第2話 毒の調査
「陛下の症状は、ここ一ヶ月ほどで急速に悪化しています」
グレゴリー首席宮廷医師の言葉に、ヴィオレットは静かに頷いた。皇宮の医務室には、皇帝の寝台を囲むように数名の医師と、ロドリック宰相が立っていた。
「体温の上昇、時折の意識混濁、そして—」グレゴリーは一度言葉を切った。「時に激しい幻覚を伴います」
「毒の可能性は?」エドガーが尋ねた。
「それを判断していただきたいのです」
ロドリック宰相が一歩前に出た。「ポイズン家の専門家としての意見を聞かせてもらいたい」
十年ぶりに見るロドリックの姿。前世ではこの日が初対面だった。銀髪に整った顔立ち、一見すると優雅で紳士的な外見。しかし、ヴィオレットは知っていた。その表面の下に潜む冷酷さを。
「陛下の検査をさせていただけますか?」ヴィオレットは冷静に言った。
ロドリックは少し驚いたように彼女を見た。「君がヴィオレット・ド・ポイズン嬢か。思ったより幼いな」
「年齢は能力と比例しません、宰相様」
一瞬、静寂が流れた。前世では、彼女はただ恐縮して黙っていた。
「…興味深い返答だ」ロドリックは薄く笑った。「では、お願いしよう」
ヴィオレットは皇帝の寝台に近づいた。彼の顔色は土気色で、呼吸は浅く、時折身体を震わせていた。
「陛下の食事を管理しているのは?」
「専属の給仕人が三名」グレゴリーが答えた。「全員が十年以上の勤続です」
ヴィオレットは皇帝の脈を取り、瞼を開いて瞳孔を確認した。そして静かに口を開いた。
「『悲嘆の粉』の可能性が高いわ」
医師たちの間で動揺が広がった。
「確信があるのか?」ロドリックが鋭く尋ねた。
「症状が一致しています」ヴィオレットは落ち着いて答えた。「特に幻覚の内容を聞けば、もっと確実なことが—」
「陛下は死者の声が聞こえると言われています」グレゴリーが小声で言った。「特に先代皇后の」
ヴィオレットは頷いた。「典型的な『悲嘆の粉』の症状です。長期間摂取すると、愛する人を失った悲しみの記憶が増幅され、幻覚として現れます」
「解毒方法は?」ロドリックが素早く尋ねた。
「二週間の解毒剤投与と完全な食事管理が必要です」
エドガーが娘を見つめていた。「ヴィオレット、君はその毒をどうやって知った?教えた覚えがないが」
一瞬、彼女は言葉に詰まった。前世の知識を使ったことを忘れていた。
「…古い文献で読みました。ポイズン家の書庫で」
エドガーは訝しげな表情を浮かべたが、それ以上は問わなかった。
「解毒剤を作れるか?」ロドリックが尋ねた。
「はい。ただし材料をいくつか取り寄せる必要があります」
ロドリックは頷き、侍従に指示を出した。「必要なものはすべて用意させよう」
「ありがとうございます」
会話の間、ヴィオレットはさりげなく部屋を観察していた。前世では気づかなかった細部が、今は見えた。ロドリックが常に持ち歩く黒杖。医務室の東側にある不自然に厚い壁。そして—グレゴリー医師の袖から覗く古い傷痕。
「父」ヴィオレットはエドガーに向き直った。「解毒剤の材料リストを作成します。一度、屋敷に戻って準備を—」
「いや」
ロドリックが遮った。「そんな時間はない。材料は皇宮に取り寄せる。君たちにはしばらく滞在してもらおう」
これは前世とは違う展開だった。前世では、彼らは屋敷に戻り、解毒剤を作って届けた。
「ですが、我々の実験器具や—」エドガーが言いかけた。
「すべて用意させる。最高の設備だ」
ロドリックの口調に拒絶の余地はなかった。
「…承知しました」エドガーは渋々頷いた。
「では、親子で協力して治療にあたっていただきたい」ロドリックは微笑んだ。「皇帝の命は君たちの手にかかっている」
***
「なぜ宰相は私たちを宮殿に留めたがるの?」
宮殿の客室に案内された後、ヴィオレットは父に尋ねた。
「監視のためだろう」エドガーは静かに答えた。「我々が何者かに買収されていないか確認するためだ」
「でも、そもそも毒を調べるために呼んだのは宰相自身よ」
「政治は常に疑心暗鬼だ、ヴィオレット」エドガーは窓の外を見た。「特にロドリック・サイファーは用心深い男だ」
ヴィオレットは部屋の中を歩き回った。「父は彼をどう思う?」
「賢明で有能だが、危険な男だ」エドガーは思慮深く答えた。「だからこそ、我々は政治に関わるべきではない。我々は科学者だ。毒と薬を研究する者」
「でも父も言ったでしょう。毒と薬は同じものの別の側面だって」ヴィオレットは立ち止まった。「政治も同じじゃない?正しく使えば国を救い、誤って使えば国を滅ぼす」
エドガーは娘を不思議そうに見つめた。「今日の君は随分と哲学的だな」
