第2話 詩織

 新緑が目に眩しい四月。

私は、水野詩織。少し大きめの真新しい教科書を抱え、期待と不安を胸に大学の門をくぐった。高校までとは違う自由な空気に戸惑いながらも、何か新しいことを始めたいと思っていた。そんな時、ふと目に留まったのが写真サークルのポスターだった。ファインダーを通して世界を切り取る、その行為に静かな魅力を感じたのだ。


 サークルの新入生歓迎会。賑やかな居酒屋の片隅で、私は少しだけ心細さを感じていた。そんな中で、彼の存在は自然と私の目を引いた。柏木蒼太くん。一人、窓の外を静かに見つめている彼の横顔が、なぜかとても印象的だった。他の男子学生たちのように騒がず、どこか落ち着いた雰囲気を漂わせている彼。黒髪がさらりとしていて、時折見せる伏し目がちな表情に、なぜかドキリとした。何を考えているのだろう、あの澄んだ瞳の奥にはどんな世界が映っているのだろうと、ふと思った。


 最初のうちは、遠くから彼の姿を盗み見るだけだった。彼がカメラを構え、真剣な眼差しで被写体を見つめている時、その集中した横顔がとても綺麗だと思った。時折、彼と目が合うと、彼は少し驚いたように、でもすぐに柔らかく微笑んでくれる。その笑顔はまるで陽だまりのようで、私の緊張をふっと和らげてくれた。

 白いブラウスに淡い花柄のスカート、足元はリボンのついた白いソックスに、お気に入りの5センチヒールの黒いエナメルパンプス。そんな私の格好は、少し子供っぽいかもしれないけれど、彼がふとこちらを見た時、少しでも優しい印象だったらいいな、なんて、ほんの少しだけ意識していた。


 本格的に言葉を交わすようになったのは、新緑の公園での撮影会だった。私は、アジサイの花にピントを合わせようと一生懸命だったけれど、なかなかうまくいかなくて困っていた。どうしよう、と小さくため息をついた時、ふいに後ろから優しい声がした。


「水野さん、そこ、もう少し絞りを開けてみると、背景がもっとボケてアジサイが際立つよ。F値を小さくするんだ」


 振り向くと、蒼太くんが立っていた。逆光の中で彼の表情は少し見えにくかったけれど、声はとても優しかった。その声だけで、なんだか安心してしまった。


「ありがとうございます、柏木くん。カメラのこと、まだ全然分からなくて…F値、ですね。えっと、ダイヤルはこっちかな?」


 不器用な私に、彼は隣にそっと腰を下ろし、丁寧に教えてくれた。彼の指が私の手に触れそうになるたびに、心臓がドキドキと音を立てた。彼の白いシャツの袖から覗く手首が、なんだかとても男性的で、目を逸らしてしまった。


「そうそう、そのダイヤル。左に回すと…うん、いい感じ。これでシャッターを半押ししてみて」


 言われた通りにファインダーを覗くと、さっきまでとは全く違う、背景がとろりと溶けたような美しい世界が広がっていた。


「すごい! さっきと全然違います! 背景がとろけるみたい…柏木くん、ありがとう!」


 思わず大きな声が出てしまって、顔が熱くなるのを感じた。彼はそんな私を見て、また陽だまりのように優しく微笑んでくれた。その笑顔が、私の心の中にずっと残った。彼の手助けが、まるで魔法のように感じられた。


 その日から、私たちは少しずつ話すようになった。サークル活動の合間には、お互いの撮った写真を見せ合った。私の拙い写真を、彼は「水野さんの写真は、優しい光の捉え方が素敵だね」と褒めてくれた。彼の写真は、少し影があるけれど、どこか物語を感じさせるものばかりで、私は彼の感性に強く惹かれた。彼の視線の先には、私には見えない何かが見えているような気がした。


 帰り道が同じ方向だと分かってからは、駅まで一緒に帰ることが多くなった。最初はカメラの話ばかりだったけれど、いつしか好きな音楽や映画の話もするようになった。私が意外と古いロックバンドが好きだと知った時、彼は驚いた顔をして、でもすぐに嬉しそうに「俺も好きなんだ!」と言ってくれた。共通の話題が見つかったことが、たまらなく嬉しかった。彼と話していると、時間が経つのがあっという間だった。彼の少し低い声、時折見せる真剣な眼差し、そして優しい笑顔。そのすべてが、私の中でどんどん大きくなっていった。ただ、時折、彼の瞳にふと寂しそうな色が浮かぶことがあって、そんな時はどう声をかけていいか分からず、胸が少しだけ痛んだ。


 ある雨の日、サークルの部室にいたのは私と蒼太くんだけだった。外はザーザーと雨が降っていて、薄暗い部室の中はしんとしていた。課題の作品選びをしていたけれど、ふと窓の外の雨に目を奪われた。


「雨の日の匂いって、なんだか落ち着きませんか? 小さい頃、雨が降ると母がココアを入れてくれて、それを飲みながら窓の外を眺めるのが好きだったんです」


 ぽつりと呟くと、彼は顔を上げて、静かに頷いた。


「分かる気がする。俺は、雨音を聞いてると、普段の騒がしさがリセットされる感じがして好きだな」


 彼の言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。彼も同じように感じてくれていることが、とても嬉しかった。二人きりの静かな時間が永遠に続けばいいのに、とさえ思った。彼が隣にいるだけで、雨音さえも心地よい音楽のように聞こえた。


