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「じゃあね、橙くん。明日から夏休みだからって、何もかもサボってたら駄目だよ?」
「……ああ、分かってる」
「わたしも時々様子見に行くから。さっき渡したサンドイッチも、ちゃんと食べるんだよ」
そう言い置いて、日菜子は自分の教室の方へ駆けていく。その名残りに、思わず鼻を動かしてしまって、橙牙は歯噛みした。
(……美味そう、なんて)
思ってはいけない。人間は人間を食べないのだから。
橙牙の舌は、腹は、人間の味を知ってしまっている。普通の食べ物をあまり受け付けないのも、そのせいだ。何を食べても、これは食べるべきものではない、と直感してしまう。……それがどんなに悍ましいことか、自覚してはいるが。その理性の判断だけでは、肉体的な衝動を抑え込むことができないでいた。
狩らなければ、喰らわなければ。腹の中身は呻りを上げる。
狩りたくない、喰いたくない。脳裏には言葉が並んでいる。
今はまだ、日が出ているからいいけれど。夕方になれば。暗がりがより暗く、影がより濃くなっていけば。脳裏の言葉は簡単に負けてしまいかねない。だから橙牙はこのひと月ほど、日菜子と距離を置いていた。
と言っても、登校日の朝は、日菜子が橙牙を迎えに来てしまう。橙牙自身が断っても、よほど強く言わなければ、彼女はそれを容れない。日が出ている間ならある程度自制が利くから、彼女を強く拒むことはしていなかった。
会わなくなったのは、夕方以降。下校のタイミングを、意図的にずらすようになった。夜に家を訪ねようとするのも、断るようになった。何なら最近は、暗くなってからは家の中に留まらない。どうせ眠れやしないのだから、と適当に夜を明かして、日が昇ってから家に入る。そういう習慣を作っていた。
夕方も、夜も、嫌いだ。暗がりに潜む化物たちがやかましいから。けれど、皮膚を伝うその声を堪えてでも、橙牙は日菜子を喰らいたくなかったのだ。
彼のその動きに、マキはいい顔をしなかった。少女のように造った顔を、盛大に歪めて見せていた。
「おいおいトウガ。せっかくの獲物からわざわざ遠ざかるなんて、狩りが下手どころの話じゃないぞ? そんなにふらふらになってまでやることかい?」
「……やることだよ」
「きみは本当に不思議なことばかり言うんだね。そんなに目を光らせて、腹を鳴らして、それでもまだ、自分は人間だなんて言い張る気なのかい?」
辻野家の屋根の上。笑うマキの口の端には血がついていた。食事をしてからこちらに来たのだろう。三本目の腕で持っているのは、今回は人の脚のようだ。膝から下。そんなに長くないし、毛も薄いから、多分子どものものだ。
「ほら、食べて? 食べないと元気出ないよ?」
眼前に差し出された親指。断面から血が零れる。思わずその香りを嗅いでしまって、橙牙は慌てて首を横に振った。
「嫌だ、って、いつも言ってるだろ」
「どうして? そんなに食べたそうにしてるのに」
「……俺は人間なんだから。人間は、食べない。食べたくない」
「でも、食べないと動けないよ。今日までだって、ちゃんと食べてたからあの女に見つからないように動けたんだよ?」
「それでも。それでも、俺は、人間を喰いたくないんだ……」
本音だった。本心だった。何も食べられなくなって、飢えて死んでしまったとしても、もう人間を食べるなんてしたくなかった。人の血肉の味を、美味だなんて思いたくなかった。
「我がまま言わない。言葉だけで躰の性質に逆らえるわけないんだから」
マキが橙牙の顔に手を伸ばした。持っていた脚から親指を捥いだときに、指に血がついたらしい。マキはそれをそっと、橙牙の唇に塗りつける。
「ちゃんと食べないから、そんな世迷言を言いたくなるんだ。弱ってるんだよ、きみは。ほら、少しずつでいいから。ちゃんと、きみが食べるべきものを食べるんだ」
マキの指はそのまま、橙牙の口内に侵入する。舌に僅かに乗せられた血が、とろけるようにあまかった。
