図工室の金魚

灰の子

図工室の金魚

男はこの色に見覚えがあった。

小学生の頃、図画工作の時間が終わる間際、元は鮮やかだった絵の具がバケツの中で交じり合いながら優雅に泳いでいる、正しくあの色だった。


ビル風が身体を強く揺さぶり、真っ直ぐに立っていられる自信を吹き飛ばしていく。

眼下の暗闇には、人間たちの軌跡が光るようにして泳いでいた。

次に風が強く吹いたら、男はこのビルから1歩踏み出そうと考えていた。

いつこの髪がなびくかと恐る恐る立ちすくむ。

もう既に決めたことなのに、今更臆している自分を省みた男は、そこで初めて少しの安堵を感じた。

(ああ、よかった。俺はこの程度の、死んでもいいような取るに足らない人間だったのだ。自らが一度決めたこともひるがえそうとするくだらない存在だったのだ。)と。


男は鼻を一つすすった。

そのとき、一陣の風を伝達物質のように身体全体で受容した。

もう、止まることはない。

左足から踏み出すとまっすぐ前を見据え、右足は軽やかに鉄筋の足場から跳ねた。


目も開けていられないほど下から風圧を感じると、その力に沿うように口角を柔らかく上げていった。

笑顔にも取れるようなそんな顔を想像すると、男は最期の思考を開始した。

それは、

「現在の顔を他者に見せればずいぶん気分が良さそうに見えるに違いない」

というものだった。

地面まで目算9秒、どうでもいいことと思いつつも、時間が無制限に与えられていたあの頃のようにゆっくりと考えていた。

地面まで多分5秒、頭が下になる感覚を受けていた。

目は閉じていたので重力から把握した状況だが、今になって逃れ得ぬ恐怖を抱いていた。

地面まであと1秒、男は性懲しょうこりもなく後処理のことについて嘆息していた。

(誰にも、迷惑を、かけずに、いや、無理、それでいい、ごめ)


街が観測できたのはくらい風の中を舞うように泳ぐ細長い色、そしてチューブから出たばかりが如き鮮やかな紅。

それらがゴツゴツとした質感の広大なチャコールグレーに殴りつけられる。


授業終了までしか生きられない金魚は水槽を飛び出し、観衆の耳目じもくを集めていた。

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図工室の金魚 灰の子 @tike_ash

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