 季節は夏へ。サークルの夏合宿の打ち合わせを兼ねた飲み会。私は、蒼太くんの隣の席に座ることができて、内心ドキドキしていた。彼はお酒が入ると少しだけ饒舌になって、楽しそうに笑っていた。その笑顔をもっと見ていたいと思った。彼の楽しそうな姿を見ているだけで、私も幸せな気持ちになれた。


 飲み会が終わり、駅へと向かう帰り道。夏の夜風が心地よかった。蒼太くんと二人きり。何か話したいけれど、何を話せばいいのか分からない。心臓の音が、彼に聞こえてしまうんじゃないかと思うくらい大きくなっていた。彼もどこか緊張しているように見えたのは、気のせいだろうか。


「水野さん…詩織ちゃん。ずっと、言いたかったことがあるんだ」


 不意に、彼が立ち止まって私を見つめた。彼の声は少し震えていて、真剣な表情に、私の胸も高鳴った。普段とは違う、彼の強い眼差しに射抜かれて、動けなかった。


「俺と、つき合ってほしい」


 時間が止まったみたいだった。街灯の光が、彼の真剣な瞳を照らしている。夢じゃないかしら、と思った。嬉しくて、でも信じられなくて、言葉が出てこない。ただ、彼の言葉が何度も頭の中で繰り返される。


「…はい」


 やっとのことで絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。でも、彼はちゃんと聞き取ってくれた。そして、今まで見た中で一番優しい、陽だまりのような笑顔を私に向けてくれた。


「私も…柏木くんのこと、ずっと見てました。柏木くんの撮る写真も、写真に向き合う真剣なところも…ううん、柏木くんの全部が、好きです」


 涙が溢れそうになるのを、必死でこらえた。彼の手がそっと私の手に触れる。その温かさに、私の心は幸せでいっぱいになった。この人の隣で、これからもずっと一緒にいられたら。そう、心から願った。彼の手のひらは少し汗ばんでいて、それが彼の緊張を伝えているようで愛おしかった。



 蒼太くんとの交際は、毎日がキラキラと輝いているようだった。週末には一緒にカメラを持って公園を散策したり、話題のカフェでおしゃべりしたり。彼が隣にいてくれるだけで、見慣れた景色も特別なものに見えた。初めて手を繋いだのは、映画館の暗闇の中だった。緊張で少し汗ばんだ彼の手を握り返した時、私の心臓は破裂しそうなくらいドキドキしていた。その手の温もりが、私に勇気をくれた気がした。


「蒼太くんの写真って、なんだか切ないけど、すごく優しいよね」


 ある日、二人で撮った写真を見返しているとき、私はそう言った。


「そうかな? 自分ではよく分からないけど」


「うん。きっと蒼太くん自身が、そういう人なんだと思う。いつも周りのことをよく見てて、困ってる人がいると、さりげなく助けてあげたりするでしょう?」


 私は、いつだったか、蒼太くんがサークルの機材運びで一番重い荷物を黙って引き受けたことや、新入生が操作に戸惑っている時にそっとアドバイスしていたことなどを思い出して言ってみた。蒼太くんにとっては無意識の当たり前の行動だったかもしれないけど、私はそんな蒼太くんの素敵さに恋してしまったのだ。そんなことを思い出すだけで、胸が熱くなった。


「詩織だって、いつもみんなに優しいじゃないか。お前の笑顔見てると、ほっとするって、サークルの奴らも言ってるぞ」


「えへへ、そうかな? でも、蒼太くんが隣にいてくれるから、私も自然と笑顔になれるんだよ」


 褒められた私は、そう言ってはにかむしかなかった。意識して顔が赤くなってしまう。蒼太くんに気付かれていないかと、ドキドキする。彼が私を「詩織」と呼んでくれるたびに、胸の奥がきゅんとなる。彼の言葉一つ一つが、私にとって宝物だった。


 蒼太くんは、私の些細な変化にもすぐに気がついてくれる人だった。私が課題に追われて少し疲れた顔をしていれば、「無理しないでね。今日は俺が夕飯作るよ」と、慣れない手つきでパスタを作ってくれた。少ししょっぱかったけれど、彼の優しさが詰まっていて、世界で一番美味しいパスタだと思った。サークルのコンテストで思うような結果が出せずに落ち込んでいれば、「詩織の写真は、俺は一番好きだよ。だって、詩織の視点がそこにはあるもの。結果なんて気にしないで、これからも詩織らしい写真を撮り続けてほしいな」と力強く励ましてくれた。彼の言葉は、いつも私に勇気をくれる。彼が信じてくれるなら、私はもっと頑張れる、そう思えた。


 でも、幸せな日々の中で、時折、蒼太くんの表情に影が差すことがあった。何か深い悩みを抱えているような、遠くを見つめるような瞳。私が「どうかしたの?」と聞いても、「ううん、なんでもない」と曖昧に笑うだけだった。その笑顔はどこか寂しそうで、私の胸はチクリと痛んだ。彼が何を考えているのか、私には教えてくれないのだろうか。


