蒼太と詩織

写乱

第1話 蒼太

 新緑が目に眩しい四月。

 俺、柏木蒼太は、真新しい教科書と少しばかりの気怠さを抱えて大学の門をくぐった。期待と不安が入り混じる新生活。そんな中で唯一、心惹かれたのが写真サークルだった。ファインダー越しに世界を切り取るという行為に、漠然とした憧れがあった。理由はもう一つ、子どものころから引きずっている、誰にも言えない鬱屈した感情のはけ口になるかもしれない、という淡い期待もあった。


 サークルの新入生歓迎会。居酒屋の喧騒と、先輩たちの少し上滑りなジョークが飛び交う中で、彼女、水野詩織は、まるで陽だまりのような笑顔を浮かべていた。艶やかな黒髪は肩甲骨のあたりまで伸び、毛先がふわりと内側に巻いている。白いブラウスに淡い花柄のスカート、そして足元は決まってリボンのついた白いソックスに、光沢が上品な5センチくらいのヒールのある黒いエナメルパンプス。その姿は、まるで少女漫画から抜け出してきたかのように清楚で、控えめな印象だった。周りが騒がしいほど、彼女の静かな佇まいが際立って見えた。


 最初のうちは、遠くから彼女の笑顔を盗み見るだけだった。カメラを構え、ファインダー越しに彼女を捉えるたび、心臓が小さく跳ねるのを感じた。彼女の笑い声は鈴の音のように心地よく、その存在はサークルの空気を柔らかくしているように思えた。時折目が合うと、彼女は少しはにかんで、小さく会釈を返してくれる。その度に俺の胸は高鳴った。


 本格的に言葉を交わすようになったのは、新緑の公園での撮影会だった。木漏れ日がキラキラと降り注ぐ中、彼女は一生懸命にアジサイの花にピントを合わせようとしていた。しかし、どうしてもうまくいかないのか、小さなため息をつき、困ったように首を傾げている。その真剣な横顔と、時折見せる子供のような表情が、たまらなく愛おしく思えた。


「水野さん、そこ、もう少し絞りを開けてみると、背景がもっとボケてアジサイが際立つよ。F値を小さくするんだ」


 思わず声をかけると、彼女は「わっ」と小さな声を上げて驚いたように顔を上げた。大きな瞳が俺を捉え、そしてふわりと微笑んだ。


「ありがとうございます、柏木くん。カメラのこと、まだ全然分からなくて…F値、ですね。えっと、ダイヤルはこっちかな?」


 彼女は少し戸惑いながらも、一生懸命にカメラを操作しようとする。その姿が微笑ましくて、俺は自然と彼女の隣に腰を下ろしていた。


「そうそう、そのダイヤル。左に回すと…うん、いい感じ。これでシャッターを半押ししてみて」


 ファインダーを覗き込む彼女の横顔は真剣そのものだった。そして、「あっ」と小さく声を上げると、嬉しそうに俺を振り返った。


「すごい! さっきと全然違います! 背景がとろけるみたい…柏木くん、ありがとう!」


 屈託のない笑顔だった。その瞬間、俺の心の中で何かが弾けたような気がした。


 その日から、俺たちは急速に距離を縮めていった。サークル活動の合間には、互いの撮った写真を見せ合い、感想を言い合った。詩織は俺の少し癖のある構図の写真を「なんだか物語を感じる」と褒めてくれたし、俺は彼女の捉える優しい光の写真を「詩織の人柄が出てるね」と伝えた。彼女はいつも、俺の言葉を真剣に聞いてくれ、そして嬉しそうに微笑むのだ。


 帰り道が同じ方向だと分かってからは、よく一緒に帰るようになった。最初はカメラの技術的な話が多かったが、次第に好きな音楽や映画、地元の話へと話題は広がっていった。詩織は意外にも古いロックバンドが好きで、俺が何気なくそのバンドのTシャツを着ていた日に、「もしかして、柏木くんも好きなの?」と嬉しそうに話しかけてくれたことがある。そこから話が弾み、今度一緒にライブに行こうという約束までした。彼女は聞き上手で、俺のくだらない話にも楽しそうに相槌を打ってくれた。時折、彼女が自分の趣味や好きなものについて話すとき、その瞳はキラキラと輝き、普段の控えめな印象とは違う一面を見せてくれた。


 ある雨の日、サークルの部室で二人きりになったことがあった。他のメンバーは雨で活動を休んでいたが、俺たちは課題の作品選びに没頭していた。ふと、詩織が窓の外の雨を見ながら呟いた。


「雨の日の匂いって、なんだか落ち着きませんか? 小さい頃、雨が降ると母がココアを入れてくれて、それを飲みながら窓の外を眺めるのが好きだったんです」


「分かる気がする。俺は、雨音を聞いてると、普段の騒がしさがリセットされる感じがして好きだな」


 そんな他愛のない会話だったが、彼女の少しパーソナルな部分に触れられた気がして、胸が温かくなった。彼女もまた、俺の言葉に安心したような、柔らかな表情を浮かべていた。


