第20話 鍵

薄明かりの中、ヴィオレットとアシュトンは王都の裏路地を進んでいた。二人とも質素な旅人の服を纏い、顔を半分隠すフードを被っていた。街は普段と違う緊張感に包まれていた。兵士の姿が増え、人々は小声で会話し、急ぎ足で歩いていた。


「皇帝の死から王位継承者の不在、そしてロドリック宰相の失踪」アシュトンは小声で言った。「王国は混乱の中にある」


ヴィオレットは周囲に目を配りながら頷いた。「誰も真相を知らないのね」


彼らは計画通り、古い地下水路の入り口へと向かっていた。それは使われなくなった井戸の底にあるとされていた。王都の東外れ、かつての商業区にあるその井戸は、今では廃棄され、忘れられた存在だった。


井戸に到着すると、アシュトンは周囲を確認してから、用意していたロープを固定した。「俺が先に降りる。異常があれば合図を送る」


ヴィオレットは短く頷き、彼の肩を軽く握った。「気をつけて」


アシュトンは井戸の中へと身を滑らせていった。ロープが揺れ、やがて静止した。「大丈夫だ!」という小さな声が聞こえた。


ヴィオレットもロープを伝って降り始めた。井戸の中は湿気が多く、苔の匂いが鼻をつく。底に着くと、アシュトンが松明を灯していた。その光の中に、古い石造りの通路の入り口が見えた。


「これが地下水路か」ヴィオレットは呟いた。


「かつては王宮と外部を結ぶ緊急用の通路だった」アシュトンは説明した。「父の資料で知った」


二人は狭い通路に入った。天井は低く、壁は湿っていた。ときおり水のしたたる音が響く。その音以外は、彼らの足音と呼吸音だけが静寂を破っていた。


「どれくらいで王宮に着くの?」ヴィオレットが尋ねた。


「このまま進めば一時間ほどだ」アシュトンは松明を掲げながら答えた。「この通路は王宮の地下深くに通じている」


歩きながら、ヴィオレットは昨夜用意した小さな瓶を確認した。彼女が調合した薬と父から譲り受けた「月光水」。いざというときの備えだ。


通路は次第に広くなり、天井も高くなった。壁には古い彫刻や文字が刻まれている。アシュトンは時折足を止め、それらを調べた。


「これらは時の神殿と同じ様式だ」彼は言った。「王宮の地下と神殿は元々繋がっていたのかもしれない」


さらに進むと、通路は分岐した。アシュトンは迷わず右の道を選んだ。「この先が祭壇のある部屋のはずだ」


彼らが歩を進めるうち、かすかな青い光が前方に見え始めた。二人は足を止め、松明を消し、声を潜めた。


「あの光は…」ヴィオレットは囁いた。


「祭壇の光だ」アシュトンも同じく小声で答えた。「まだ活性化している」


彼らは慎重に前進し、広間の入り口まで来た。そこから中を覗くと、前回爆発したはずの祭壇が、修復されて光り輝いていた。そして祭壇の前に一人の人影があった。


セラフィナだった。彼女は青い光に照らされ、手に何かを持っていた。よく見ると、それはヴィオレットの青薔薇の髪飾りだった。


二人は目配せし、静かに広間に入った。セラフィナは彼らの気配を感じて振り返った。彼女の顔には疲労の色が浮かんでいたが、二人を見ると安堵の表情を浮かべた。


「ようやく来たのね」彼女は穏やかに言った。


「セラフィナ…」ヴィオレットは彼女に近づいた。「あなた、無事だったの」


「ええ、ある意味ではね」セラフィナは苦笑いした。「私の体はまだここにあるけど、時間は流れている」


「ロドリックは?」アシュトンが尋ねた。


セラフィナは祭壇を見つめた。「彼は時間の中に閉じ込められている。でも、まだ戻ってくるわ」


「どういう意味?」ヴィオレットが聞いた。


セラフィナは深く息を吐いた。「彼は時間の流れと一体化しようとした。永遠を手に入れるために。でも、人の身体では時間を完全に抱えることはできない。彼は今、時間の狭間を漂っている」


彼女はヴィオレットの青薔薇を掲げた。「これが彼を縛り付けている。あなたの家の青薔薇には、時間を止める力があるのよ」


「私の家の…?」ヴィオレットは驚いた。


「ポイズン家は元々、時の守護者だった」セラフィナは説明した。「あなたの先祖は時の神殿の番人。青薔薇はその象徴。毒と解毒の両方の力を持つように、時を止め、時を流す力を持っているの」