 デート中、公園のベンチで楽しくおしゃべりしていても、ふと彼が黙り込み、私の足元をじっと見つめていることがある。その視線は、何かを渇望するような、それでいて苦しそうな、不思議な色を帯びていた。私の黒いエナメルパンプスに落ちる蒼太くんの視線。その時、彼が何を考えていたのか、私には分からなかったけれど、彼の瞳の奥の暗い輝きに、言いようのない不安を覚えた。彼が見つめているのは、私の足?それとも靴なのかな…? その視線に気づくと、なんだか足元がむず痒くなるような、落ち着かない気持ちになった。


「蒼太くん? どうかしたの、顔色が悪いよ」


 心配して声をかけると、彼はハッとしたように我に返り、慌てて笑顔を取り繕う。


「ううん、なんでもない。ちょっと考え事してただけ」


 その笑顔はどこかぎこちなくて、私の胸は痛んだ。彼が何かを隠している。それは確かなのに、私には何も打ち明けてくれない。彼との間に、見えない壁があるような気がして、とても寂しかった。彼が私を信頼してくれていないのだろうか、そんな考えが頭をよぎって、とても悲しくなった。


「ねえ、蒼太くん。今度の週末、行きたいところがあるんだけど…」


 私が以前「行ってみたい」と話していた写真展のパンフレットを嬉しそうに見せても、彼の反応はどこか鈍かった。


「覚えててくれたのか?」


「もちろん! 蒼太くんが好きなもの、私も一緒に見たいし、感じたいから」


 そう言って微笑んでも、彼の瞳の奥の憂いは消えない。私の言葉は、ちゃんと彼に届いているのだろうか。彼の心がここにあらずといった感じで、私はどうしようもなく不安になった。


 そんな日が続くうちに、私はどんどん不安になっていった。彼が私とのデートを楽しんでくれていないのかもしれない。私が何か、彼を傷つけるようなことをしてしまったのかもしれない。彼に嫌われたくない、その一心で、私は彼の顔色をうかがうようになっていた。


「蒼太くん、最近何かあった…? 私、何か気に障ることしちゃったかな…もしかして、私とのデート、楽しくない…?」


 ある日のデートの帰り道、とうとう私は堪えきれずにそう尋ねてしまった。声が震え、涙が滲んでくるのを止められなかった。彼は、ひどく狼狽した様子で、私の言葉を否定した。


「違う、詩織のせいじゃないんだ! ごめん、本当にごめん…! 詩織といるのは、すごく楽しい。ただ…俺の問題なんだ」


 彼はそう言って、苦しそうに顔を歪めた。でも、その「彼の問題」が何なのか、教えてはくれなかった。私を抱きしめることもなく、辛そうな表情で立ち尽くすだけ。その姿を見ているのが、私も辛かった。彼を助けたいのに、何もできない自分がもどかしかった。彼の苦しみが何なのか分からないことが、私をさらに不安にさせた。


 夜、一人でベッドに入ると、彼の苦しそうな顔が浮かんできて眠れない。彼が抱えている秘密は何なのだろう。私には、それを知る資格がないのだろうか。彼をこんなに好きなのに、彼の心の奥に触れることができない。その無力感が、私を打ちのめした。このまま、彼の心は私から離れていってしまうのだろうか、そんな恐怖に襲われた。



 秋晴れの週末。蒼太くんから「大事な話があるんだ」と、初めて二人で撮影に行った思い出の公園に誘われた。彼のいつもと違う真剣な声色に、私の胸はざわついていた。何か、良くない予感がした。彼の表情は硬く、いつもの柔らかな雰囲気はなかった。


 公園のベンチに並んで座っても、彼はなかなか話を切り出そうとしない。固く握りしめられた彼の手が、微かに震えているのが見えた。私も緊張して、手のひらに汗が滲む。何を言われるのだろう、と心臓が早鐘を打っていた。


「詩織…大事な話があるんだ」


 ようやく発せられた彼の声は、ひどく嗄れていた。私は黙って頷き、彼の言葉を待った。彼の瞳は真剣で、そしてどこか怯えているようにも見えた。その瞳に見つめられると、息が詰まりそうだった。


「俺には…人には言えない、歪んだ性癖があるんだ」


 その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。歪んだ、性癖…? 彼が何を言っているのか、頭が真っ白になった。彼の口からそんな言葉が出てくるなんて、想像もしていなかった。


「え…それってどんな…?」


 震える声で尋ねると、彼は顔を伏せ、ぽつりぽつりと話し始めた。女性が小さな虫を踏み潰す姿に興奮を覚えてしまうこと。その光景を想像するだけで、背徳的な喜びを感じてしまうこと。そして、そんな自分にずっと嫌悪感を抱き続けてきたこと。私と出会って幸せを感じる一方で、この秘密が日に日に重荷になっていたこと。


 彼の告白は、あまりにも衝撃的だった。信じられなかった。いつも優しくて真面目で、少し不器用な彼が、そんな…そんなことを考えていたなんて。頭の中で、彼の言葉がぐるぐると回る。気持ち悪い、というよりは、ただただ、彼の苦しみが伝わってきて、胸が締め付けられるようだった。彼がどれほど一人で悩み、苦しんできたのだろう。私が気づいてあげられなかったことが、申し訳なくてたまらなかった。