 俺にはやや倒錯した性癖があった。女性が虫のようなか弱く小さな存在を、無造作に踏み潰す姿に言いようのない興奮を覚えるのだ。それは幼い頃に偶然目撃した光景がきっかけだったのか、あるいはもっと根深い何かがあるのか、自分でもよく分からなかった。ただ、その歪んだ欲望は、俺の中で確実に育ち続けていた。


 詩織と親しくなればなるほど、この性癖の存在が重くのしかかってきた。彼女の清らかさを知るたびに、自分の内なる醜悪さが際立ち、自己嫌悪に陥った。彼女の白いソックスと黒いエナメルパンプスを見るたび、その足が何かを踏み潰す場面を想像してしまい、そんな自分に吐き気を覚えた。彼女にこのことを知られたら、きっと軽蔑されるだろう。そう思うと、胸が張り裂けそうだった。


 季節は夏へ移ろい、サークルでは恒例の夏合宿の計画が持ち上がっていた。その打ち合わせを兼ねた飲み会。いつものように、詩織は柔らかな笑顔で皆の話を聞いていたが、時折、俺のほうに視線を向け、目が合うと小さく微笑んでくれる。その度に、俺はアルコールの力を借りなければ何も言えない自分を情けなく思った。


 飲み会が終わり、駅へと向かう帰り道。夏の夜風が少しだけ火照った頬に心地よい。二人きりになったタイミングで、俺は震える声で切り出した。


「水野さん…詩織ちゃん。ずっと、言いたかったことがあるんだ」


 詩織は黙って俺の言葉を待っていた。街灯の淡い光が、彼女の長いまつ毛の影を頬に落としている。心臓の音が、やけに大きく聞こえた。


「俺と、つき合ってほしい」


 言い終えると同時に、俯いてしまった。どんな反応が返ってくるのか、怖くて顔を上げられない。数秒が永遠のように感じられた。


「…はい」


 か細い、しかしはっきりとした声が聞こえた。驚いて顔を上げると、詩織は頬を染め、潤んだ瞳で俺を見つめていた。そしてあの陽だまりのような、今まで見た中で一番美しい笑顔を俺に向けた。


「私も…柏木くんのこと、ずっと見てました。柏木くんの撮る写真も、写真に向き合う真剣なところも…ううん、柏木くんの全部が、好きです」


 その瞬間、世界が輝き出したように感じた。長年の悩みも、歪んだ性癖も、全てが些末なことのように思えた。ただ、彼女の温もりとこの幸福感を、何があっても守り抜きたい。そう強く思った。彼女の言葉の一つ一つが俺の心の奥深くに染み渡り、これまでの孤独感を溶かしていくようだった。



 詩織との交際は夢のように穏やかで、満ち足りたものだった。週末のデートは、二人でカメラを片手に公園を散策したり、話題のカフェでお茶をしたり、時には近郊の街へ小旅行に出かけたりした。初めて手を繋いだのは、映画館の暗闇の中だった。緊張で汗ばんだ俺の手を、詩織は優しく握り返してくれた。その小さな手の温もりが、今でも忘れられない。


「蒼太くんの写真って、なんだか切ないけど、すごく優しいよね」


 ある日、二人で撮った写真を見返しているとき、詩織がそう言った。


「そうかな? 自分ではよく分からないけど」


「うん。きっと蒼太くん自身が、そういう人なんだと思う。いつも周りのことをよく見てて、困ってる人がいると、さりげなく助けてあげたりするでしょう?」


 そう言って、彼女は以前、サークルの機材運びで俺が一番重い荷物を黙って引き受けたことや、新入生が操作に戸惑っている時にそっとアドバイスしていたことなどを挙げてくれた。俺にとっては無意識の行動だったが、詩織はそんな些細なことまで見ていてくれたのかと思うと、胸が熱くなった。


「詩織だって、いつもみんなに優しいじゃないか。お前の笑顔見てると、ほっとするって、サークルの奴らも言ってるぞ」


「えへへ、そうかな? でも、蒼太くんが隣にいてくれるから、私も自然と笑顔になれるんだよ」


 そう言ってはにかむ彼女の姿は、たまらなく愛おしかった。


 彼女は、俺の些細な変化にもすぐに気がつく子だった。課題に追われて少し疲れた顔をしていれば、「無理しないでね。今日は私が夕飯作るよ」と手料理を振る舞ってくれた。彼女の作る生姜焼きは、少し甘めの味付けで、俺の好みにぴったりだった。サークルのコンテストで思うような結果が出せずに落ち込んでいれば、「蒼太くんの写真は、私は一番好きだよ。だって、蒼太くんの視点がそこにはあるもの。結果なんて気にしないで、これからも蒼太くんらしい写真を撮り続けてほしいな」と力強く励ましてくれた。その言葉は、どんな慰めよりも俺の心に響いた。


 その優しさが、温かさが、俺の心を締め付けた。俺は、こんなにも清らかで優しい彼女に、醜い秘密を隠し持っている。その事実が、まるで鋭い棘のように、常に心のどこかに突き刺さっていた。