ヴィオレットはその話に戸惑いを隠せなかった。家に伝わる伝説に時の神への言及はあったが、これほど直接的な関わりがあるとは思わなかった。


「しかし、これだけでは長くは持たない」セラフィナは続けた。「ロドリックはやがて戻ってくる。そして彼が戻れば、時の崩壊は避けられない」


「それを阻止するために、俺たちに何ができる?」アシュトンが尋ねた。


セラフィナは二人を見つめた。「時間を封印するの。そして、新たな時間軸を作る」


「新たな時間軸?」ヴィオレットは混乱した。


「そう」セラフィナは祭壇に近づきながら説明した。「私たちが何度も時を遡ることで、時間の流れに亀裂が生じている。その亀裂から時間の力が漏れ、ロドリックのような者に利用されてしまう」


彼女は祭壇の中心にある水晶を指した。「この水晶は時間の結節点。ここから全ての時間軸が分岐している。これを封印し、新しい時間軸を一つだけ残せば、崩壊を防げる」


「でも、そうすれば…」アシュトンが言いかけた。


「そう」セラフィナは微笑んだ。「もう時を戻ることはできなくなる。一つの時間軸で、一度きりの人生を生きることになる」


重い沈黙が広間を支配した。それは彼らの能力、彼らのアイデンティティの一部を手放すことを意味していた。


「他に方法はないの?」ヴィオレットが尋ねた。


セラフィナは首を振った。「私は何度も試した。20回以上の時間軸で、様々な選択を。でも結末は同じだった」


「だからあなたは私たちを求めていたのね」ヴィオレットは理解した。


「そう」セラフィナは頷いた。「時を巡る者同士の絆。それが鍵なの」


「どうすれば封印できる?」アシュトンが実践的な質問をした。


セラフィナは祭壇の周りに刻まれた円環を指し示した。「あなたたちがこの円の中に立ち、互いの手を取る。私が封印の儀式を執り行う」


「そんな単純なことで?」アシュトンは疑問を呈した。


「単純じゃないわ」セラフィナは真剣な表情で答えた。「あなたたち二人の間には、時を超えた強い絆が必要。互いへの完全な信頼と…愛」


アシュトンとヴィオレットは一瞬視線を交わした。その目には決意の色があった。


「準備はいい?」セラフィナは尋ねた。


二人は頷き、祭壇の周りの円環の中に立った。祭壇からの青い光が彼らを照らし、影が背後の壁に映った。


「手を取って」セラフィナは言った。


ヴィオレットとアシュトンは向かい合い、互いの手を握った。彼らの指が絡み合うと、不思議な温かさが広がった。


セラフィナは青薔薇を祭壇の中心に置き、古い言葉で詠唱を始めた。青い光が強まり、円環の文字が一文字ずつ光り始めた。


「時の神よ、この二人の魂を見よ」セラフィナの声が響いた。「彼らの絆こそが、時を癒す薬となる」


祭壇の水晶が明るく輝き、ヴィオレットとアシュトンの体が浮き上がるような感覚に包まれた。ヴィオレットは目を閉じ、アシュトンの手をさらに強く握った。彼女の心の中で、前世の記憶と現在の感情が交錯していた。


「時を統べる力よ、彼らの意志によって封印されよ」


光がさらに強まり、祭壇から波紋のように広がった。ヴィオレットは不思議な平穏を感じた。まるで長い旅の終わりに、ようやく帰るべき場所に辿り着いたかのような。


しかし次の瞬間、恐ろしい咆哮が広間に響き渡った。


「止めろおおおっ!」


光の中から、ロドリック・サイファーの姿が現れた。彼の体は半透明で、青い光の筋が走っていた。彼は祭壇に向かって手を伸ばした。


「俺の実験だ!俺の力だ!」


セラフィナは叫んだ。「続けて!途中で止めれば全てが崩壊する!」


ロドリックの姿が彼らに迫る中、ヴィオレットとアシュトンは強く手を握り合った。


「俺はお前を守る」アシュトンの声が彼女の心に響いた。


「私もあなたを」ヴィオレットは応えた。


二人の間に流れる感情は、言葉にできないほど強く、深いものだった。それは前世からの悔恨と贖罪、新たな時間での理解と尊敬、そして何よりも—互いを失いたくないという切実な願い。


