第10話 母の影

サイファー家の書斎は朝の静けさに包まれていた。アシュトンは回復したものの、まだ弱々しい様子で椅子に座っていた。毒の発作から三日、彼の体は回復の兆しを見せてはいたが、完全ではなかった。


ヴィオレットは向かいの椅子に座り、彼を観察していた。白金の眼鏡の奥の目は、以前より柔らかくなったように見えた。


「気分は?」彼女は静かに尋ねた。


「良くなった」アシュトンは微笑もうとしたが、すぐに苦痛の表情に戻った。「君の青薔薇のおかげだ」


「なぜ私の毒を飲んだの?」ヴィオレットは三日間抱えてきた疑問を口にした。「あなたは知っていた?」


「公爵の視線が不自然だった」アシュトンは弱々しく答えた。「彼は父上の敵。私を攻撃するのは理にかなっている。だが、彼は君に乾杯を促した」


「だから、私の身代わりになった?」


「条項十七」アシュトンは静かに言った。「相互の安全確保と保護義務」


ヴィオレットは言葉に詰まった。彼の行動は単なる契約条項のためだったのか。しかし、命を賭けてまで守る義務はない。


「義父は何と?」


「父上は…調査中だ」アシュトンは窓の外を見た。「公爵の屋敷に捜索が入ったと聞く。だが…」


「でも、本当の真相は知りたくないのね」ヴィオレットは言葉を補った。


アシュトンは驚いたように彼女を見た。「鋭いな」


「実際、ガーランド公爵が毒を仕掛けたのか、それとも…」彼女は意図的に言葉を切った。


「それとも父上の罠かということか」アシュトンは冷静に言った。「君はサイファー家の内部を見すぎている。危険だぞ」


「あなたが守ってくれるんでしょう?」ヴィオレットは思いがけない軽口を叩いた。


アシュトンは真剣な表情で答えた。「私にできる範囲ではな」


静かな緊張が二人の間に流れた。三日前の出来事は、二人の関係に微妙な変化をもたらしていた。表面上の冷淡さの下に、何か別のものが芽生えつつあった。


突然、書斎のドアがノックされた。


「若様」クロード執事が入ってきた。「宰相様が東翼の実験室にお呼びです」


アシュトンの表情が硬くなった。「父上が?実験室に?」


「はい。グレゴリー医師も同席です」


アシュトンは立ち上がろうとして、よろめいた。ヴィオレットが思わず支えようとしたが、彼は軽く手を振って制した。


「大丈夫だ」彼は深呼吸した。「行かねば」


「東翼は立ち入り禁止よね?」ヴィオレットは確認した。


「そうだ。君はここにいてくれ」


アシュトンが去った後、ヴィオレットは静かに考えた。東翼の実験室。プロジェクト・ラザロが行われている場所かもしれない。そして、アシュトンの弱った状態での呼び出し…


決断するまでに時間はかからなかった。彼女は静かに部屋を出て、東翼への裏通路を探した。以前から、使用人たちの動きを観察し、屋敷の隠された通路を調べていたのだ。


使用人用の裏階段を通り、東翼の裏側へと回り込む。窓から覗くと、実験室らしき部屋が見えた。ロドリック、グレゴリー医師、そしてアシュトンの姿。


窓は閉まっていたが、わずかに開いた換気口から声が漏れていた。


「…回復は予想以上に早い」グレゴリー医師の声。「青薔薇の効果は素晴らしい」


「ポイズン家の知識、無駄にはならんな」ロドリックの冷たい声。「彼女の価値を認め始めたよ」


「彼女は…」アシュトンの声は弱く、聞き取りにくかった。


「彼女の目的は何だ?」ロドリックが鋭く問うた。「なぜサイファー家に?」


「政略結婚です」アシュトンは淡々と答えた。「それ以上でも以下でもない」


「そうか」ロドリックの声は不信感を隠していなかった。「だが、彼女には隠された目的があるはずだ。ポイズン家は…昔から疑り深い家柄だ」


医師が話題を変えた。「陛下の状態は?」


「安定しているが、時間が足りない」ロドリックの足音が部屋の中を動き回った。「次の治療は一週間後だ」


「しかし、それほど頻繁に行えば、陛下の体が…」


「選択肢はない!」ロドリックの怒声。「プロジェクト・ラザロは成功せねばならない。死者を蘇らせると約束した。時間を支配すると」


一瞬の沈黙の後、ロドリックは落ち着いた声で続けた。「息子よ、お前の協力が必要だ。母上のためにも」


「母上は…」アシュトンの声が震えた。


「そう、彼女も実験の一部だった」ロドリックの声は冷酷だった。「失敗した部分もある。だが今度は違う。時間を制御できれば、彼女も…」


ヴィオレットは息を呑んだ。アシュトンの母親がプロジェクト・ラザロに関わっていた。そして、失敗した実験の犠牲者だったのか。


その時、彼女の背後で床板が軋んだ。振り返ると、クロード執事が立っていた。