 デート中、ふとした瞬間に、その性癖が鎌首をもたげることがあった。公園のベンチで談笑している時、彼女の足元を小さなアリが横切る。その瞬間、俺の視線はアリと、彼女の履いている黒いエナメルパンプスの靴底に釘付けになった。もし、彼女が気づかずにあのアリを踏み潰したら…? そんな想像が頭をよぎり、背徳的な興奮と同時に、激しい自己嫌悪が襲ってくる。


「蒼太くん? どうかしたの、顔色が悪いよ」


 心配そうに俺の顔を覗き込む詩織。彼女の澄んだ瞳に見つめられると、まるで心の中を見透かされているようで、慌てて笑顔を取り繕った。


「ううん、なんでもない。ちょっと考え事してただけ」


 嘘をつくたびに、胸が痛んだ。彼女との関係が深まれば深まるほど、この秘密を抱え続けることの苦しみは増していった。いつか、この歪んだ欲望が抑えきれなくなるのではないか。そうなったら、彼女を傷つけてしまうかもしれない。いや、既に俺は彼女を騙しているのと同じではないのか。


「ねえ、蒼太くん。今度の週末、行きたいところがあるんだけど…」


 詩織は、美術館のパンフレットを嬉しそうに見せてくれた。それは、俺が以前「行ってみたい」と何気なく話していた写真展だった。


「覚えててくれたのか?」


「もちろん! 蒼太くんが好きなもの、私も一緒に見たいし、感じたいから」


 その純粋な言葉が、俺の罪悪感をさらに深くした。俺は、こんなにも自分を想ってくれる彼女に対して、誠実でいられていない。


 そんな葛藤を抱えながら過ごすうちに、俺の態度はどこかぎこちないものになっていった。詩織といる時間は確かに幸せなのに、心の底から笑えない自分がいた。彼女からの電話やメッセージにも、どこか上の空で返してしまうこともあった。詩織が楽しそうに週末の計画を話してくれても、俺の返事はどこか鈍く、彼女の表情を曇らせてしまうこともあった。


「蒼太くん、最近何かあった…? 私、何か気に障ることしちゃったかな…もしかして、私とのデート、楽しくない…?」


 ある日のデートの帰り道、詩織が不安そうな表情でそう切り出した。彼女の声は震えていて、大きな瞳には涙が滲んでいた。その姿を見て、俺は自分がどれほど彼女を傷つけていたのかを思い知らされた。彼女の細い指が、不安げにスカートの裾を握りしめている。


「違う、詩織のせいじゃないんだ! ごめん、本当にごめん…! 詩織といるのは、すごく楽しい。ただ…俺の問題なんだ」


 俺は彼女を抱きしめることもできず、ただ謝ることしかできなかった。彼女の不安を取り除いてあげたい。でも真実を話す勇気がない。そのジレンマが、俺をさらに追い詰めていく。詩織はそんな俺の様子を、ただ黙って悲しそうな瞳で見つめていた。その眼差しが俺には何よりも辛かった。


 夜、一人になると、暗い欲望がむくむくと頭をもたげた。インターネットで、同じような性癖を持つ人間の書き込みを探しては、一時的な安堵と、より深い絶望を感じる。俺は異常なのだろうか。この欲望は、決して誰にも理解されないものなのだろうか。


 詩織の笑顔を思い浮かべる。あの笑顔を失いたくない。彼女が俺に向けてくれる、無条件の信頼と愛情を裏切りたくない。でもこのままでは、いつか必ず彼女を深く傷つけてしまう。もう限界だった。俺は彼女に全てを打ち明ける覚悟を決めなければならなかった。たとえその結果、彼女が俺のもとを去っていくことになったとしても。それが俺が彼女に対してできる、唯一の誠意なのかもしれない。



 ある秋晴れの週末。俺は詩織を、初めて二人で撮影に行った思い出の公園に誘った。木々は少しずつ色づき始め、散策路にはカサカサと音を立てる落ち葉が舞っていた。あの時と同じベンチに並んで座り、他愛のない話をする。でも俺の心臓は早鐘のように鳴り続け、手のひらは汗でじっとりと濡れていた。詩織は、そんな俺の緊張を感じ取ったのか、黙って俺の言葉を待っているようだった。彼女の横顔は、秋の柔らかな光を受けて、いつも以上に儚げに見えた。


「詩織…大事な話があるんだ」


 切り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。詩織はこくりと頷き、俺の目をじっと見つめた。その真摯な眼差しに、逃げ出したくなる気持ちを必死で抑え込む。


「俺には…人には言えない、歪んだ性癖があるんだ」


 言葉にした瞬間、全身の力が抜けていくような感覚に襲われた。詩織の表情が、わずかに強張ったのが分かった。彼女の白い指先が、スカートの生地を微かに握りしめる。


「え…それってどんな…?」


 彼女の声もまた、微かに震えていた。俺は目を伏せ、言葉を選びながら、自分の醜い欲望を吐露した。女性が小さな虫を踏み潰す姿に興奮を覚えてしまうこと。その光景を想像するだけで、背徳的な喜びを感じてしまうこと。そしてそんな自分に嫌悪感を抱き続けてきたこと。詩織と出会って、その笑顔に救われる一方で、この秘密が日に日に重荷になっていたこと。


