第3話 舞踏会の駆け引き

「このドレスは少し派手すぎるのでは?」


ヴィオレットは鏡の前で青と紫の織物が幾重にも重なったドレスを眺めていた。メリッサが宮廷の仕立て屋から急いで調達してきたものだ。


「いいえ、嬢様」メリッサは髪飾りを調整しながら答えた。「宮廷の舞踏会では、これくらいが標準です」


「そう…」


彼女は深い息を吐いた。前世でも同じドレスを着た記憶がある。あの時は、このドレスが宮廷デビューの切符だと喜んでいた。今は違う。ただの道具に過ぎない。


「髪には青薔薇を」ヴィオレットは言った。「必ず付けて」


「はい、嬢様」


メリッサが髪に薔薇を飾り付ける間、ヴィオレットは心の準備をしていた。舞踏会は情報収集の絶好の機会。特にアシュトンについて、もっと知る必要があった。


「準備ができました」メリッサが言った。「とても美しいです」


鏡に映るのは、大人びた雰囲気を纏った少女。しかし彼女の目には、二十六年の人生経験が宿っていた。


「行きましょう」


***


舞踏会場は、金と銀の装飾に彩られていた。シャンデリアの明かりが華やかに照らす中、貴族たちが談笑し、踊り、策略を巡らせている。


入口でヴィオレットの名が告げられると、一瞬、会場の視線が彼女に集まった。


「ヴィオレット!」


セラフィナが人混みを縫って近づいてきた。彼女は緑のドレスに金の装飾を施し、首元には例の金のペンダントが光っていた。


「来てくれてうれしいわ」セラフィナは彼女の手を取った。「さあ、皆に紹介するわ」


次の一時間、ヴィオレットは様々な貴族に引き合わされた。彼女は前世での経験を活かし、適切な会話と礼儀正しい振る舞いで相手の好感を得ていった。


「驚いたわ」セラフィナが小声で言った。「あなた、宮廷作法に詳しいのね」


「少し勉強しただけよ」


「謙遜しないで」セラフィナは微笑んだ。「あなたの評判は上々よ。特に—」


彼女はふと言葉を切り、視線を入口に向けた。そこにはアシュトンが立っていた。


「彼が来るとは思わなかった」セラフィナがささやいた。「普段は舞踏会を嫌うのに」


ヴィオレットは緊張を隠すように深呼吸をした。アシュトンは会場を見回し、彼女とセラフィナを見つけると、わずかに表情を変えて近づいてきた。


「意外だな、君が来るとは」セラフィナがアシュトンに言った。


「父の指示だ」彼は冷淡に答えた。「皇帝の治療に関わる人物との交流を深めよ、とのことだ」


その視線がヴィオレットに向けられた。


「ポイズン嬢」彼は軽く頭を下げた。「お父上の治療は進展があるようだな」


「はい」ヴィオレットは冷静に答えた。「解毒剤の効果が出始めています」


「それは喜ばしい」


アシュトンの表情からは何も読み取れなかった。前世では、彼のこの冷淡さに打ちのめされたものだ。だが今は、彼の仮面の下に何があるのかを探る決意があった。


「ポイズン嬢」アシュトンが言った。「もしよろしければ、一曲いかがだろうか」


セラフィナが驚きの表情を浮かべた。これは予想外の展開だった。前世では、彼が舞踏会でヴィオレットに声をかけたのは、もっと後のことだった。


「光栄です」ヴィオレットは答えた。


アシュトンは彼女の手を取り、ダンスフロアへと導いた。オーケストラがワルツの調べを奏で始めると、二人は踊り始めた。


「正直に言おう」アシュトンは低い声で言った。「君に興味がある」


「それはなぜですか?」


「第一に、君が皇帝の毒を見事に診断したこと」彼は彼女を軽やかに回転させながら言った。「第二に、君の目だ」


「目が?」


「経験した者にしか見えない何かがある」


ヴィオレットの心拍が加速した。彼は何かを感じ取っているのか?


「私は普通の毒物学者の娘に過ぎませんよ」彼女は取り繕った。


「本当にそうかな」彼の口元に僅かな笑みが浮かんだ。「私は人を見る目がある。君は…並の十六歳とは思えない」


危険な会話だった。話題を変える必要がある。


「あなたこそ、宰相の息子なのに随分と率直ですね」


「表向きは父の息子だが、考え方は違う」彼は言った。「政治的立場も」


これは重要な情報だった。前世では、このことに気づくのにずっと時間がかかった。


「改革派、ですか?」彼女は試すように言った。


アシュトンの動きが一瞬止まった。「よく知っているな」


「推測です」ヴィオレットは微笑んだ。「あなたの書物の選択から」


「観察力が鋭い」アシュトンは認めた。「だが、宮廷での発言には気をつけた方がいい。壁に耳あり、柱に目ありだ」


音楽が終わりに近づき、二人のダンスも終わろうとしていた。


「サイファー様」ヴィオレットは最後の一手を踏みながら言った。「あなたは何を求めているのですか?」


「真実だ」彼はシンプルに答えた。「そして君は?」


「正義、でしょうか」


アシュトンは彼女をじっと見つめた。「興味深い。我々には共通点があるかもしれないな」


音楽が止み、二人は互いに一礼した。


「また話そう、ポイズン嬢」


アシュトンは彼女の手を離し、人混みの中に消えていった。


「まあ!」


セラフィナが興奮した様子で駆け寄ってきた。「アシュトンがダンスを申し出るなんて、前代未聞よ!何を話したの?」


「ただの世間話よ」ヴィオレットは平静を装った。


「信じられないわ」セラフィナは彼女の腕を取った。「あなた、相当な魔力の持ち主ね」


「大げさよ」


「いいえ、本当に」セラフィナの声は真剣だった。「アシュトンは誰にでも心を開かない人。特に初対面の人には」


ヴィオレットはセラフィナの言葉を吟味した。彼女の驚きは本物のように見えた。だが、それが芝居でないとは限らない。前世の経験から、彼女はもう誰も簡単に信じることはなかった。