吐き出そうとしても、マキの手が口元を押さえているから動かせない。血が自分の唾液と混ざり合って、口の端から零れ出した。
「駄目だよ、ちゃんと飲み込んで。……ああ、よくできたね。えらいよトウガ。じゃあ、もう少し食べてみようか」
人の足の指を、マキは骨ごと小さく千切る。欠片になったそれを、橙牙の口に押し込んだ。
肉片を飲み込んでしまう度に、マキは橙牙を褒めた。「偉いね」「よくできたね」「それでいいんだよ」と。繰り返されるうち、橙牙は酔っていく。血の香りに、肉の味に、骨の歯ざわりに、自制も理性も溶かされていく。
あんなに嫌だったのに。すべきじゃないと思っていたのに。舌が、腹が、喜びの声を上げている。それが分かってしまって、橙牙は自己嫌悪に涙した。
いつの間にか、マキが持ってきた脚を食べ終わってしまっていた。口の周りが、血と脂でべたついている。涙とまとめて拭った。その香りにまた鼻を鳴らしてしまった自分が、これ以上なく悍ましくて背が震えた。
「うんうん、ちゃんと食べられたね。次は狩りから、一緒にやろう。心配しないで、ボクも手伝うから」
「何で、……何でお前、こんなことするんだよ……!」
本当に嫌なら拒めばいい。口を開かなければいいし、飲み込まなければいい。けれど結局、橙牙はそれができない。差し出されたものを喰らってしまう。自分の意思の弱さを棚に上げて、橙牙はマキに問うた。八つ当たりだと自覚していたが、訊かずにはいられなかった。
「何でだよ。俺は嫌なのに。人を喰いたくなんてないのに。俺はお前に、散々そう言ってるのに。何でお前は、それを何も聞かないんだよ。何でそんなにしつこく、俺に人を喰わせようとするんだよ。なあ、マキ。答えろよ!」
橙牙は殊更に声を荒げてみせたのに、マキはきょとんと首を傾げるだけだった。それから少しだけ、何かを考えるような仕草をして、それからこう言った。
「きみのことが好きだからだよ」
は、と、声にも出せなかった。意味が、分からない。
「きみが、凄く、素適に泣いていたから、好きになって。狩りも食事も下手だから、目を離せなくて。だから、きみの世話を焼いていれば、きみも好きになってくれると思って。ボクの傍を、選んでくれると思って」
その言葉に、声音に、表情に、複雑な含意など何もなかった。
マキの想いは、恋ですらない。親愛ですら、ないかもしれない。ただ単に橙牙のことが好きで、気に入って、だから傍にいてほしいだけなのだ。
(何で。何でだよ)
分からない。橙牙には、何も分からなかった。自分はどうすればいいのか。彼女の好意に、どう言葉を渡せばいいのか。
だって、応えられないことは決まっているのだ。決めているのだ。人は喰いたくない。化物にはなりたくない。血肉の甘さを、もう知ってしまっているのだとしても、その意志だけは変えたくない。
けれど、振り払いたかったものは、好意だと知ってしまった。誰の好意にも優しさにも、上手く応えられない自分を思い返してしまった。
自分はまた、失敗を重ねるんだろうか。ほんの一瞬だけ、そう思ってしまったのだ。
夏は、日の出が早い。いつの間にか、空が白み始めていた。マキはその光に少しだけ顔を顰めると、蹲っていた橙牙の傍から立ち上がる。
「それじゃあ、今夜はこのくらいにしておこう。日が沈んだら、とっておきの狩場に連れていってあげるからね」
彼女はそう言って、暗がりを選ぶように駆けていった。姿が見えなくなる。橙牙は屋根から降りて、家の中に入った。涙を流し過ぎたせいか、躰がいやに重い。それを引き摺るように、洗面所へ向かった。
手についた血を洗い落とす。顔も洗って、歯も磨いた。着ていたものを全部脱いで、洗濯機に突っ込む。干していた寝間着をハンガーからむしり取って、適当に着た。
頭が、痛い。どうにか自室に戻って、ベッドに倒れ込む。
喉の奥に、まだ血の味が残っている気がした。
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