 話している間、詩織は何も言わなかった。ただ時折、小さく息を呑む音が聞こえた。俺が顔を伏せている間も、彼女の視線が俺の頭上にあるのを感じていた。全てを話し終えた時、俺は顔を上げることができなかった。軽蔑されるだろう。気持ち悪いと思われるだろう。もうあの陽だまりのような笑顔を向けられることはないのかもしれない。沈黙が、まるで鋭いガラス片のように俺たちの間に突き刺さる。


 沈黙が重くのしかかる。数分がまるで永遠のように感じられた。やがて詩織が静かに口を開いた。


「…そうだったんだ。蒼太くん…ずっと、苦しかったね」


 その声は、思いのほか落ち着いていたが、よく聞くと微かな震えが混じっていた。俺は恐る恐る顔を上げた。詩織は、まっすぐに俺を見つめていた。その瞳の奥に、深い困惑と、そしてそれ以上に、俺に対する労りのような色が揺れているのが見えた。


「…気持ち悪い、だろ? こんな俺、嫌いになったよな?」


 絞り出すような俺の言葉に、詩織はゆっくりと首を横に振った。そして震える手で、そっと俺の手に触れた。その指先は氷のように冷たかった。


「ううん…驚いたけど…でも、蒼太くんがずっと苦しんでたことは、痛いほど分かったから。私に話してくれて、ありがとう。一人で抱え込ませてしまって…ごめんね」


 彼女の言葉は、予想していたどんな反応とも違っていた。軽蔑でも、拒絶でもなく、まず俺の苦しみに寄り添おうとしてくれている。その事実に、堰を切ったように涙が溢れ出した。みっともなくしゃくり上げながら、俺は何度も「ごめん」と繰り返した。詩織は何も言わずに、ただ優しく俺を抱き締めてくれた。その小さな手の温もりが、俺の凍りついた心を少しずつ溶かしていくようだった。


 しばらくして、俺が少し落ち着いたのを見計らって、詩織がぽつりと言った。


「蒼太くんは…私に、虫を踏んでほしいの…?」


 核心を突く言葉だった。彼女の瞳は真剣で、そこには好奇心や非難の色はなく、ただ純粋な問いかけだけがあった。俺は言葉に詰まった。彼女にそんなことを要求するのは、あまりにも酷だ。彼女の清らかさを汚してしまうことになる。


「いや…そんなこと…詩織にさせられない…お前は、虫とか苦手だろ…?」


 サークル活動で野外に出た時も、小さな羽虫が飛んできただけで、小さく悲鳴を上げて俺の後ろに隠れたことがあった。そんな彼女に、自ら虫を踏み潰させるなんて。


 詩織は、小さく首を振った。その表情は、苦悩に歪んでいた。


「得意じゃない…ううん、正直に言うと怖いよ。でも…もし、それが蒼太くんの苦しみを少しでも和らげることになるなら…私…」彼女は言葉を続けようとして、ぐっと唇を噛んだ。「蒼太くんが、そんなに苦しんでいるのを知ってしまったら…私、何もしないでいるなんてできないよ。蒼太くんを失う方が、ずっと怖いから」


 その瞳は潤んでいた。そこには、恐怖や嫌悪を必死に抑え込もうとする意志と、俺に対する深い愛情と、どうしようもないほどの戸惑いが浮かんでいた。彼女は俺を救いたい一心で、自分にとって受け入れがたいであろう行為を、選択肢に入れようとしてくれているのだ。


 その健気さが、あまりにも痛々しくて、胸が締め付けられた。


「本当に…いいのか…? 詩織にそんな辛い思いをさせてまで、俺は…」


「いいの」詩織は俺の言葉を遮るように、しかし優しい声で言った。「蒼太くんが一人で苦しむくらいなら、私も一緒にその苦しみを分け合いたい。それが、私にできることなら…やってみたい」


 その言葉は、か細く、頼りないものだった。しかし、その奥には、確かな覚悟のようなものが感じられた。俺は、彼女の優しさと愛情に、ただただ感謝するしかなかった。同時に、彼女にこんな決断をさせてしまう自分自身への不甲斐なさと、罪悪感でいっぱいだった。


「ありがとう…詩織…本当に、ありがとう…」


 俺は、詩織の手を強く握りしめた。この温もりを、決して離してはいけない。そしていつか必ず、彼女がこんな苦しい決断をする必要のない未来を、俺が作らなければならない。そう心に誓った。しかしその一方、心の奥底で、彼女が俺の倒錯した願いを受け入れてくれたことに対する、微かな、しかし確かな喜びを感じている自分もいた。



 告白から数日後。俺たちは、人気のない河川敷に来ていた。秋の午後の陽射しは柔らかく、風がススキの穂を揺らしていた。しかし、のどかな風景とは裏腹に、俺たちの間には重苦しい緊張感が漂っていた。