「さあ、飲み物を取りましょう」セラフィナは言った。「そして、もっと宮廷の人々を紹介するわ」


***


舞踏会の後半、ヴィオレットは一時的に人混みから離れ、バルコニーで息をついていた。前世では、社交界でのふるまいに必死だったが、今回は余裕があった。もっと重要なことに集中するために。


「一人でいるとは意外だな」


声の主はロドリック・サイファーだった。宰相は黒い正装に身を包み、例の黒杖を手に持っていた。


「宰相様」ヴィオレットは礼儀正しく頭を下げた。


「先程の息子との踊りを見ていたよ」ロドリックは言った。「彼は普段、このような場を好まないのだが」


「偶然です」


「この世に偶然などない」ロドリックは微笑んだ。「すべてには意味がある」


彼はヴィオレットの横に立ち、夜景を眺めた。


「ポイズン嬢、君の父上の解毒治療は驚くべき効果を示している」


「ありがとうございます」


「だが不思議なのは」ロドリックは静かに言った。「その毒を特定できたのが君だということだ。エドガー殿でさえ即座には分からなかったというのに」


危険な話題だ。彼女は慎重に言葉を選んだ。


「父の書庫で古い文献を読んでいただけです。運が良かっただけで」


「運、か」ロドリックは彼女をじっと見た。「君のような若い娘が、古い毒物の文献に興味を持つとは」


「ポイズン家の娘として当然です」


「もちろん」ロドリックは杖を軽く床に打ちつけた。「だが、才能には相応の場が必要だ。宮廷医師団に興味はないかね?」


これは前世になかった展開だった。ヴィオレットは一瞬考えた。この申し出は彼女の計画を進めるチャンスになり得る。だが同時に、敵の監視下に置かれることも意味する。


「光栄な申し出ですが」彼女は慎重に答えた。「父と相談する必要があります」


「もちろんだ」ロドリックは満足そうに頷いた。「急ぐ必要はない。陛下の治療が終わった後でも構わない」


「ありがとうございます」


「それにしても」ロドリックの視線が彼女の髪飾りに向けられた。「美しい青薔薇だ。ポイズン家の象徴、だったな」


「はい」


「美と危険の共存」ロドリックは思索するように言った。「稀有な組み合わせだ」


彼は一歩近づいた。


「政治もまた、美と危険が共存する世界だ」彼の声は低く、穏やかだった。「正しく扱えば国を救い、間違えれば破滅をもたらす」


ヴィオレットは震えそうになるのを必死に抑えた。それは先日、彼女が父に言った言葉と同じだった。まるで盗み聞きされていたかのように。


「示唆に富む例えですね」彼女は冷静さを装って答えた。


「そうか?」ロドリックは笑みを浮かべた。「なら、君は政治的センスも持ち合わせているようだ」


彼は立ち去ろうとして、一度立ち止まった。


「ところで、私の息子に気をつけるといい」


「どういう意味でしょう?」


「彼は複雑な男だ」ロドリックは振り返らずに言った。「表面上は冷静だが、内に燃える炎がある。時に、制御を失う」


その言葉を残し、ロドリックは人混みの中へと消えていった。


ヴィオレットは深呼吸をした。今の会話は警告だったのか、それとも単なる会話だったのか。いずれにせよ、ロドリックは彼女に興味を持ち始めていた。


それは計画通りであると同時に、危険の始まりでもあった。


「何を話していたの?」


セラフィナが再び現れた。


「宰相が少し話しかけてきただけよ」


「宰相が?珍しいわね」セラフィナは目を丸くした。「あなた、今夜は人気者ね。父と子、両方から注目されるなんて」


ヴィオレットは微笑んだが、内心は複雑だった。一晩で、彼女はサイファー親子の注目を集めることに成功した。前世では、それはずっと後のことだった。


「さあ、もう遅いわ」セラフィナは言った。「明日も会えるかしら?」


「ええ、もちろん」


二人が別れを告げる中、ヴィオレットの心には新たな決意が芽生えていた。事態は予想より早く動いている。彼女はこの流れを利用し、敵の内側へと入り込む必要があった。


アシュトンとの接触。ロドリックからの誘い。これらは復讐への足がかりとなるだろう。


だが同時に、予想外の展開に備える必要もあった。前世とは既に異なる部分が生まれている。蝶の羽ばたきが竜巻を引き起こすように、彼女の小さな行動の変化が、予測不能な結果をもたらす可能性があった。


彼女は夜空を見上げた。満月が宮殿を照らしている。


「今度は違う物語を紡ぐわ」

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