 彼が全てを話し終えた時、私は顔を上げることができなかった。何を言えばいいのか、分からなかった。ただ彼の隣で、彼の絶望的な沈黙を感じていた。公園の木々が風に揺れる音だけが、やけに大きく聞こえた。


「…気持ち悪い、だろ? こんな俺、嫌いになったよな?」


 彼の絞り出すような声に、ハッとして顔を上げた。彼の瞳は絶望の色に染まり、今にも泣き出しそうだった。その瞬間、私の中で何かが決まった気がした。この人を見捨ててなんかいられない。


「ううん…」私はゆっくりと首を横に振った。「驚いたけど…でも、蒼太くんがずっと苦しんでたことは、痛いほど分かったから。私に話してくれて、ありがとう。一人で抱え込ませてしまって…ごめんね」


 私の言葉に、彼の瞳から堰を切ったように涙が溢れ出した。彼は子供のようにしゃくり上げながら、何度も「ごめん」と繰り返した。私はそんな彼を、優しく抱き締めてあげることしかできなかった。彼の涙が、私の心にも染みてくるようだった。彼の温かい涙に触れて、彼の苦しみの深さを改めて感じた。


 しばらくして、彼が少し落ち着いたのを見計らって、私は静かに尋ねた。


「蒼太くんは…私に、虫を踏んでほしいの…?」


 その言葉を口にするのは、とても勇気がいった。意識して虫を踏むなんて、考えたこともなかった。小さな頃から虫は苦手だった。足元を何かが這う感触を想像するとぞっとする。でも、彼の苦しそうな顔を見ていると、彼が望むことなら、何でもしてあげたいと思ってしまったのだ。


 彼は驚いたように顔を上げ、そして苦しそうに首を振った。


「いや…そんなこと…詩織にさせられない…お前は、虫とか苦手だろ…?」


 彼の気遣いが嬉しかった。でも、それ以上に、彼をこの苦しみから解放してあげたいという気持ちが強かった。このまま彼が苦しみ続けるのを見る方が、私にとっては辛い。


「得意じゃない…ううん、正直に言うと怖いよ。でも…もし、それが蒼太くんの苦しみを少しでも和らげることになるなら…私…」言葉が詰まる。怖い。本当に怖い。足の裏で小さな命を押し潰す感触、それを想像するだけで吐き気がする。でも、「蒼太くんが、そんなに苦しんでいるのを知ってしまったら…私、何もしないでいるなんてできないよ。蒼太くんを失う方が、ずっと怖いから」


 涙が溢れてきた。彼に見せるつもりのなかった弱さだった。でも、これが私の正直な気持ちだった。彼を失うくらいなら、どんなことだってできる。この愛情が、私に勇気をくれた。


「本当に…いいのか…? 詩織にそんな辛い思いをさせてまで、俺は…」


「いいの」私は彼の言葉を遮るように、しかしはっきりと告げた。「蒼太くんが一人で苦しむくらいなら、私も一緒にその苦しみを分け合いたい。それが、私にできることなら…やってみたい」


 自分でも驚くほど、その声は強く響いた。蒼太くんの手を握りしめると、彼は泣きそうな顔で、でもどこか安堵したような表情で、私を見つめ返した。「ありがとう…詩織…」と呟く彼の声は、震えていた。その声を聞いて、私の決意はさらに固まった。


 この決断が、私たちをどこへ導くのか、私にはまだ分からなかった。でも、彼と一緒にいられるなら、どんな未来でも受け入れる覚悟だった。ただ心のどこかで、これから始まるであろう未知の体験に対する、ほんのわずかな好奇心と、そして大きな不安が渦巻いていた。私の足元で何かが蠢いているような、そんな気配を感じていた。



 告白から数日後、私たちは人気のない河川敷に来ていた。秋の午後の陽射しは柔らかく、風がススキの穂を揺らしていたけれど、私の心は鉛のように重かった。これから起こることを考えると、足がすくむようだった。お気に入りのリボンのついた白いソックスに、艶やかな黒いエナメルパンプス。5センチほどのヒールが、今日の私には少しだけ高く、そして不安定に感じられた。一歩踏み出すたびに、ヒールが地面に食い込む感触が、妙に生々しかった。


「本当に…無理しなくていいんだよ。やっぱり、やめよう」


 蒼太くんは何度もそう言ってくれたけれど、私は黙って首を横に振った。彼のために私が決めたことだから。でも顔はきっと青ざめていただろうし、指先は冷たく震えていた。彼に弱々しく微笑みかけるのが精一杯だった。心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。


 彼が指差したのは、枯葉の上をゆっくりと這う、小さな黒い虫だった。体長は1センチにも満たない、本当に小さな命。それを見た瞬間、心臓がぎゅっと縮こまるのを感じた。呼吸が浅くなり、足が震える。あの小さな黒い点が、やけに大きく見えた。


「…あれを…」


 彼の声が、どこか遠くで聞こえるようだった。私はその小さな黒い点から目が離せなかった。どうしよう。本当に私にできるのだろうか。逃げ出したい気持ちと、彼のためにという気持ちが、心の中で激しくぶつかり合っていた。


