2
橙牙が学校を出ると、空は焼けるように暮れていた。
日の入りが近い。太陽の光は、もう最後のひとかけらしか残っていない。けれどその僅かな黄金色が、影をより黒くしている。濃くなった影からは、……ぞわり、ナニカが這い出してくる。
橙牙は、この時間が好きではない。暗がりから出てきたナニカが頻りに囁き掛けてくるし、その声と響き合うように自分の内側が騒ぎ立てるし、それに、……それに。
「トウガ。やあトウガ。今日も随分と調子が悪そうだねぇ?」
ああ、と溜め息。橙牙の死角から現れたのは、影のような異形だった。人の少女を模した姿はしかし、揺らめく度にパーツが増減する。眼光には憂慮も慈悲もなく、ただ喜悦だけが宿っていた。
「……誰のせいだと思ってるんだ」
「そりゃあ、あの女のせいだろう? ほら、きみが近頃また連れてるあいつさ。全く、せっかくの獲物に誑かされて変なものばかり食べているからそんなことになるんだ」
「お前のせいだよ!」
橙牙が声を荒げてみせても、その異形はきょとんと首を傾げるばかりだ。しかしそれも当然の話。彼女には、人間の感情の機微など気にならないのだから。たとえ相手が、自分の気に入りであろうとも。
「どうしたんだい? ああ、もしかして、ボクがあの女を横取りするんじゃないかと思ってる? 大丈夫、せっかく戻ってきた獲物を取ったりしないさ。でも、今度は逃がすなよ? 早く腹に納めてしまわなきゃ、ボクでもきみでもない奴に掻っ攫われちまうかも知れないぜ?」
「あいつはそんなんじゃない」
「んん? まあ確かに、皆がみんな食べたがるほど美味そうにも見えないけれど……。それでも、傷む前に食べてしまうに越したことはないよ」
「……日菜子は食べ物じゃない! 黙ってろ、マキ!」
異形――マキは、耳鳴りのように声を上げて笑った。嘲るようにも哀れむようにも見える、けれどその実、複雑な含意など何もない笑みを向けて。
「何を言うんだい、トウガ。あの女を逃がしたから、きみはあの日、あんなに泣いていたのに」
その言葉に、橙牙は思わず口を噤んでしまう。
「いつも連れていた獲物を逃がすなんて、なんて狩りが下手なのかと思ったね。おまけにきみときたら、どんどん狩りを面倒がるようになっちゃって……全く、世話が焼けるよ」
日は沈んでいく。辺りは暗くなっていく。そんな中で、マキの姿だけは鮮明に見えるようになっていくのが、橙牙の苛立ちを募らせた。
小学二年生、夏休み前。引っ越していく日菜子を見送って泣いていた橙牙に、マキは声を掛けた。それからというもの、彼女は毎日のように橙牙の前に現れるようになった。
「面倒がってるんじゃない、ただ嫌なだけだ。……俺は人間だ。人間を狩ったり食べたりなんてしない」
初めて会った日。初めて狩りに誘われた日に、そう言ったはずなのだ。自分は化物じゃないと。日菜子は食べ物じゃないと。
けれどマキは、そんな言葉など意に介さない。
「可笑しなことを言うね、トウガ。きみは人間じゃない。人間だったら、もっと美味しそうな匂いをさせているもの」
彼女の世界には、
「そんな匂いなんて知るか。俺は人間を食べたりなんてしない。食べたいなんて、思ったこともない」
「嘘に意味なんてないんだよ、トウガ。そんなもの欲しそうな目をしておいて、この匂いが分からないわけがないんだから」
そう言ってマキが差し出したのは、節のついた塊。長さは四十センチメートルほど。片方の端は細かなパーツに分かれ、もう片方の端からは赤黒い中身が見えている。……人の、腕だ。マキが何度も差し出してくるから、もう見慣れてしまった。
「ほら、ちゃんと食べて精をつけるんだ。そうでなきゃ狩りもできないだろう?」
「いや、だ。嫌だ。俺は、人間を喰うなんて、しない……」
すん、と鼻を鳴らす。涎が口いっぱいに溜まった。
「ああ、大きいと食べにくいかな。それなら……こうしようね」
マキが、手にしていた腕の片端をぺきりと折った。目の前に指が差し出される。……あまりに強く香るから、目眩がしそうだ。
「ほら、口を開けて」
橙牙は結局、いつものように、それを口にしてしまった。
あまくて、うまい。
毛細血管を噛み潰すと、たっぷりの血液が溢れて喉を潤す。肉は弾力がありながらも、さくりと歯で切れてしまう。爪や骨はかりかりと香ばしく砕けた。
「……ん、ぐ、うぁ、あぁぁぁ……!」
「うんうん。偉いね、トウガ」
口に入ったものを全て飲み込んで、橙牙は頽れる。流れる涙を、マキは人間より多い手でそっと拭った。
まだ足りない、と、橙牙の腹が低く呻る。
いつの間にか日は沈み切って、か細い月が笑っていた。
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