見つかっていないだけで、いつ異獣に襲われてもおかしくはない。

 雨が匂いを消してくれてはいるが、戦闘になった際にこの体でどこまで戦えるか…。


 馬車の周りを一周するようにして注意深く観察すると、何かが引きづられた跡が前方から森の方へと続いていた。


「……っ!」


 しかし、馬車から伸びる様にして残る線は、一つでは無く二つ。それぞれが反対方向に伸び、二つの道筋を作っていた。


 どちらか一方は娘と妻かもしれないし、バラバラに離れてしまっているかもしれない。

 もしかしたら、どちらにもいない可能性もあるが、確認せずには先に他を探しに行くということもできない。


 考えうる限り最悪のパターンだった。


「どっちだ…!」


 もし片側に向かったとしてもそちらには誰もおらず、そのせいで時間を食ってしまって助けられなかったら…?

 想像するのも恐ろしい出来事を落とそうと勢いよく頭を振る。


 するとその時、視界の端にある茂みが不自然に揺れた。

 それは明らかに雨によって揺れたものではなく、何者かが動くことによって生じるものだった。


「ぐっ…!」


 それを見るや否や、考えるよりも先に足が動き出していた。

 何かが動いたということは、人であれば少なくともまだ意識はあるということ。

 もし、それが自分の愛する人たちならば何がなんでも助け出す!


 希望を胸に抱き、茂みを手でかき分けると、そこにいたのは———


「ぁぐ…たず、げで。め、メイん、ざ…!」


 馬車で向かいに座り、熱弁を振るっていた青年だった。

 しかし彼の状態は良いものとは言えない、むしろひどい状態だ。

 ありもしない方向へと捻じ曲がった右足、すでに異獣によって喰われてしまったのか、半ばで失った両腕は綺麗な断面ではなかった。


 何より彼にとって最悪なのは、今も自らの臓物を貪られているということ。

 成人男性ほどはあろう大きさをしたトカゲの様な異獣が、み、粗食する度に彼の体はビクリと痙攣を繰り返す。

 それでも死ぬことは許されないのか、意識がある状態のまま喰われてしまうというのは、まさに生き地獄だと言えよう。


 異獣は食事に夢中のようで、警戒心もなくこちらに背を向けたまま。

 名前も知らない彼の命は、おそらくもう助かることは無いだろう。


 しかし、生きたまま喰われるなんてことはあってはならない。せめて最後は楽に行けるように、異獣を討伐することに決める。

 何より、ここで彼を見捨てたとなれば、娘に合わせる顔がない。


 最早慣れた手つきで懐から銃を取り出し、目の前の怪物に銃口を向ける。

 装填してある弾に魔力を纏わせたところで、相手もこちらに気が付いたのか振り向くと同時に襲ってくる。

 余程、食事の邪魔をされたことに怒りを感じているのか、躊躇もなしにまっすぐと飛び込んできた。


「舐めるなぁ!」


 相手の攻撃をギリギリで躱し、地面についたところを一撃の元に絶命させる。

 雨音が続く中、発砲音が森に響き渡る。気づけば、人の声はもう辺りからは聞こえていなかった。

 直前まで引き付け狙いを定めていたせいで、額から眉にかけて深い傷を付けられてしまい出血が右目を覆う。


 相手が確実に死んだことを確認してから、彼の方へと駆け寄り抱き寄せる。

 しかし、すでにこと切れており、力無くだらりと下がる頭部には、正気の宿っていない瞳が虚空を映し出していた。

 そっと手を置き、彼の瞼を閉じる。


「ぃゃぁ———」


 その時、微かにだが聞こえる人の声。

 悲鳴にも似たその声はとても聞き覚えのある声で、反射的に音の方へと顔を上げる。


「——アイリス!」


 その声は紛れも無く、妻のものだった。

 雨音に消えてしまいそうな程に小さなものだったが、長年近くで聞いてきたその声を間違えるはずもない。


 声のした方へと繁る草木をかき分け、一心不乱に進んでいく。

 泥が跳ねようと、枝葉で傷が増えようと、ただ家族を助けるために歩んだ。


 目指した方向は奇しくも、反対へと伸びていたもう一方の跡の先であった。


 はじめからこちらの跡筋を辿っていれば…!


 募る不安を力づくで心の奥に抑え込み、それに反して刻む鼓動はどんどんと速くなってゆく。

 震える手を見て見ぬふりをして、最後の草木を恐る恐る捲る。


「頼む、頼む頼む頼む頼むっ……!」


 口から溢れる願いは、しかし、滴る雨粒と共に地に落ちる。


「ぁ…ぁあっ…あぁあ!!」


 そこに二人はいた。しかし、一目見て分かる。

 木にもたれるようにして座る妻は、胸部からは黒く鋭い物体が突き出しており、彼女の服を赤黒く染めている。

 そして、その隣にはぐったりと力無く横たわる娘。一見して外傷は無さそうだが、動く気配が、無い。


 命の灯火が消えようとしていた。


「——ヒュー…ぁ、あな…」


「! アイリスっ!」


 かろうじて息のある妻が、俺が現れたことに気づく。

 急いで駆け寄ろうとして、足が泥に取られ転んでしまう。


 しかしどんなに惨めでも、汚くても、彼女たちの元へと向かう。

 妻の頬にそっと触れると、この雨の中で血を流し過ぎたのか彼女の肌は、やけに冷たかった。


「だ、大丈夫だ、すぐに手当するっ! そうだ、リリィ! こんな所で寝てたら風邪引いちまうぞ…!」


 壊れ物を触るかのように、そっと娘を抱き寄せる。

 強く抱きしめても、いつものように抱き返してはくれない。

 だらりと垂れる手足は、現実を突き付けてくるが、脳がそれを許しはしない。


「メイン…ヒュー…ごめ、ん、なさ——」


「な、何を謝ってんだ! 大丈夫だ、だからそれ以上話すな!!」


 妻の胸を貫く物体は、彼女の肺を潰してしまっているのか、か細く苦しそうに呼吸を繰り返す。

 理解したくなかった、できるはずも無かった。

 こうも易々と、愛する者が消えていくことが許せなかった。


「リリィは……無事…?」


「——っ! …ぁあ、無事だっ、お前が! お前が守ってくれたからっ!」


 朧げな意識の中、徐々に光を失いつつある瞳が俺を映し出す。


「そう、よかっ、た…ヒュ……ふたりを、のこして、いくのを、ヒュー…ゆるして」


 その傷では一言話すだけでも相当な苦しみが襲うはずなのに、口に出す言葉には慈愛が込められている。

 彼女の、妻の深い優しさが、俺の愛した女性が、腕の中からそっと零れ落ちてゆく。


「だめだ、行かないでくれっ…リリィ、アイリス…! 俺を置いていくなぁあ!」


 森に慟哭が響き渡る。

 雨は、依然として降り続いていた。




 その後、俺の命を刈り取ろうと、声を聞き付けた異獣が襲ってきた。抵抗する気力も無く、このまま二人の居るところまで行こうと考えていた。

 しかし、近くで遠征を行なっていた騎士団によって、ギリギリの所で助けられることとなる。


 まるで、妻と娘にまだ死んではいけないと言われているかのようだった。

 翼のあった二人は、俺を置いて空に飛び立ち。

 地面に縛られた根っこの俺には——




            第12話 翼は生えていなかった

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