第19話
暗闇の中で、ヴィオレットは漂うような感覚にとらわれていた。意識はあるのに体は動かず、まるで水の中に浮かんでいるようだった。遠くで誰かが彼女の名を呼ぶ声が聞こえる。
「ヴィオレット…ヴィオレット!」
その声に引き寄せられるように、彼女はゆっくりと目を開けた。目の前にはアシュトンの心配そうな顔があった。彼は彼女の肩を優しく揺すっていた。
「ようやく目を覚ましたか」彼は安堵の表情を浮かべた。
ヴィオレットはゆっくりと上体を起こし、周囲を見回した。彼らは見知らぬ小屋にいた。質素な木造りの壁、一つの窓から差し込む薄明かり、簡素なベッドと椅子。
「ここは…どこ?」彼女は乾いた喉で尋ねた。
アシュトンは水の入った杯を彼女に差し出した。「森の隠れ家だ。俺が以前から用意していた場所さ」
ヴィオレットは水を飲み、少し元気を取り戻すと、最後の記憶を辿った。「あの祭壇で…セラフィナとあなたのお父様が…」
「ああ」アシュトンは頷いた。「祭壇が暴走して爆発した。俺は何とかお前を抱えて脱出したが、セラフィナとロドリックの姿は見なかった」
「どうやって?入り口は塞がれていたはずよ」
「別の通路があった」アシュトンは答えた。「祭壇の爆発で壁が崩れ、古い通路が現れた。そこを通って逃げた」
ヴィオレットはアシュトンの言葉を消化しながら、ゆっくりと足を床につけた。少しめまいがしたが、立ち上がることはできた。彼女は窓に近づき、外を見た。彼らは確かに森の中にいた。辺りには木々しか見えない。
「王都からどれくらい離れているの?」
「半日ほどの距離だ」アシュトンは彼女の傍に立ち、外を見た。「誰も知らない場所さ。父からも、宮廷からも」
「どれくらい眠っていたの?」
「丸一日だ」アシュトンは答えた。「祭壇の光に触れたせいか、お前はずっと意識を失っていた」
ヴィオレットは自分の体を確認した。彼女は別の服に着替えられており、髪もとかされていた。「誰が…?」
アシュトンの頬が少し赤くなった。「隣村から呼んだ女性だ。彼女は質問しない代わりに、銀貨を三枚もらった」
二人は互いを見つめ、状況の異常さに小さく笑い合った。しかしすぐに表情は真剣なものに戻った。
「アシュトン」ヴィオレットは静かに言った。「あなたが前世で何をしたのか、全て話してほしい」
アシュトンの表情が曇った。彼は椅子に座り、深く息を吐いた。「ああ、全て話す。お前にはその権利がある」
彼は始めた。「前世で、俺はロドリック・サイファーの息子として、ただ父の命令に従う存在だった。政略結婚の話も、父が決めたものだった。しかし俺は最初からお前に興味を持っていた」
「なぜ?」
「ポイズン家のことは知っていた。毒物学に精通した名門。そして俺は…母の死の真相を知りたかった」
ヴィオレットは静かに聞いていた。
「俺たちが結婚してから、お前は王宮での毒物検査の役割を与えられた。それも父の計画だった。彼はお前を利用して、皇帝に接近する機会を作ろうとしていた」
アシュトンは苦しそうな表情で続けた。「そしてある日、皇帝が毒を盛られた。証拠は全て、お前に向けられていた」
「私が…利用されたのね」ヴィオレットは静かに言った。
「ああ。しかし俺は何もできなかった」アシュトンの声には後悔が滲んでいた。「俺は傍観者でしかなかった。お前が逮捕され、裁判にかけられ、そして…」
彼は言葉を詰まらせた。
「処刑された」ヴィオレットが言葉を継いだ。
アシュトンは重く頷いた。「処刑の日、俺は立ち会わされた。父の命令だった。『これがサイファー家の敵の末路だ』と教えるためにね」
彼は手を握りしめた。「お前が最後に俺を見た瞳に、恨みと絶望があった。その目が忘れられなかった」
室内は静かになった。外では鳥が鳴き、風が木々を揺らす音だけが聞こえた。
