終われば綺麗だったのに

草森ゆき

終われば綺麗だったのに

 男やもめに蛆が湧く。

 長年連れ添った家内が死んだのだと話せば、そう返されることがしばしばある。

 期待して頂いたところ悪いのだが蛆は湧いていない。掃除はほぼ毎日行うし、家事類は元々嫌いではない。長年、家内と分担して行なっていたのだ。

 早朝に並んで洗濯を干していた日々は未だに鮮明で、晴れも曇りも眼球の中にずっと居残っている。

 しかしわからないこともある。

 入院中の家内が、見舞いに訪れた私の手を握りながら口にした言葉だ。

「お父さん、私はな……」

 この続きはくぐもっており、私の耳は補聴器を持ってしても遠く、最後が聞こえなかった。外がうるさかったせいもあるだろう。風が人探しでもするかのように激しく窓を叩いていた。硝子の向こうは灰色の雲が鬱蒼と伸び、無頓着な冬の気配が渦巻いていた。

 問い直したが家内は眠り、次に起きた時には何かを言った記憶すら残っていなかった。

 この日から一ヶ月も経たないうちに私は男やもめとなった。

 

 娘は月に一度見に来てくれて、私の現状を慮ってくれる。

 梅雨に入っている現在も、変わらず私の家、娘からすれば実家に訪れた。大振りの鞄を肩から下げている。

 私の特に変わらない様子を見るなり、娘は肩を竦めた。

「そろそろ老人ホームに入った方がええんと違う?」

 と冗談めかして言われはするが、軽くあしらえば引き下がる。私が他人と暮らしたくないのだとわかっているのだ。記憶力は恐ろしく下がったし、何かを言おうにも言葉が出てこない場面がどんどんと増えているが、それでも一人が気楽であり、死ぬにしてもこの家の中でひっそり朽ちていたいと思う。

 娘は私の主張に対し、男やもめに蛆が湧くのはつまりそういうことだと言った。

「老人ホームに入らん、ヘルパーさんを呼んだりもせん、独りぼっちでずうっと家ん中におって……せやから死んでもうた後に誰も気が付かへん。気付かれんまま時間が経って、体がじわじわ腐っていって、蛆がにょろにょろ湧いてくるんや」

 そのくらい知っている、と返してから、私は煙草を口に挟んだ。娘は眉を吊り上げながら禁煙する気はないのかと怒ったが、聴かないふりをしつつ火を灯す。

 真っ直ぐに立ち上る紫煙が天井を噛んだ。籠る臭いに娘は咳払いをし、煙に襲われたらしく掌を振って空気を混ぜた。

「ああもう、肺炎やら肺がんになっても知らんで!」

 そうなっても構わない、とは口にしない。娘は呆れたような溜め息を吐き、台所へと消えた。物音が聞こえてくる。煙草を燻らせ、限界まで吸い切って潰した。お父さんはいつも最後まで吸うんやねえ。家内が穏やかにそう言ってきたのは二十年は前、五十代の頃の話だ。

 娘は煙の臭いがなくなった頃合いに顔を出した。暖かい緑茶を盆に乗せて持ってきてくれて、その後数分は何をするでもなく座っていたが、私が二本目の煙草を咥えたところでまた来ると言い残して立ち去った。

 緑茶に手をつけず、煙草を咥えたまま台所へ向かう。米やパンを置いている引き出しを開いて中を確認し、買い物行くか、と誰に聞かせるでもなく呟いた。

 娘が来てくれると家の食物が減る。別に構わないが、友人や義実家ではやっていないだろうかと懸念が生じる。

 靴を履いて杖を持ち、煙草は潰してから外に出た。

 玄関前を軽自動車が飛ぶように抜けていく。

 

 歩いて十数分の位置にあるスーパーはかつての後輩が嘱託社員として働いている。

 本日も店内にいた。私を見るなり笑顔を広げ、たくさんの籠を両手に抱えながらいらっしゃいませと嗄れた声で言った。

「今日はね、お寿司、安い日なんです」

 後輩は笑ったまま籠を指定の位置へと戻す。

「何を買わはるんですか、先輩。いつもおおきに……あ、ボクもうすぐ上がりますんで、よかったら話しませんか」

 どうするかなと思いつつ、娘に持たされている老人用の携帯電話をポッケから取り出した。時間は昼過ぎだった。構わないだろうと了承し、喜ぶ後輩を尻目に、一旦店舗外の休憩用の椅子へ移動した。

 椅子のそばに灰皿があったため煙草を咥えた。不健康の煙を吸い込み、深呼吸のように長く薄く吐き出していく。緩やかな風が頬を舐った。目の前を母子が一組過ぎる。腕に抱かれた子供が、丸い頬をよだれで光らせながら静かに眠っていた。母親は煙草を嫌がるように足早になった。

 スーパーの自動扉が開閉する度に軽快な店内音楽とアナウンスが耳に届いた。地元密着、あのこもぼくも毎日くるよ、今日も元気にいらっしゃい……ここで扉が閉じる。私は聴きながら目を伏せていたらしい。とんと肩を叩かれてはっとした。

「先輩、お待たせしてすんません」

 眉を下げている後輩に問題ないと返し、椅子から立ち上がる。

 後輩は車を従業員用の駐車場に停めているらしかった。ついていくと鈍色の軽自動車を紹介された。車体の色合いに私は家内の病室や窓の向こうの曇り空を思い出したが、嬉しそうに何かしらを話す後輩に遠慮してそれについては口にしなかった。車は走る。ゆっくりと、車道に出る。少し行けばカッへがあるんです、と後輩は言って私は数十秒考えてからカフェだと思い至る。黄色の信号で後輩は漏れなく停車する。四回の信号待ちの間、高齢者マークのついたこの軽自動車はクラクションを一度鳴らされた。