 数秒の沈黙。永遠にも感じられる時間だった。私はゆっくりと一歩を踏み出した。黒いエナメルパンプスのつま先が、虫のすぐそばで止まる。一度、蒼太くんの顔を見上げた。彼の瞳は期待と不安と、そして私への申し訳なさで揺れていた。彼が何も言えないことが、逆に私に覚悟を決めさせたのかもしれない。彼の視線が私に勇気を、いや、ある種の強迫観念を与えているようだった。


 深く息を吸い込み、そっと右足を上げた。パンプスの靴底が、陽光を反射してエナメルの艶を鈍く光らせる。その動きはひどくぎこちなく、自分の足ではないみたいだった。足が、まるで石のように重い。そしてそれはゆっくりと、しかし確実に小さな虫の真上へと降ろされていった。


「…っ!」


 思わず小さな呻き声が漏れた。パンプスの底が、カサリ、と乾いた葉を踏む音。そして、微かな、しかし明確な「プチッ」という音。熟した木の実が弾けるような乾いた音。その瞬間、私は固く目を閉じていた。足の裏に、何か硬くて脆いものが、ほんの少しだけ抵抗した後に砕ける、嫌な感触が伝わってくる。それは一瞬の出来事だったけれど、私の足の裏にはっきりと刻まれた。


 私は数秒間、そのままの体勢で固まっていた。恐る恐る目を開け、足を上げると、そこには…パンプスの靴底の模様がうっすらと残った、黒く潰れた虫の残骸があった。体液が滲み、細い脚が不自然な方向に折れ曲がっている。あまりにもあっけない、命の終わり。その光景は私の脳裏に焼き付いて離れなかった。


 その光景を見た瞬間、胃の奥から何かがこみ上げてくるのを感じた。顔が青ざめ、よろよろと後ずさる。そして、堪えきれずに涙が溢れ出した。


「ごめんなさい…ごめんなさい…っ…うぅ…」


 その場にしゃがみ込み、声を殺して泣いた。虫への申し訳なさ、自分自身への嫌悪感、そして、こんなことをさせてしまう蒼太くんへの複雑な感情。でも、一番大きかったのは、彼がこれで少しでも救われるのなら、という歪んだ安堵感だったのかもしれない。「こんなことで彼は救われるの?」そんな疑問も頭をよぎったが、彼の少しだけ和らいだように見える表情が、私の行動を肯定しているように思えた。


「詩織…もういい、もう大丈夫だから…よく、頑張った…」


 蒼太くんが駆け寄ってきて、私の震える肩を抱き寄せてくれた。彼の胸の中で、私は子どものように泣きじゃくった。彼のシャツが、私の涙で濡れていく。彼の温もりが、少しだけ私の恐怖を和らげてくれた。


「本当に…これで蒼太くんは…少しは、楽になれたの…?」


 涙声で尋ねると、彼は「ああ…ありがとう、詩織」とだけ答えた。その声は、どこか虚ろに聞こえたけれど、私にはそれ以上何も聞けなかった。


 帰り道、私たちはほとんど口をきかなかった。でも、蒼太くんと固く手を繋いでいた。私の小さな手は、まだ微かに震えていた。エナメルパンプスの底に付着したかもしれない、微かな虫の痕跡を思うと、胸の奥がズキリと痛んだ。足の裏に、まだあの硬い感触が残っているような気がした。


 これが、始まりだった。彼への愛情と、そして未知の領域への一歩。私の心は、罪悪感と、彼を支えたいという強い想いで揺れ動いていた。


 数日後、大学の帰り道。街路樹の根元、敷石の隙間で、数匹のアリが列をなして歩いていた。蒼太くんの視線が、無意識にそこに引き寄せられているのに気付いた。彼の瞳が、またあの渇望するような色を帯びている。彼の視線を感じると、私の足元もなんだかソワソワした。


 私は何も言わなかった。ほんの一瞬だけ彼の顔を見て、そして静かに足を止めた。私の足元には、小さなアリの行列。リボンのついた白いソックスに、いつもの黒いエナメルパンプス。


 ほんの少しだけ躊躇ったけれど、次の瞬間、私はそっと右足を踏み出した。エナメルパンプスの底が、数匹のアリをまとめて覆い隠す。前回のような、はっきりとした音は聞こえなかった。ただ靴底を通して、何かがプチプチと連続的に潰れる、微かで湿った感触が伝わってきた。それは、まるで小さな種をいくつか同時に踏み潰したような、奇妙な感覚だった。その動作は、前回よりも少しだけスムーズだったかもしれない。恐怖よりも、彼の期待に応えなければという気持ちが勝っていた。


 ゆっくりと足を上げると、そこには、数匹のアリが潰れた痕が、点々と残っていた。前回のような激しい動揺はなかった。私は少しだけ眉を寄せ、すぐに視線を逸らした。そして、小さく呟いた。


「…慣れるもの、なのかな…こんなこと…」


 その声には、諦めと、自分自身への戸惑いが混じっていた。足の裏の微かな感触は、まだ消えていない。蒼太くんは、複雑な表情で私を見つめていた。彼の瞳の奥の暗い輝きが、少しだけ和らいだように見えたのは、気のせいだろうか。私の心の中では、罪悪感と、彼を満足させられたかもしれないという奇妙な安堵感が、まだせめぎ合っていた。そして、あのプチプチとした感触が、なぜか妙に記憶に残った。