「その後、俺はプロジェクト・ラザロの真実を知った」アシュトンは続けた。「父が何年にもわたって行ってきた実験。時間遡行の力を手に入れるため、皇族の血を持つ者たちを…実験台にしてきたことを」
「あなたのお母様も…」
「ああ。母は皇族の遠縁だった。父はその血を利用しようとしたんだ」アシュトンの顔に怒りの色が浮かんだ。「母は『銀の涙』で死んだとされていた。しかし実際は、プロジェクト・ラザロの実験の失敗だった」
「そして、あなたも実験台にされたの?」
アシュトンは目を閉じ、ゆっくりと開いた。「俺は父の監視下で育てられた。知らないうちに、少しずつ実験を施されていたようだ。お前の処刑後、俺の中で何かが変わった。絶望と後悔が頂点に達した時、俺は初めて時を戻す力を使った」
「どのように?」
「気づいた時には、五年前に戻っていた。お前との結婚の約二年前だった」アシュトンは答えた。「俺は全ての記憶を持ったまま、もう一度その時代を生きることになった」
「私は処刑される直前に戻ったわ」ヴィオレットは言った。「十年の記憶を持って」
「時を戻る力は、絶望の強さに比例するのかもしれない」アシュトンは言った。「お前はより深い絶望を味わったから、より遠くへ戻れた」
二人は沈黙のうちに、時間の不思議さを噛みしめた。
「で、あなたは私を探したのね」ヴィオレットは言った。
「ああ」アシュトンは頷いた。「二度目の人生では、全て変えようと決めていた。父の計画を内側から破壊し、お前を守るために」
「だからあの契約書を…」
「お前を守るための最良の方法だと思った」彼は小さく笑った。「まさかお前も時を戻っているとは思わなかった。お前が俺を避けようとしているのを見て、少し困惑したよ」
ヴィオレットは微笑んだ。「私もあなたが何か知っているとは思わなかったわ。あなたを…憎んでいた」
「当然だ」アシュトンは苦く笑った。「俺は許されるべきじゃない」
ヴィオレットは彼に近づき、その頬に優しく手を置いた。「あなたは既に贖罪している。私を守るために、全てを賭けたわ」
アシュトンは彼女の手を取り、握りしめた。「まだ終わっていない。プロジェクト・ラザロは止めなければならない」
「プロジェクト・ラザロの全容を話して」ヴィオレットは彼に向かい合って座った。
アシュトンは深呼吸し、整理するように言葉を紡ぎ始めた。「プロジェクト・ラザロは、死者を蘇らせるという表向きの目的を持っていた。皇帝の寿命を延ばし、究極的には不死を実現するという触れ込みだった」
「そのために、皇帝から採取した血液を使って実験を…」
「ああ」アシュトンは頷いた。「しかし真の目的は、皇族の血に宿る『時の力』を抽出し、制御することだった。父は皇帝よりも、時間そのものを支配したかったんだ」
「時間を支配する…」ヴィオレットは呟いた。「そんなことが可能なの?」
「理論上は」アシュトンは言った。「時間遡行は、その力の一部に過ぎない。完全な時間支配が可能になれば、過去を変えるだけでなく、未来を予見し、時間の流れそのものを操ることも可能になるはずだと父は考えていた」
「恐ろしい力ね」
「ああ」アシュトンは同意した。「だから父は何百もの実験を行い、多くの犠牲者を出した。彼が集めた知識は、古い神殿の発掘調査から得た情報と、皇族の血液サンプルの分析、そして実際の時間遡行者の研究を組み合わせたものだった」
「時間遡行者?あなた以外にも?」
「セラフィナの言葉が真実なら、彼女も時間遡行者だ」アシュトンは答えた。「しかも、俺たちよりもはるかに多くの経験を持っている」
ヴィオレットは窓辺へ移動し、森を見つめた。「彼女の言っていた『時の崩壊』とは何かしら?」