 詩織は、いつものようにリボンのついた白いソックスに、艶やかな黒いエナメルパンプスを履いていた。5センチほどのヒールが、彼女の華奢な足首をより一層際立たせている。その足元がおぼつかないように見えるのは、きっと俺の気のせいではないだろう。彼女の顔色は少し青ざめ、固く結ばれた唇が、内心の葛藤を物語っていた。時折、俺の顔を不安そうに見上げ、すぐに視線を逸らす。


「本当に…無理しなくていいんだよ。やっぱり、やめよう」


 何度目になるか分からない言葉を、俺は再び口にした。詩織は黙って首を横に振る。その瞳には、恐怖と、そしてどこか決然とした光が宿っていた。「大丈夫」とでも言うように、彼女は俺に弱々しく微笑みかけたが、その笑顔は痛々しかった。


 俺は、道端で見つけた小さな黒い虫を指差した。それは、枯葉の上をゆっくりと這っている、ありふれた虫だった。体長は1センチにも満たないだろう。


「…あれを…」


 詩織の視線が、その小さな黒点に向けられる。彼女の呼吸が、わずかに速くなったのが分かった。白いソックスに包まれた華奢な足首が、微かに震えている。彼女は何度か唾を飲み込み、無意識に自分のパンプスに視線を落とした。


 数秒の沈黙の後、詩織はゆっくりと一歩を踏み出した。黒いエナメルパンプスのつま先が、虫のすぐそばで止まる。彼女は一度、俺の顔を見上げた。その瞳は助けを求めるように揺れていたが、俺は何も言うことができなかった。ただ彼女の行動を見守るしかなかった。俺自身、期待と罪悪感で呼吸が浅くなっていた。


 詩織は深く息を吸い込み、そして意を決したように、そっと右足を上げた。華奢なパンプスの底が、陽光を反射してエナメルの艶を鈍く光らせる。その動きはひどくぎこちなく、まるで操り人形のようだった。そして、それはゆっくりと、しかし確実に、小さな虫の真上へと降ろされていった。


「…っ!」


 詩織の口から、小さな呻き声が漏れた。エナメルパンプスの底が、カサリ、と乾いた葉を踏む音と同時に、微かな、しかし明確な「プチッ」という音が鼓膜に届いた。それは、熟した木の実が弾けるような、乾いた音だった。


 俺は、その瞬間を凝視していた。詩織のエナメルパンプスの靴底が、小さな命を押し潰す瞬間を。彼女の足が、ほんのわずかに力を込めて踏みしめる様子を。白いソックスが、その衝撃を微かに吸収する様を。彼女の顔は蒼白になり、目は固く閉じられていた。


 詩織は数秒間、そのままの体勢で固まっていた。やがて、恐る恐る足を上げると、そこには、パンプスの靴底の模様がうっすらと残った、黒く潰れた虫の残骸があった。体液が滲み、細い脚が不自然な方向に折れ曲がっている。それはあまりにもあっけない、命の終わりだった。


 詩織は、その光景から目を逸らし、顔を青ざめさせたまま、よろよろと後ずさった。その瞳には、みるみるうちに涙が浮かんでいた。


「ごめんなさい…ごめんなさい…っ…うぅ…」


 彼女は、そう繰り返しながら、その場にしゃがみ込んでしまった。華奢な肩が、小刻みに震えている。虫への罪悪感、自分自身への嫌悪、そして俺の期待に応えられたのかという不安。様々な感情が彼女の中で渦巻いているのが痛いほど伝わってきた。


 俺は複雑な感情に襲われていた。自分の歪んだ欲望が満たされたことによる、背徳的な興奮。しかしそれ以上に、詩織にこんな残酷な行為をさせてしまったことへの強烈な罪悪感と後悔が、胸を締め付けた。


「詩織…もういい、もう大丈夫だから…よく、頑張った…」


 俺は彼女のそばに駆け寄り、その震える肩を抱き寄せた。詩織は俺の胸に顔を埋め、声を殺して泣きじゃくった。彼女の涙が俺のシャツを濡らしていく。その温かい雫は、まるで俺の罪を告発しているかのようだった。


「本当に…これで蒼太くんは…少しは、楽になれたの…?」


 涙声で詩織が尋ねた。俺は言葉に詰まりながらも、「ああ…ありがとう、詩織」と答えるしかなかった。その言葉が真実なのか嘘なのか、自分でもよく分かららなかった。


 帰り道、詩織はほとんど口をきかなかった。ただ、俺の手を固く握りしめていた。その小さな手は、まだ微かに震えていた。俺は、彼女のエナメルパンプスの底に付着したであろう、微かな虫の痕跡を想像し、再び込み上げてくる罪悪感と、それに抗えない微かな興奮に、内心で身悶えした。


 これが、始まりだった。彼女の優しさと愛情に甘え、俺たちは禁断の領域へと足を踏み入れてしまったのだ。


 数日後、大学の帰り道だった。街路樹の根元、敷石の隙間で、数匹のアリが忙しそうに列をなして歩いている。俺の視線が、無意識にそこに引き寄せられていることに、詩織は気付いたようだった。