「最近、いろいろ考えているの」
彼女は窓際に立った。宮殿の庭園が見渡せる。そこで、一人の青年が本を読みながら歩いているのが見えた。金髪に眼鏡。一見したところ整った容姿。彼女の胸が高鳴った。
アシュトン・サイファー。
「あの人は?」
エドガーが窓の方を見た。「宰相の息子だろう。アシュトン・サイファー。政治学と歴史に精通した秀才と聞く」
「そう…」
「なぜ興味を?」
「何となく」
ヴィオレットは冷静を装ったが、胸の内は複雑だった。憎しみ、恐怖、そして—かつて感じた愛情の残滓。すべてが混ざり合う感覚。
「お父様、少し庭を散歩してきていい?」
「一人で?」
「ええ、考えをまとめたいの」
エドガーは少し迷ったが、最終的に頷いた。「気をつけるんだ」
ヴィオレットは客室を出て、庭園へと向かった。復讐計画のためには、アシュトンについての情報が必要だった。前世の彼との関係は失敗に終わったが、今回は違う。今回は彼を利用するつもりだった。
庭園に出ると、初夏の陽光が彼女を包み込んだ。宮廷の貴婦人たちがそこかしこで談笑している。前世では彼女たちに取り入ろうと必死だったが、今はその必要はない。
アシュトンを探す目で庭を見回していると、別の人物が彼女に近づいてきた。
「あら、新しい顔ね」
赤銅色の巻き毛と緑の瞳を持つ少女。金のペンダントを首にかけている。
「セラフィナ・ローズマリー」
思わず名前が口から出た。
「あら、私を知ってるの?」セラフィナは驚いたように目を見開いた。
「噂で」ヴィオレットは取り繕った。「父から宮廷のことを少し聞いてました」
「そう」セラフィナは彼女を興味深そうに見た。「あなたは?」
「ヴィオレット・ド・ポイズンです」
「ポイズン家の?」セラフィナの目が輝いた。「毒物学者の家系ね。興味深いわ」
彼女の反応は前世と同じだった。しかし今、ヴィオレットはその目の奥に隠された計算高さを見抜いていた。
「陛下の治療のために来たの」
「そう、ご苦労様」セラフィナは微笑んだ。「宮廷は初めて?案内しましょうか?」
「ありがとう。でも—」
その時、金髪の青年が二人の方へ歩いてきた。
「セラフィナ、こんな所にいたのか」
アシュトン・サイファー。近くで見ると、前世の記憶がより鮮明に蘇った。彼の青い目。白金の縁取りの眼鏡。常に冷静な表情。
「アシュトン!」セラフィナは嬉しそうに声を上げた。「ちょうど新しい友達ができたところよ」
アシュトンはヴィオレットを一瞥した。「ポイズン家の令嬢か」
「ええ」ヴィオレットは冷静に答えた。「ヴィオレット・ド・ポイズンです」
「父から聞いた。皇帝の治療に来たのだな」
「はい」
二人の視線が交わった。十年前の初対面。しかし今回は、ヴィオレットには前世の記憶がある。
「興味深い髪飾りだ」アシュトンは彼女の青薔薇に目を向けた。
「ポイズン家の象徴です」
「美しくも危険、か」アシュトンの口元に僅かな笑みが浮かんだ。「適切な象徴だ」
セラフィナは二人の間を見回した。「あら、素敵な出会いね」
「たまたまだ」アシュトンは冷たく言った。「私は図書室に戻る。セラフィナ、後で会議がある。遅れるな」
彼は軽く頭を下げると、立ち去った。
「冷たい人ね、彼は」ヴィオレットはわざと言った。
「ええ、でもそれが彼の魅力なの」セラフィナは彼の背中を見つめた。「氷の仮面の下に隠された炎を感じない?」
ヴィオレットは黙っていた。彼女は感じていた。そして前世では、その炎に焼かれたのだ。
「さて、ヴィオレット」セラフィナは再び彼女に向き直った。「これからどれくらい宮廷にいるの?」
「陛下の容態次第ですが、少なくとも数週間は」
「素敵!」セラフィナは手を叩いた。「是非、舞踏会にも参加して。明後日、小さなパーティーがあるの」
「ありがとう。でも私は—」
「遠慮しないで」セラフィナは彼女の手を取った。「宮廷は味方が必要な場所。私があなたを案内するわ」
その温かな笑顔の裏に何があるのか。前世では彼女はセラフィナを単なる社交界の華と思っていた。だが今は疑問を抱いていた。
「ありがとう、セラフィナ」
「じゃあ、明後日ね!」
セラフィナは手を振り、去っていった。
ヴィオレットはその場に一人取り残された。脳裏には次々と計画が浮かんでいた。アシュトンに近づくには、まず宮廷社会での地位が必要だ。そのためにはセラフィナの協力が役立つ。
そして何より—皇帝の治療を成功させることが、第一歩になる。
彼女は空を見上げた。
「策略の網を張るのは、今回は私の番よ」
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