「父の記録によれば」アシュトンは立ち上がり、彼女の傍に立った。「時間遡行が繰り返されると、時間の流れに亀裂が生じるという。その亀裂が大きくなれば、最終的に時間そのものが崩壊する可能性がある」
「そうなれば?」
「全てが無に帰す」アシュトンは重々しく言った。「過去も未来も、全ての可能性が消滅する」
恐ろしい沈黙が部屋を支配した。
「だからセラフィナは『最後の希望』と言ったのね」ヴィオレットは思い出すように言った。「私たちの絆が鍵になると」
アシュトンは彼女の手を取った。「時間遡行者同士の絆…それが何を意味するのか、まだ分からない」
二人はしばらく黙って外の景色を見ていた。やがてヴィオレットが静かに言った。「私たちは何をすべきなの?」
アシュトンは決意の表情を浮かべた。「時の祭壇に戻る。セラフィナとロドリックを見つけ出し、プロジェクト・ラザロを終わらせる」
「危険よ」ヴィオレットは懸念を示した。
「他に選択肢はない」アシュトンは言った。「彼らが成功すれば、全ての時間が危機に瀕する」
ヴィオレットは自分の胸元に手を当て、青薔薇の髪飾りがないことに気づいた。「私の髪飾り…」
「祭壇に残ったままだ」アシュトンは答えた。「あれが爆発の引き金になったようだ」
彼女は思い出していた。青薔薇を祭壇に投げつけた時の光、そしてその後の爆発。「なぜあんなことをしたのかしら…」
アシュトンは彼女の肩に手を置いた。「直感だったのかもしれない。しかし結果的に、あれが俺たちを救った」
ヴィオレットは頷き、自分の手を彼の手の上に重ねた。「明日、王宮に戻りましょう」
「ああ」アシュトンは同意した。「まず、現在の状況を確認する必要がある」
彼らは小屋の中のテーブルへ移動し、アシュトンが地図を広げた。「王宮には二つの秘密の入り口がある。一つは既に使った通路、もう一つはこちら」彼は地図の一点を指さした。
「そこから地下へ行けるの?」
「ああ。かつて使われていた地下水路だ。非常時の脱出経路として造られたものらしい」
二人は計画を練り始めた。アシュトンが地図上で経路を示す中、ヴィオレットが必要な装備や薬品のリストを作った。彼女の毒物学の知識が、今では貴重な財産だった。
「セラフィナの言っていた『真実の愛で結ばれた二人の時間遡行者』という言葉が気になるわ」ヴィオレットは紙から目を上げて言った。
アシュトンの動きが一瞬止まった。彼は顔を上げ、彼女と視線を合わせた。「俺は…お前のことを守りたいと思っている」
「それは…義務感?」ヴィオレットは小さな声で尋ねた。
アシュトンはゆっくりと首を振った。「違う。前世でお前を失った時、俺は何かを理解した。お前は…特別な存在だ」
部屋の空気が変わった。ヴィオレットの胸に温かいものが広がった。
「あなたは、私にとっても特別よ」彼女は静かに告げた。「最初は復讐のために近づいたけれど、今は違う」
アシュトンはテーブルを回り、彼女の前に立った。「何度時を戻しても、俺たちは出会うのかもしれない。それが運命なら…」
彼は言葉を選ぶように一瞬躊躇い、それから決意を固めたように続けた。「それが運命なら、今度こそ、俺はお前を守り通す」
ヴィオレットは立ち上がり、彼と向き合った。二人の間にはもう壁がなかった。過去の恨みも、秘密も、全て明かされていた。
「私たちの絆が、時を救うのね」彼女は微笑んだ。
アシュトンはゆっくりと彼女に手を伸ばし、その頬に触れた。「明日、全てが終わる。どちらに転んでも、俺は後悔しない」
彼らの間には沈黙が広がったが、それは不快なものではなく、理解と決意に満ちたものだった。窓の外では、夕日が森を赤く染め、新たな朝の到来を予告していた。
「明日」ヴィオレットは静かに繰り返した。「新たな時間の始まりね」
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