 彼女は何も言わなかった。ほんの一瞬だけ俺の顔を見て、そして静かに足を止めた。その足元には、まさにアリの行列があった。彼女は、リボンのついた白いソックスに、いつもの黒いエナメルパンプスを履いていた。


 詩織は、ほんの少しだけ躊躇うような素振りを見せたが、次の瞬間、まるで何でもないことのように、そっと右足を踏み出した。エナメルパンプスの底が、数匹のアリをまとめて覆い隠す。前回のような、押し潰す音はほとんど聞こえなかった。ただ、彼女の足が一瞬だけ、わずかに体重を乗せるように沈み込んだのが分かった。その動作は、前回よりもいくらかスムーズだった。


 ゆっくりと足が上げられると、そこには、数匹のアリが潰れた痕が、点々と残っていた。前回のような激しい動揺は、詩織の表情には見られなかった。少しだけ眉を寄せ、すぐに視線を逸らした。そして、小さく呟いた。


「…慣れるもの、なのかな…こんなこと…」


 その声には、諦めと、自分自身への戸惑いが混じっていた。俺は、彼女のその変化に、安堵と不安の入り混じった複雑な感情を覚えた。罪悪感が薄らいだのだろうか。それとも、諦めに似た感情が芽生えているのだろうか。俺の胸には、やはり背徳的な興奮が込み上げてきたが、それと同時に、彼女が何か大切なものを失いつつあるのではないかという、漠然とした不安も感じていた。



 三度目は、さらに唐突だった。


 ある雨上がりの午後、俺たちは公園のベンチで、雨に濡れた木々を眺めていた。詩織の足元、濡れた地面に、一匹の小さなカタツムリがゆっくりと這っていた。殻は薄茶色で、ぬめりのある体が見え隠れしている。雨露に濡れた殻がきらりと光った。


 俺がそれに気付いたのとほぼ同時に、詩織も視線を落とした。そして彼女は、まるでそれが当然の行為であるかのように、すっと立ち上がった。その動きには、以前のような躊躇いはほとんど感じられなかった。


 彼女は、俺の顔をちらりと見た。その瞳には、何かを確かめるような、あるいは少しだけ挑発するような光が宿っているように見えた。そして何の躊躇もなく、黒いエナメルパンプスの5センチほどのヒールで、カタツムリの殻の真ん中を踏み抜いた。


「パキッ…グシャ」


 乾いた殻の砕ける音と、その下の柔らかい肉体が潰れる鈍い音が、妙にクリアに響いた。詩織の履くパンプスの細いヒールが、脆い殻を貫通し、カタツムリの柔らかな肉体を押し潰す。彼女は、一瞬だけ足に力を込め、さらにヒールをグリグリと地面に押し付けるようにした。それは、まるで獲物にとどめを刺すような、冷酷で容赦のない動きだった。


 ゆっくりと足を上げると、エナメルパンプスのヒールの先端には、砕けた殻の破片と、ぬめりのある体液がべっとりと付着していた。白いソックスは汚れていないようだ。詩織はその光景を無表情で見下ろし、そして、バッグからティッシュを取り出して、ヒールについた汚れを丁寧に拭い、それを小さく丸めて近くのゴミ箱に捨てた。以前なら顔を背け、涙ぐんでいただろう光景から、彼女は目を逸らさなかった。むしろ靴底に付着した残骸を、どこか値踏みするような、奇妙な好奇心をたたえた目で見つめているようにさえ思えた。


「…カタツムリは紫陽花の葉っぱ食べる害虫だもんね。それに、こうしないと、蒼太くんが満足しないでしょ?」


 そう言って、彼女は俺に向かって、ほんの少しだけ唇の端を上げてみせた。それは、以前の陽だまりのような笑顔とは全く違う、どこか挑戦的で、そして微かに倒錯的な影を帯びた微笑だった。何かを隠しているような、あるいは何かを諦めてしまったような、そんな空虚さを孕んでいた。


 俺は、言葉を失った。彼女の変わりように恐怖すら覚えた。彼女は俺の歪んだ欲望を満たすために、自分自身の感情を押し殺し、この行為に「慣れて」いこうとしているのかもしれない。いや、それだけではない。彼女の中で、何かが確実に変わり始めていた。


「詩織…無理しないで…」


 絞り出した声は、震えていた。詩織は俺の言葉に静かに首を振った。


「無理なんてしてないよ。…なんだか…変な感じ。こんなことしてる自分…。でも、蒼太くんが隣で見ていると…少しだけ、平気になるの。それに…この感触…ヒールで踏んだ時の…ちょっと、ドキドキする」


 彼女の声は少し上ずっていて、頬が微かに紅潮しているように見えた。その言葉は、刃物のように俺の心に突き刺さった。彼女は、俺の共犯者になろうとしている。俺の欲望のために、彼女の純粋さが少しずつ蝕まれていく。そしてその変化を、俺自身が望んでしまっているという矛盾。