ロドリックが彼らに触れようとした瞬間、セラフィナが彼の前に立ちはだかった。


「もう十分よ、父上」


その言葉にヴィオレットとアシュトンは驚いて目を見開いた。


「父上…?」アシュトンは困惑した。


セラフィナはロドリックを直視し、静かに言った。「あなたは私の父。別の時間軸で」


ロドリックの顔に衝撃の色が広がった。「何だと…?」


「私はセラフィナ・サイファー」彼女は宣言した。「あなたと皇女の娘。時を超えて何度も生まれ変わってきた」


「嘘だ!」ロドリックは怒りを露わにした。


「真実よ」セラフィナは悲しげに微笑んだ。「あなたは多くの時間軸で、私の母を殺した。そして今、あなたは時間そのものを破壊しようとしている」


セラフィナはヴィオレットとアシュトンを振り返った。「続けて!最後まで儀式を!」


ロドリックが彼女に襲いかかろうとする中、セラフィナは青い光の中に身を投じた。二人の姿が混ざり合い、もみ合いながら光の渦に吸い込まれていく。


「アシュトン!」ヴィオレットは叫んだ。「セラフィナを助けなきゃ!」


しかしアシュトンは彼女の手を離さなかった。「駄目だ!彼女は自分の選択をした。俺たちは儀式を完遂しなければならない」


祭壇の光が天井まで達し、広間全体が青く染まった。ヴィオレットは涙を流しながら頷き、アシュトンの手をさらに強く握った。


「セラフィナ…」彼女は祈るように呟いた。


二人が完全に心を一つにした瞬間、祭壇から眩い光が爆発的に広がった。その光は二人を包み込み、セラフィナとロドリックの姿も飲み込んだ。


ヴィオレットの意識が遠のく中、彼女は最後にセラフィナの声を聞いた気がした。


「ありがとう。これで新しい時間が始まる」


そして全てが白い光に包まれた。


***


ヴィオレットが目を覚ますと、彼女は自室のベッドに横たわっていた。見知らぬ天井ではなく、幼い頃から慣れ親しんだポイズン家の屋敷の天井だった。彼女はゆっくりと上体を起こし、周囲を見回した。


「ついに目を覚ましたか」


その声にヴィオレットは驚いて振り返った。そこにはアシュトン・サイファーが立っていた。彼は窓際で腕を組み、彼女を見つめていた。


「アシュトン…」彼女は混乱して言った。「ここは…私の家?」


「ああ」彼は頷いた。「ポイズン家の屋敷だ」


「どうやって?祭壇は?」


アシュトンは窓から離れ、彼女に近づいた。「祭壇で儀式を完了した後、気づいたらここにいた。どうやら俺たちは新しい時間軸にいるようだ」


ヴィオレットは記憶を辿った。祭壇の光、セラフィナの犠牲、そして眩い閃光。


「セラフィナは?」


アシュトンは沈黙し、それから静かに首を振った。「見つからない。彼女もロドリックも」


ヴィオレットの胸に悲しみが広がった。セラフィナは彼らを救うために自らを犠牲にしたのだ。


「この時間軸はいつなの?」彼女は尋ねた。


「面白いことに」アシュトンは言った。「俺たちが最初に出会う予定だった日の朝だ」


「あの…政略結婚の話が来る日?」


「ああ」アシュトンは微笑んだ。「歴史は繰り返すかもしれないが、今度は違う選択ができる」


ヴィオレットは窓の外を見た。朝日が昇り、新しい一日の始まりを告げていた。全てがまた初めから始まる。しかし今度は、彼らは真実を知っている。


「皇帝は?」彼女は尋ねた。


「まだ健在だ」アシュトンは答えた。「ロドリックは宰相だが、プロジェクト・ラザロはまだ初期段階のようだ」


「まだ止められる」ヴィオレットは希望を抱いて言った。


「ああ」アシュトンは頷いた。「だが、もう時を戻ることはできない。セラフィナが言った通り、時間遡行の力は封印されたようだ」


ヴィオレットは自分の胸に手を当てた。確かに、あの力の感覚はもう感じられなかった。彼女はアシュトンを見上げた。


「一度きりの人生…」


「後悔のないようにしなければならない」アシュトンが言った。


彼は彼女のベッドの端に腰掛け、真剣な表情で言った。「ヴィオレット、政略結婚の話がまた来る。今度はどうする?」


ヴィオレットは彼の瞳を見つめた。そこには、前世の記憶と新たな決意が宿っていた。彼女は小さく微笑んだ。


「受けるわ。でも今度は政略ではなく…」


アシュトンの顔に笑みが広がった。「俺もそう考えていた」


部屋に朝の光が満ちる中、二人は新たな時間の中での第一歩を踏み出そうとしていた。かつての敵が、今は最も信頼できる味方となっていた。運命の糸は彼らを再び結びつけたが、今度はより強く、より真実に近い形で。


そのとき、ノックの音がして、侍女のメリッサが入ってきた。


「お嬢様、サイファー家からの使者が到着しました」


ヴィオレットとアシュトンは意味深な視線を交わした。歴史は繰り返されようとしていた。しかし今度は、彼らが運命を書き換える番だった。


「お迎えするわ」ヴィオレットは答えた。


メリッサが去った後、アシュトンはヴィオレットの手を取り、静かに言った。「新しい物語の始まりだ」


「ええ」ヴィオレットは頷いた。「でも今度は、私たちが選んだ物語よ」


窓の外で、一羽の青い鳥が空へと飛び立った。新しい時間の流れの中で、彼らの物語はようやく自由になった。もはや過去の記憶に縛られることも、未来の不安に怯えることもない。ただ、今この瞬間を、二人で生きていくだけだった。


そして、どこか遠くで、セラフィナの静かな微笑みが彼らを見守っているような気がした。

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毒の宮、誓いの檻 zataz @neoi

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