第8話 - 静寂の屋上、甘い匂いのする午後

教室の窓際に差し込む日差しは、午前中の喧騒を一度落ち着かせるように穏やかだった。


昼休みのチャイムが鳴っても、僕は鞄から弁当を取り出すことなく、ぼんやりとノートの端を指でなぞっていた。


他の生徒たちが教室を出ていく中、僕は席を立たずにただ机に突っ伏した。


その日、眠りにつくことはできなかった。


昼のざわめきが少し落ち着いた頃、ふと、屋上の鍵が今日は開いていることを思い出した。


誰も来ない静かな場所で、一人で空を見上げていられたら、それだけで少しは息ができそうな気がした。


屋上へ続く階段を登り、最後の扉を開けた瞬間、軽く風が吹き抜けた。


そして、風の向こうに誰かの背中があった。


――彼女だった。


槍ヶ谷つきしろが、柵にもたれて空を眺めていた。


彼女もまた、屋上という場所を選んでいた。それが偶然なのか、あるいは…。


僕は足音を立てないように注意しながら、そっと視線を落とした。


彼女の邪魔をするつもりはなかった。だけど、彼女はすぐにこちらに気づいた。


「藤見くん……お昼、ここで食べるの?」


「いや、ただ……少しだけ、静かなところにいたくて」


それ以上、言葉を交わすこともなく、二人で黙って空を眺めた。


時間にすれば、数分だったかもしれない。


でも、その沈黙は決して気まずいものではなく、不思議と心地よかった。


彼女が鞄から小さな包みを取り出し、僕の前に差し出した。


一瞬、戸惑って首を横に振ったけれど、彼女は気づかないまま手に乗せてきた。


「……食べないなら、無理にとは言わないけど。甘いもの、嫌いじゃないでしょ?」


それだけのことで、何かがふっと触れた気がした。


それが、後に続く小さな変化の始まりだとは、まだ知らずに

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たった一拍、ずれていた @chay00n

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