「黄色の意味、気を付けて渡れ、やと思うとる若モンが多いですなあ。ボクも昔はそう思うてましたけどね。ああせやけど先輩は、昔っから安全運転でしたな」

 規律に従っていただけである。そのように返すと、後輩は笑う。どう面白がっているのか不明だが、私はまた家内を思い出す。

『あんたはん、ほんまにおもろい人やねえ』

「先輩、ほんまにおもろい人ですねえ」

 そうなのだろうか。部屋の中でひっそり死に、蛆が湧いている方がおもしろいのではないだろうか。

 その姿が、ではなく、歩んできた人生が。

 

 後輩はカフェの駐車場でバック駐車に手こずった。三回の切り返しを経て車は停まり、私は助手席からよっこいせと声に出しながら抜け出した。

 ランチプレートなるものが後輩のおすすめらしかった。

 二人掛けの喫煙席に向かいで座り、共にランチプレートを注文してから、私は煙草を吸った。後輩は吸わなかった。以前は口にしていた気がして聞いてみると、肺を患い禁煙したのだと笑顔で言い放った。

 なら、私が目の前で吸うのは良くないのではないか。潰そうとするが止められる。後輩はお冷をごくごくと飲み、言った。

「ええんですよ、長生きしたいわけやないんです。せやけどかかりつけの、懇意にしとるお医者さんに涙目で言われてもうたらねえ……やめるしかあらへんなと思うた次第ですわ」

 納得しつつ、疑問が残る。かかりつけの医者とはいえ、そこまで患者に肩入れするものだろうか。私のかかりつけの内科医は冷静で的確な方である。冷たい、人情がないと言われもするらしいが、私は冷静沈着な部分に安堵を覚えてかかりつけ医に選んだ。

 遠くの禁煙席で若い女性の大きな笑い声がはじけた。手を叩く音も追撃として届き、後輩が珍しく不快そうに顔を歪めた。

 どうかしたのか聞いてみれば、言い淀んだ後に若い女性が得意でないのだと話した。

 後輩とは知り合ってから六十年弱、スーパーで話すようになってから三年ほどだが、初めて聞く不得手だった。

「ああ、そうですねえ……今の、多様化? 言うんですか、このご時世やったら言うてもええと思うて話しますけども、ボク元々、女やのうて男に恋するやつやったんです」

 窺うような苦笑いが向けられる。頷きだけを返すと多少ホッとしたようで、後輩は運ばれてきたランチプレートの唐揚げを一粒だけ口へと放り込んだ。

 男を好く性質であるなら若い女が得意でないのは道理かと思っていると、

「女の子に体で迫られてから余計に無理になってもうてね」

 後輩は卵のサンドイッチを片手に持ちながら話を続けた。

「男の知り合い数人に頼み込んで、ボクとエッチなことしたいからって、ボクを陥れたんですよ。あれは……怖かったです、ほんまに。普通やったら喜ぶところかもしれへんし、これが男に襲われた女の子やったらもっと怖かったかもしれへんし、もう今になってもうたら……ああ女の子怖いなあ、としか言われへん出来事やけど……この話したん、先輩が初めてですわ。なんでやろう、なんちゅうか、話したくなる雰囲気してはるんですよ、先輩は」

 私は話を聞きながら数回頷く程度のことしかしていなかったが、後輩はわずかながら肩の荷が降りたらしく、柔和な表情を浮かべてくれた。その後に担当医は男性なのだと含ませるように口にして、私は先や関係性を想像しないよう気を配りながら首肯のみに留めた。

 カフェの料金は私が二人分支払った。後輩は財布を出さないまま頭を何度も下げ、ご馳走様ですと言って唾液に光る入れ歯を覗かせた。

 

 軽自動車で家まで送り届けてもらった。誰もいない自宅に入り、干していた洗濯物が乾いていたので取り込んだ。一日が終わる。後輩と食事をしたため、買い物を忘れていたとここで思い出したがもう億劫だ。残っていた食パンを晩飯として焼き、冷蔵庫に作り置いている惣菜類を適当に食べることにする。

 煙草を咥え、家の仏間に入った。先祖代々の遺影は鴨居に並べてある。家内のものもだ。私の遺影は、いつか娘が並べるだろう。

 煙草に火をつけ、線香に火をつけ、蝋燭にも火をつける。三種の煙が仏間の中でとぐろを巻いて三つ巴となる。私は数珠を手にした。咥え煙草のまま祖先に祈る。家内にも祈る。男やもめ。外から下校中の子供達の、別世界じみた笑い声。

『お父さん、私はな』

 不意に蘇る家内の声に肩が震える。

『あなたが騙されるんやないか、心配やねん』

 線香の上等な煙が体の中を満たしていく。

『ええ人やからね。せやけどもう、私は、守ってあげられへんから……』

 蝋の溶ける匂いが鼻と舌をきりりと摘まむ。

『蛆が湧いてまう方が、ましかもしれへんね』

 煙草の大きな灰がぼとりと落ちて畳を染めた。鈍色の灰。私はそれぞれの煙をわざと肺の中へ招き入れ、息を止めて目を閉じる。瞼の裏に家内はいる。洗濯を干し、笑っている。その背後には晴れ間が常備されている。私は咥えっぱなしの煙草の煙が目に染みて、だから涙が滲んだだけだと家内に言う。笑いながら私を見下ろしている遺影の中の君に言う。

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