 三度目の「それ」は、唐突にやってきた。


 雨上がりの午後、私たちは公園のベンチに座って、雨に濡れた木々を眺めていた。私の足元、濡れた地面に、一匹の小さなカタツムリがゆっくりと這っていた。薄茶色の殻を背負い、ぬめりのある体が伸び縮みしている。雨露に濡れた殻が、きらりと光って見えた。そのぬめりとした動きが、少しだけ気持ち悪かった。


 私がそれに気付いたのとほぼ同時に、蒼太くんも視線を落とした。彼の息がわずかに詰まるのが分かった。彼の視線は、カタツムリと私の足元を交互に見ているようだった。その期待するような眼差しに、私はもう逆らえなくなっていた。


 そして私は、まるでそれが当然の行為であるかのように、すっと立ち上がった。以前のような強い躊躇いは、もう感じなかった。彼が喜んでくれるならという気持ちが、私の行動を後押ししていた。


 蒼太くんの顔をちらりと見る。彼の瞳には何かを期待するような、そして少しだけ不安そうな色が浮かんでいた。私は彼を試すように、わざとゆっくりと右足を上げた。黒いエナメルパンプスの5センチほどのヒールが、鈍い光を放つ。そして何の躊躇もなく、ヒールの先端で、カタツムリの殻の真ん中を踏み抜いた。


「パキッ…グシャ」


 乾いた殻が砕ける音と、その下の柔らかい肉体が潰れる鈍い音が、やけにクリアに耳に届いた。細いヒールが脆い殻を貫通し、ぬめりのある肉体を押し潰す感触が、足の裏に生々しく伝わってくる。それは硬い殻がパリンと割れ、その直後に柔らかく抵抗のない何かがヒールにまとわりつくような、二段階の感触だった。私は、一瞬だけ足に力を込め、さらにヒールをグリグリと地面に押し付けるようにした。それは自分でも驚くほど、冷酷で容赦のない動きだった。ヒールに込めた力で、中の柔らかいものがさらに潰れていくのが分かった。


 ゆっくりと足を上げると、エナメルパンプスのヒールの先端には、砕けた殻の破片と、ぬめりのある体液がべっとりと付着していた。白いソックスは特に汚れていない。私は、その光景を無表情で見下ろし、バッグからティッシュを取り出した。ヒールについた汚れを丁寧に拭い、それを小さく丸めて近くのゴミ箱に捨てる。以前なら顔を背け、涙ぐんでいただろう光景から、私は目を逸らさなかった。むしろ、靴底に付着した残骸を、どこか冷静に観察している自分がいた。ティッシュで拭ったときの、ぬるりとした感触が指先に残った。


「…カタツムリは紫陽花の葉っぱ食べる害虫だもんね。それに、こうしないと、蒼太くんが満足しないでしょ?」


 そう言って、私は彼に向かって、ほんの少しだけ唇の端を上げてみせた。それは、以前の純粋な笑顔とは全く違う、どこか挑戦的で、そして微かに倒錯的な影を帯びた微笑だった。何かを諦めてしまったような、それでいて、何か新しい感情が芽生え始めているような、そんな複雑な表情だったと思う。自分でも、なぜそんな表情をしたのか分からなかった。


 蒼太くんは、言葉を失ったように私を見つめていた。彼の瞳には、驚きと興奮と、そしてほんの少しの恐怖が混じっているように見えた。その彼の反応が、私の心のどこかを刺激した。


「詩織…無理しないで…」


 彼の絞り出すような声は、震えていた。私は、そんな彼に静かに首を振った。


「無理なんてしてないよ。…なんだか…変な感じ。こんなことしてる自分…。でも、蒼太くんが隣で見ていると…少しだけ、平気になるの。それに…この感触…ヒールで踏んだ時の…ちょっと、ドキドキする」


 自分の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。でも、それは嘘偽りのない気持ちだった。頬が微かに紅潮しているのを感じる。彼を喜ばせたい。その一心だったはずなのに、いつの間にか、行為そのものに奇妙な興奮を覚え始めている自分がいた。あの、ヒールが何かを貫き、押し潰す瞬間の感触が、なぜか忘れられなかった。


 その夜、雨が再び降り始めた。私たちは、私の部屋にいた。窓の外は激しい雨音。部屋の中は薄暗く、テレビの光だけが私たちの顔をぼんやりと照らしていた。


「ねえ、蒼太くん」私は彼にもたれかかりながら、小さな声で言った。「今日のカタツムリ…踏んだ時、思ったの。最初に虫を踏んだ時はすごく嫌だったけど…なんだろう、あの…ぐにゃってする感触…ヒールが沈んでいく感じ…今日はちょっとだけ…変な言い方だけど…面白かった、かも」


 自分でも驚くような言葉だった。蒼太くんは息を呑んで私を見つめた。彼の驚いた顔が、なぜか私の心をくすぐった。


「面白かった…?」


「うん…なんかね、自分がすごく強い存在になったみたいな…普段の私じゃないみたいで…それに、蒼太くんがそれを見て、少し嬉しそうだったから…私も、なんだか…嬉しくなっちゃったのかな」