 その夜、雨が再び降り始めた。俺たちは、詩織のアパートの部屋にいた。窓の外は激しい雨音。部屋の中は薄暗く、テレビの光だけが俺たちの顔を照らしていた。


「ねえ、蒼太くん」詩織が俺の肩に寄りかかりながら、小さな声で言った。「今日のカタツムリ…踏んだ時、思ったの。最初に虫を踏んだ時はすごく嫌だったけど…なんだろう、あの…ぐにゃってする感触…ヒールが沈んでいく感じ…今日はちょっとだけ…変な言い方だけど…面白かった、かも」


 俺は息を呑んだ。彼女の言葉は、俺の予想を遥かに超えていた。


「面白かった…?」


「うん…なんかね、自分がすごく強い存在になったみたいな…普段の私じゃないみたいで…それに、蒼太くんがそれを見て、少し嬉しそうだったから…私も、なんだか…嬉しくなっちゃったのかな」


 彼女は俺の顔を覗き込むようにして、悪戯っぽく微笑んだ。その笑顔には、以前の無垢さとは違う、どこか妖艶な魅力が漂っていた。


「詩織…お前は、自分がどう変わってきてるか、分かってるのか…?」


「分かってるよ。でも、いいの。蒼太くんが好きな私でいられるなら…どんな私になっても」


 その言葉は、甘美な毒のように俺の心に染み渡った。俺は彼女のその変化を、心のどこかで歓迎している自分を否定できなかった。


 そして、その日は雨上がりの別の日にやってきた。公園の湿った土の上を、一匹の大きなミミズがのたくっていた。体長は10センチほどもありそうで、赤黒くぬめりのある体がくねくねと動いている。


 詩織はそれを見つけると、一瞬立ち止まった。その顔には、さすがに躊躇いが浮かんでいた。しかし、彼女は俺の顔をちらりと見ると、ふっと息を吐いた。その瞳の奥に奇妙な光が宿っている。


「…これは、ちょっと…手強いわね。でも…蒼太くんが見てるなら、頑張っちゃおうかな」


 そう言って、彼女は黒いエナメルパンプスのつま先でミミズの体を軽くつついてみた。ミミズは激しく身をよじらせる。詩織は、その反応をどこか面白がるように見つめ、そしてゆっくりと右足を上げた。エナメルの光沢が鈍く濡れたように見える。


「いくよ、蒼太くん。しっかり見ててね」


 彼女は、わざとゆっくりと、ミミズの胴体の真ん中にエナメルパンプスの靴底を降ろしていった。ぬちゃり、という生々しい音が響き、ミミズの体はあっけなく押し潰された。しかし詩織はそれで終わらせなかった。一度軽く足を上げ、位置を確認するようにしてから、今度はヒールで、あるいは靴底全体で何度も執拗に、まるで何かをすり潰すかのように踏みにじった。くちゅ、くちゅ、ねちゃ、という湿った音が続き、ミミズは見る影もなく泥と混じり合い、赤黒いミンチのようになっていく。詩織の息は少し荒く、頬はうっすらと紅潮していた。その目は爛々と輝き、唇の端には微かな、しかし明確な笑みが浮かんでいるようにも見えた。


「…ふふっ…なんだか、徹底的にやらないと気が済まなくて…。こう…ぐちゃぐちゃになるまで…ね?」


 彼女は上気した声で呟き、ようやく足を止めた。靴底には、無残に潰れたミミズの残骸がべったりと付着していた。


「うわ…これは、さすがに…すごいことになっちゃったわね」


 詩織は顔をしかめたが、その声には嫌悪よりも、むしろある種の達成感と、抑えきれない興奮が混じっているように聞こえた。彼女は、つま先で地面に靴底を何度かこすりつけ、ティッシュを取り出して丁寧に汚れを拭い、それを近くのゴミ箱に捨てた。


「…でも、なんだか…征服した、みたいな感じ? ちょっとだけ、スッキリしたかも。心臓、まだドキドキしてる」


 そう言って、詩織は少し楽しそうに、しかしどこか挑発的に笑った。その笑顔は、もはや以前の彼女のものではなかった。罪悪感は薄れ、代わりに倒錯的な好奇心と、彼を喜ばせているという高揚感が、彼女の心を支配し始めていた。俺はそんな詩織の変貌を、興奮と恐怖の入り混じった感情で見つめるしかなかった。



 季節は巡り、冬が訪れようとしていた。詩織との「儀式」は、その後も何度か繰り返された。公園の落ち葉の下に隠れていた大きなクモ。アスファルトの裂け目にいたダンゴムシの群れ。そして、雨の日に道端に現れたミミズ。


 詩織は、次第にその行為に「熟練」していった。最初の頃のような躊躇いや動揺は、もうまったく見られない。時には、俺が何も言わなくても、俺の視線に気付き、自ら虫を探し出し、そして淡々と、しかしどこか愉悦を込めて踏み潰すことさえあった。彼女は、踏み潰す対象によって、エナメルパンプスのヒールを使ったり、靴底全体でじっくりと体重をかけたりと、その方法を変えることさえあった。


