白い花と、雪に消えた名前

実験的ツジハシ

花の記録

春になると決まって、山路の片隅に、誰が置いたとも知れない白い花が静かに咲いていた。

人々はそれを目にすると足を止め、誰かが置いた花なのか、自然とそこに現れた花なのかを静かに語り合った。


この国の北方に、小さな村があった。そこでは、冬になると「月夜の娘」の話が、焚火のそばで語られた。白い肌、赤い目をした魔物が夜な夜な人の生気を吸うという。


ある冬の朝、キヲは山を越える途中で、白いものに出会った。


それは、ただの雪ではなかった。雪の色をした何か――肌、髪、息の音、それらの全てが静謐の中に沈んでいた。


彼女は動かず、声も発さなかった。ただ、彼の呼びかけに、まぶたをわずかに揺らしただけだった。赤い瞳が、光の奥で、鈍く反射していた。


キヲはそれを、自分の手で持ち上げた。冷たさが腕を這った。けれど、雪の冷たさではない。人を模していながら、何か違うものの冷たさだった。


そのまま彼は自分の家へと連れ帰った。


彼女は名を語らなかった。キヲは、シヲと呼んだ。朝になると彼の顔はやや青く、手の先が痺れるようになった。けれど、それを彼は恐れなかった。自分の血が少しずつ薄まっていく感覚さえも、どこかで納得していた。


ストーブの火に照らされる彼女の横顔は、窓の外の雪景色に融け込むように儚かった。呼吸の音が時折、薄い硝子のように室内の静けさを震わせることがあった。


ある夜、シヲがぽつりと訊ねた。「なぜ、逃げないの」


キヲは薪を割る手を止めて笑った。「君は、俺を殺していない。……それで充分なんだ」


その笑いは、どこか早春のように、冷たいが柔らかかった。


ある日、村の噂が風のようにやってきた。生気を失う者が増え、冬の病とは思えぬ衰弱が広がっていた。


「魔物だ」


そう言ったのは、村の北端の男だった。誰かが「キヲの家に変わった女がいる」と囁いた。


それだけで充分だった。村の防衛隊は動いた。


その朝も、空は乾いていた。雪が降り出す前の、妙に青白い空。兵士たちは戸を蹴破った。


「その女を渡せ!」


キヲは無言でシヲの前に立った。その瞳には覚悟と恐れが入り交じっていた。


一瞬、空気が震えた。直後、鈍い痛みが胸を貫き、彼は足元がぐらつくのを感じた。何が起きたのか理解できないまま、視線が地面の雪に吸い込まれていく。口元から温かなものが滲み、彼はようやく自分が撃たれたことを理解した。


彼の身体が小さく震え、布の下に赤がじわりとにじんでいく。

何か言おうとしたが、喉が詰まり、代わりに冷たい蒸気だけが漏れた。

彼が膝をつくと、雪の上に倒れ込んだ。その姿は、木の影のように無音で。


キヲが膝をついた瞬間、空気が凍るように静まり返った。


シヲは、ただその姿を見ていた。


彼女の呼吸は止まりかけていた。次の瞬間、喉の奥に熱が走った。胸元から上がってくる、重たく濁った感情。それは怒りというにはあまりにも刺々しく、火のように立ち上る何かだった。殺意は炎のように体中を駆け巡り、指先までも熱く震えた。


唇が自然に開き、音にならない声が喉に溜まる。


彼女の視界には、兵士の顔が映っていた。突き出された槍の影。鉄のにおい。男たちの目は、自分ではなく、血を流すキヲの方ばかりを見ていた。


——殺す。


そう思った。自分の中の何かが、瞬間的に弾けた。雪の匂いすら消え、ただ相手を消すことだけに、意識のすべてが傾いていくようだった。


だが。


キヲの目が、こちらを見ていた。


目の中に光はなかった。けれど、確かにそこに意志があった。


——だめだ、と言っていた。声にはならなかったが、彼の瞳がそう語っていた。


その瞬間、火のように燃え上がっていたものが、音もなくしぼんでいった。


怒りは跡形もなく消え、代わりに彼女の中に広がったのは、ひどく冷たい感情だった。


恐怖だった。


人間を殺してしまうかもしれなかったという事実。そして、それによってキヲが本当に戻らない場所へ行ってしまうかもしれないという未来。


指の先がかすかに震えた。足元の雪が融け始めていた。


彼女はその場から、音もなく駆け出した。

キヲの身体を抱きかかえ、谷へと、森の奥へと向かっていった。


風は冷たく、雪は深くなっていった。シヲの腕の中で、キヲは何度も目を閉じ、浅い呼吸を繰り返していた。


彼の体温は、抱いているはずの腕の中でも、じわじわと薄くなっていくようだった。


シヲの力は尽きかけていた。それでも彼女の身体の奥には、かすかな力が残っていた。


彼女が静かに目を閉じるたび、彼の呼吸は少しだけ整った。


——だが、それも一時のことだった。


キヲの命を奪わぬよう、彼女は自分の力を抑えながら歩いた。けれど、どんなに力を制しても、彼女の存在そのものが彼を蝕んでいることを、彼女自身が最もよく知っていた。


やがて、谷を越えた先の、木造りの家に灯る明かりが見えた。人の暮らしの匂いがする場所だった。


彼女の頬に、いくつかのしずくが零れた。


キヲの手がわずかに動いた。


「……寒いな」


それは、最後の言葉だったのかもしれない。


シヲは扉を叩かなかった。


ただ、キヲの身体をそっと、玄関先の軒下に寝かせた。


雪が彼の頬に落ちないよう、自分の外套を肩にかけた。


中から誰かがこちらに気づいたようだった。だが、シヲはその気配を背にして、静かにその場を去った。


声はかけなかった。


振り返ることもなかった。


ゆっくりと立ち去りながら、最後に一度だけ、振り返るのをためらった。

振り返ればきっと、もう一歩も進めなくなる。


雪の降り積もる森へ向かいながら、彼女は静かに自分の胸の中に、決して溶けることのない雪が降り積もっていくのを感じていた。


春になると、山路のある一角に、白い花が一輪だけ供えられていたという。


花を置く者の素性は不明であった。男か女か、あるいは人間ですらないのか、それを見た者は誰もいなかった。


ただ、その場所だけは、いつの年も変わらなかった。


花は毎年、黙して咲く。言葉もなく、名も持たず、ただそこに置かれる。


人は言う。あれは、かつて誰かを抱えて、ここを越えた者の記憶なのだと。

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白い花と、雪に消えた名前 実験的ツジハシ @mushadon

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