 私は彼の顔を覗き込むようにして、悪戯っぽく微笑んだ。その笑顔は以前の私には決してなかった、どこか大胆な色を帯びていたかもしれない。彼が喜んでくれるなら、私はもっと大胆になれるかもしれない、そんな予感がした。


「詩織…お前は、自分がどう変わってきてるか、分かってるのか…?」


「分かってるよ。でも、いいの。蒼太くんが好きな私でいられるなら…どんな私になっても」


 その言葉はまるで甘い毒のように、私の心に染み渡っていった。彼が望むなら私は変われる。ううん、変わりたいのかもしれない。この新しい感覚は、怖いけれど、同時に抗いがたい魅力を持っていた。


 そして、その日は雨上がりの別の日にやってきた。公園の湿った土の上を、一匹の大きなミミズがのたくっていた。体長は10センチほどもありそうで、赤黒くぬめりのある体がくねくねと動いている。その姿は、正直言って気持ち悪かった。


 それを見つけた瞬間、さすがに躊躇いがこみ上げてきた。でも、隣にいる蒼太くんの期待に満ちた視線を感じると、私の心の中で何かがカチリと音を立てた。彼の視線が、私を大胆にさせていた。


「…これは、ちょっと…手強いわね。でも…蒼太くんが見てるなら、頑張っちゃおうかな」


 私は黒いエナメルパンプスのつま先でミミズの体を軽くつついてみた。ミミズは激しく身をよじらせる。その反応が、なぜか少しだけ面白く感じられた。まるで、私がこの小さな命をコントロールしているような錯覚。私はゆっくりと右足を上げた。エナメルの光沢が、鈍く濡れたように見える。


「いくよ、蒼太くん。しっかり見ててね」


 わざとゆっくりと、ミミズの胴体の真ん中にエナメルパンプスの靴底を降ろしていった。ぬちゃり、という生々しい音が響き、ミミズの体はあっけなく押し潰された。靴底に、柔らかく弾力のあるものが潰れる、鈍い感触が伝わる。でも、私はそれで終わらせなかった。一度軽く足を上げ、位置を確認するようにしてから、今度はヒールで、あるいは靴底全体で何度も執拗に、まるで何かをすり潰すかのように踏みにじった。くちゅ、くちゅ、ねちゃ、という湿った音が続き、ミミズは見る影もなく泥と混じり合い、赤黒いミンチのようになっていく。足の裏全体で、そのぐちゃぐちゃとした感触を確かめるように、何度も何度も踏みつけた。私の息は少し荒く、頬はうっすらと紅潮していた。その目は爛々と輝き、唇の端には微かな、しかし明確な笑みが浮かんでいるようにも感じた。なんだか頭がぼーっとして、目の前の行為に夢中になっていた。


「…ふふっ…なんだか、徹底的にやらないと気が済まなくて…。こう…ぐちゃぐちゃになるまで…ね?」


 上気した声で呟き、ようやく足を止めた。エナメルパンプスの靴底には、無残に潰れたミミズの残骸がべったりと付着していた。泥と体液と、元はミミズだったものの破片。


「うわ…これは、さすがに…すごいことになっちゃったわね」


 顔をしかめたけれど、その声には嫌悪よりも、むしろある種の達成感と、抑えきれない興奮が混じっていた。私はつま先で地面に靴底を何度かこすりつけ、ティッシュを取り出して汚れを拭い、それを近くのゴミ箱に捨てた。ティッシュ越しにも、まだぬめりとした感触が残っていた。


「…でも、なんだか…征服した、みたいな感じ? ちょっとだけ、スッキリしたかも。心臓、まだドキドキしてる」


 そう言って、私は少し楽しそうに、どこか挑発的に笑った。その笑顔は、もはや以前の私の笑顔ではなかった。罪悪感はどこかへ消え去り、代わりに倒錯的な好奇心と、彼を喜ばせているという高揚感が、私の心を支配し始めていた。蒼太くんは、そんな私の変貌を、興奮と恐怖の入り混じった複雑な表情で見つめていた。彼のその表情が、私の新しい扉を開いたのかもしれない。



 季節は巡り、冬が訪れようとしていた。蒼太くんとの「儀式」は、その後も何度か繰り返された。公園の落ち葉の下に隠れていた大きなクモを踏み潰した時、その硬い甲殻がパキパキと砕ける感触がヒールに伝わってきた。アスファルトの裂け目にいたダンゴムシの群れをパンプスの底でまとめて踏み潰した時は、小さな殻がいくつも弾けるような、細かい振動を感じた。そして、雨の日に道端に現れたミミズは、あの時と同じように、執拗に、ミンチになるまで徹底的に踏みにじり続けた。


 私は、次第にその行為に「熟練」していった。最初の頃のような恐怖や動揺は、まったく感じない。時には彼が何も言わなくても、彼の視線だけでその意図を察し、自ら虫を探し出し、そして淡々と、しかしどこか愉悦を込めて踏み潰すことさえあった。踏み潰す対象によって、エナメルパンプスのヒールを使ったり、靴底全体でじっくりと体重をかけたりと、その方法を無意識に変えている自分に気付くこともあった。どうすれば彼がより喜んでくれるか、どうすればこの奇妙な感触をより強く感じられるか、そんなことばかり考えていた。