 彼女の黒いパンプスの靴底は、幾度となく小さな命の感触を記憶しただろう。繊細なレースがあしらわれたリボンのついた白いソックスは、その行為を間近で見つめ続け、時に微かな汚れを付着させることもあった。彼女は、それをティッシュで丁寧に拭いながらも気にする素振りも見せず、ただ黙々と、そして時には微かな笑みを浮かべながら、俺の望む行為を繰り返した。


 ある時、俺は詩織に尋ねた。


「詩織は…本当に、もう嫌じゃないのか…?」


 彼女は、少しの間黙っていたが、やがて楽しそうにクスクスと笑いながら答えた。


「…最初は、怖かったし、気持ち悪かったわ。今でも、進んでやりたいわけじゃないけど…でもね、これをすることで、蒼太くんが喜んでくれる顔を見るのが、なんだか癖になっちゃったみたいなの」


 そして、彼女は悪戯っぽく続けた。


「それに…なんだか、不思議な気持ちなの。蒼太くんの、誰にも見せない秘密の部分を、私だけが知っていて、私だけが満たしてあげられる。それが…少しだけ、ううん、かなり、嬉しいって思っちゃう自分がいるの。私たちだけの秘密って感じで、ドキドキするし…ちょっとしたスリルもあるじゃない?」


 その言葉に、俺は息を呑んだ。彼女は、この歪んだ関係性の中に、ある種の特別な絆と、倒錯的な喜びを見出していた。それは、あまりにも切なく、そして危険な兆候だった。


 俺は、詩織を強く抱き締めた。彼女の華奢な体は、以前よりも少しだけしなやかで、自信に満ちているように感じられた。


「詩織…俺は、お前を不幸にしているんじゃないか…?」


「ううん。蒼太くんと一緒にいられるなら、私は不幸じゃないわ。…ただ、時々、自分が自分でなくなるような気がして、少しゾクゾクするだけ。でも、それも悪くないって思うの。だって、蒼太くんが好きな私でいられるんだもの」


 彼女の声は甘く、微かに震えていた。それは恐怖からではなく、興奮からくる震えのように思えた。俺は、彼女の不安を感じつつも、それ以上に彼女がこの状況を受け入れ、さらには楽しんでいることに対する驚きと、そして抗いがたい魅力を感じていた。俺の性癖は、確かに満たされている。そして、その代償として、彼女の心が変容していくのを見ているのは、耐え難い苦痛であると同時に、抗いがたい快感でもあった。


 俺たちは共犯者だった。歪んだ欲望と、それに応えようとする献身的な愛情、そしてそこから芽生えた倒錯的な快楽。その奇妙なバランスの上で、俺たちの関係は成り立っていた。


 ある冬の寒い日。俺たちは、いつものように河川敷を歩いていた。枯れ草が寒風に揺れている。詩織は、ふと立ち止まり、足元で凍えている小さなテントウムシを見つけた。鮮やかな赤に黒い斑点。


 彼女は、俺の顔を見た。その瞳には、もう戸惑いの色はどこにもなかった。そこには静かな覚悟と、そしてどこか遊ぶような光が宿っていた。


 彼女はゆっくりと足を上げ、そして、エナメルパンプスのヒールで、テントウムシの中心を狙って、正確に踏み潰した。プチッ、という小さな音が、冬の澄んだ空気に微かに響いた。ヒールの先端に、赤い体液と黒い斑点が微かに付着する。


 行為の後、詩織は俺に向かって、ふわりと微笑んだ。それは出会った頃の陽だまりのような笑顔とは違う、どこか妖艶で、しかし強い意志を感じさせる笑顔だった。彼女は靴底についたテントウムシの残骸を、ティッシュで拭うこともせず、わざとそのままにして、俺に見せつけるように一歩踏み出した。


「大丈夫よ、蒼太くん。私は、ここにいるから。あなたのそばに、ずっと」


 その言葉が、俺の胸に深く突き刺さった。俺は、詩織の愛情に、どう応えればいいのだろう。俺にできることは、彼女を全力で守り、そしてこの歪んだ愛の世界で、二人で生きていくことなのかもしれない。


 俺は、詩織の冷たくなった手を強く握った。


「ありがとう、詩織。…俺も、お前を絶対に守る。何があっても」


 それは歪んだ欲望を満たしてくれるパートナーへの感謝であり、同時に彼女の変容を受け入れ、共に堕ちていくことへの誓いでもあった。


 空は低く垂れ込め、冷たい風が吹き抜けていく。俺たちはしっかりと手を繋ぎ、ゆっくりと歩き出した。この先に何が待ち受けていようとも、二人で一緒に歩いていくしかないのだ。


 彼女の白いソックスと黒いエナメルパンプスは、今日もまた、小さな命の痕跡をわずかに残しているのかもしれない。そして俺は、その光景から目を逸らすことができない。この倒錯した愛の形を、俺は受け入れて生きていくしかないのだと、改めて心に刻みながら。詩織の隣で、彼女の微かな笑みを感じながら。

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