「夫人」彼は厳しい顔で言った。「ここは立ち入り禁止区域です」


「迷ってしまったの」ヴィオレットは冷静に言った。「屋敷が大きすぎて」


「そうですか」クロードは明らかに信じていなかったが、争うことはしなかった。「では、お部屋までお送りします」


ヴィオレットは仕方なく従った。このまま反抗すれば、ロドリックに報告されるだろう。


「クロードさん」彼女は歩きながら尋ねた。「アシュトンの母親について教えてもらえる?」


執事は歩みを止め、真剣な目でヴィオレットを見つめた。「なぜそのような質問を?」


「夫の家族を知りたいだけよ」


クロードは長い間黙っていたが、やがて静かに話し始めた。「マリアン様は…優しい方でした。若様はその面影をお持ちです」


「亡くなったのは?」


「十年前」クロードは慎重に言葉を選んだ。「病で、と公式には…」


「実際は?」


「私の分を超えた質問です」彼は固く言った。「ただ…」彼は周囲を確認してから、声を潜めた。「宰相様は彼女の死後、極端に変わられました。そして、あの実験室が建設されたのです」


その夜、アシュトンは夕食に現れなかった。ヴィオレットは自室で考えを整理していた。プロジェクト・ラザロ。時間の支配。死者の復活。そして、アシュトンの母親の関与。


突然、ドアがノックされた。


「入って」


ドアが開き、アシュトンが立っていた。彼は疲れ切った様子だったが、目には決意が宿っていた。


「話がある」彼は静かに言った。「信頼できる場所で」


ヴィオレットは無言で立ち上がり、彼に従った。アシュトンは彼女を連れて、屋敷の裏庭へ、そして薬草園の奥にある小さな温室へと導いた。


「ここなら安全だ」彼は周囲を確認してから言った。「父上の監視の目も、耳も届かない」


月明かりが温室のガラスを通して、青薔薇の花々を照らしていた。


「なぜ私を信じるの?」ヴィオレットは率直に尋ねた。


「君は東翼で盗み聞きをしていた」アシュトンはため息をついた。「クロードから聞いた」


ヴィオレットは言い訳をしなかった。「あなたの母親について、教えて」


アシュトンは青薔薇の花に触れ、静かに語り始めた。


「母上は…プロジェクト・ラザロの最初の被験者だった。十年前、重い病にかかった彼女を救うため、父上は禁断の研究に手を染めた。彼は皇帝の血に秘められた『時の力』に気づいていた」


「時の力?」ヴィオレットは自分の時間遡行能力を思い出した。


「死を遅らせ、時を巻き戻す力だ」アシュトンは続けた。「父上は皇帝の血から抽出し、母上に与えた。最初は効果があったが…時間と引き換えに、別の何かが失われていった」


「魂?」


「そう言ってもいい」アシュトンの声は苦しげだった。「母上は若返ったが、記憶が断片化し、最後には…自分が誰かも分からなくなった」


ヴィオレットは震えた。彼女自身の時間遡行も、何かと引き換えなのだろうか。


「そして今、父上は皇帝で同じことを繰り返している」アシュトンは拳を握りしめた。「皇帝も混乱し始めている。そして、それだけでは足りないと…父上は真の時間操作を目指している」


「死者の復活」


「その通り」アシュトンは彼女をまっすぐ見つめた。「でも、私は彼を止める。母上の二の舞いは見たくない」


「だから改革派と接触している?」ヴィオレットは思い切って尋ねた。


アシュトンは驚いた表情を一瞬見せたが、すぐに理解した。「西翼でも見られていたか。鋭いな」


「あなたの二つの顔」ヴィオレットは静かに言った。「表の忠実な息子と、裏の反逆者」


「そして君も、二つの顔を持つ」アシュトンは意味深に言った。「表の従順な花嫁と、裏の…何者だ?」


二人は長い間見つめ合った。月光の中、青薔薇の間で、二人は互いの仮面の向こうにある真実を探っていた。


「私はただ…生き延びようとしているの」ヴィオレットは半分の真実を告げた。


「信じよう」アシュトンは静かに言った。「少なくとも、一つだけ確かなことがある」


「何?」


「私たちはもう、敵ではない」彼は手を差し出した。「同盟者になろう、ヴィオレット」


彼女は一瞬躊躇ったが、その手を取った。


「同盟者」彼女は小声で繰り返した。


温室の外では、月が雲に隠れ、サイファー家の尖塔が夜の闇に溶け込んでいた。二人の間に生まれた脆い信頼は、やがて訪れる嵐に耐えられるだろうか。ヴィオレットにはまだ明かせない真実があった。そして、アシュトンもまた、すべてを語っていないことを彼女は感じていた。


だが今夜、青薔薇の下での約束は、二人の新たな始まりとなった。

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