 私の黒いエナメルパンプスの靴底は、幾度となく小さな命の感触を記憶しただろう。リボンのついた白いソックスは、その行為を間近で見つめ続け、時に微かな泥や体液で汚れることもあった。でも、それをティッシュで丁寧に拭いながらも、以前のような嫌悪感はなかった。ただ黙々と、そして時には微かな笑みを浮かべながら、彼の望む行為を繰り返した。汚れた靴底を見ることさえ、どこか倒錯的な満足感を覚えるようになっていた。


 ある時、蒼太くんが不安そうに私に尋ねた。


「詩織は…本当に、もう嫌じゃないのか…?」


 私は、少しの間黙って考えていたけれど、やがて楽しそうにクスクスと笑いながら答えた。


「…最初は怖かったし、気持ち悪かったわ。今でも、進んでやりたいわけじゃないけど…でもね、これをすることで、蒼太くんが喜んでくれる顔を見るのが、なんだか癖になっちゃったみたいなの」


 そして、私は悪戯っぽく続けた。


「それに…なんだか、不思議な気持ちなの。蒼太くんの、誰にも見せない秘密の部分を、私だけが知っていて、私だけが満たしてあげられる。それが…少しだけ、ううん、かなり、嬉しいって思っちゃう自分がいるの。私たちだけの秘密って感じで、ドキドキするし…ちょっとしたスリルもあるじゃない?」


 その言葉は、私の本心だった。彼が私だけに見せる、あの特別な眼差し。彼が私だけに求める、この倒錯的な行為。それが、私たちを強く結びつけているような気がして、たまらなく愛おしかったのだ。この秘密を共有することで、私たちは誰よりも深いところで繋がっている、そんな気がした。


 蒼太くんは、息を呑んで私を見つめた後、私を強く抱き締めた。彼の腕の中で、私は自分の変化を確信した。もう、以前の私ではない。でも、今の自分が嫌ではなかった。彼に求められる自分が好きだった。


「詩織…俺は、お前を不幸にしているんじゃないか…?」


 彼の苦しそうな声。私は、彼の胸に顔をうずめながら、首を横に振った。


「ううん。蒼太くんと一緒にいられるなら、私は不幸じゃないわ。…ただ、時々、自分が自分でなくなるような気がして、少しゾクゾクするだけ。でも、それも悪くないって思うの。だって、蒼太くんが好きな私でいられるんだもの」


 私の声は、甘く、微かに震えていた。それは恐怖からではなく、彼と共有するこの秘密の興奮からくる震えだった。彼の苦しみも、喜びも、全部私が受け止める。そう決めていた。このゾクゾクする感覚が、私を彼にさらに近づけてくれるような気さえした。


 ある冬の寒い日。私たちは、いつものように河川敷を歩いていた。枯れ草が寒風に揺れている。ふと、私の足元で、凍えている小さなテントウムシを見つけた。鮮やかな赤に黒い斑点。か弱く、美しい命。


 私は、蒼太くんの顔を見た。彼の瞳には、もう戸惑いの色はなかった。ただ、静かな期待と、私への絶対的な信頼が宿っていた。その信頼に応えたい、という気持ちが、私の心を支配した。


 私はゆっくりと足を上げた。そして、黒いエナメルパンプスのヒールで、テントウムシの中心を狙って、正確に踏み潰した。プチッ、という小さな音が、冬の澄んだ空気にかすかに響いた。ヒールの先端に、ほんのわずかな抵抗と、それが潰れる瞬間の微かな感触。パンプスのヒールの先端に、赤い体液と黒い斑点が微かに付着する。


 行為の後、私は彼に向かって、ふわりと微笑んだ。それは、出会った頃の陽だまりのような笑顔とは違う、どこか妖艶で、しかし強い意志を感じさせる笑顔だった。私は、靴底についたテントウムシの残骸を、ティッシュで拭うこともせず、わざとそのままにして、彼に見せつけるように一歩踏み出した。


「大丈夫よ、蒼太くん。私は、ここにいるから。あなたのそばに、ずっと」


 その言葉は、心からの誓いだった。彼がどんな闇を抱えていようと、私がその闇を照らす光になる。ううん、光になれなくてもいい。一緒にその闇の中にいられるなら、それで。彼が私を必要としてくれる限り、私は何度でもこのヒールで小さな命を奪うだろう。


 蒼太くんは、私の冷たくなった手を強く握った。


「ありがとう、詩織。…俺も、お前を絶対に守る。何があっても」


 彼の言葉が、冷たい風の中で温かく響いた。


 私たちは、しっかりと手を繋ぎ、ゆっくりと歩き出した。この先に何が待ち受けていようとも、二人で一緒に歩いていく。私の白いソックスと黒いエナメルパンプスは、今日もまた、小さな命の痕跡をわずかに残しているのかもしれない。でも、もう私はそれを恐れない。彼の隣で、彼の微かな笑みを感じながら、この倒錯した愛の形を、私は受け入れて生きていくのだ。それが、私の選んだ幸せの形だから。そして、私の足の裏は、これからもずっと、彼と私だけの秘密の感触を記憶し続けるのだろう。

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蒼太と詩織 写乱 @syaran_sukiyanen

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