第5話 苦悩
深い絶望の日々が続いた。大敗を喫したあと、健太は自分が心の支えにしていたものを全て失ったかのように感じていた。マーケットへの情熱は跡形もなく消え去り、パソコンの電源を入れることすら怖くなっていた。数日の間、証券口座には触れず、チャートも見なかった。頭をよぎるのは「もう二度とトレードなんてするものか」という投げやりな思いと、「どうしてあのとき損切りできなかったのか」という後悔ばかりだった。
彩とは数日ぶりにようやく会うことができた。健太の憔悴し切った姿を見て、彩は驚きと悲しみの入り混じった表情を浮かべた。「健太…大丈夫?」と声をかけながら、彼女はそっと寄り添った。健太はぽつぽつと失敗の経緯を話し始めた。自分がいかに浅はかだったか、どれだけの損失を出したか、口にするのも辛かったが、彩は静かに耳を傾けてくれた。涙ながらに「悔しいよ…自分が情けない」と零す健太に、彩は「お金はまた貯めればいいよ。でも、健太自身が壊れちゃったら意味がないから…無理しないで」と優しく語りかけた。その言葉に救われる思いだったが、同時に健太の胸には強い空虚感が残った。マーケットで輝かしい成功を掴むことで満たそうとしていた自尊心が、音を立てて崩れ去ってしまったのだ。
仕事に復帰しても、心の傷は癒えなかった。チャートの代わりに退屈な資料を見る日々に戻ったものの、かつての情熱も野心も消え失せ、抜け殻のようだった。上司から叱責を受けても、生気のない「はい」という返事しか出てこない。自暴自棄になりそうな自分を辛うじて支えていたのは、彩の存在だった。彼女は変わらず傍にいて、言葉少なに支えてくれた。それでも健太の心には大きな穴が開いたままだった。
夜になると、健太は一人で悶々と考え込んだ。マーケットに挑んだ日々は何だったのか。このまま諦めて全てを投げ出してしまって本当にいいのか。しかしチャートを見るのが怖い。あの恐怖をもう一度味わうくらいなら、二度と相場なんて見たくない。理性ではそう思う一方で、心の奥底では燻るものがあった。エド・スィコータのあの言葉、「勝っても負けても、皆自分の欲しいものを相場から手に入れる」というフレーズが繰り返し蘇ってきた。自分は負けることで一体何を得たというのか。痛みと後悔以外に、この経験から何か学びを得られるのだろうか。考え始めると眠れなかった。
幾晩も葛藤した末、健太はある夜、ノートパソコンを開いた。震える指で久しぶりに証券会社のサイトにログインし、残高と損益を改めて確認した。嫌というほど見せつけられた現実。しかし、その日は売買をするためではなく、自分の経験を言葉にするためにキーボードに向かったのだった。健太は匿名の投資コミュニティサイトにアクセスし、自分の失敗談を書き込む決心をした。「若気の至りで有頂天になり、大損してしまいました…」と書き出し、どのように利益を伸ばして慢心し、どのようにリスク管理を怠って破滅したか、一つひとつ正直に綴った。自分の弱さ、未熟さを見つめ直す作業は辛かったが、キーボードを叩くうちに不思議と心が落ち着いていくのを感じた。最後に「今はもう何を信じていいか分かりません。同じ過ちを繰り返さないためにはどうすればいいのでしょうか」と綴って投稿した。
投稿ボタンを押したあと、健太はしばらく呆然と画面を眺めていた。誰かに聞いてほしかったのかもしれないし、本当は自分自身に言い聞かせたかったのかもしれない。深夜の投稿だったが、しばらくするといくつか返信がついた。叱咤や慰めの言葉が入り混じる中、一つのメッセージが目に留まった。「私もかつて同じような失敗をしました」という書き出しで始まる長文の返信だった。そこには、損失から立ち直るために何をすべきか、自身の経験を踏まえた具体的なアドバイスが綴られていた。特に「学び続ける意志があるなら、失敗も貴重な糧になります。一度きりで投げ出さないでください」という一文が健太の胸に深く刺さった。さらに投稿者は、「よければ個別にお話ししましょう。過去の自分を見ているようで放っておけません」と連絡先を残してくれていた。
健太の中で、何かが静かに動き出した。それは、喪失感に覆われて見失っていた小さな希望だった。画面に表示されたその見知らぬ投稿者のハンドルネームを見つめながら、健太はゆっくりと息を吐いた。「もう一度やり直せるだろうか…?」心の中で問いかける。諦めたくない気持ちと、再び挑戦する怖さ。その二つがせめぎ合う中で、健太は震える手でキーボードを握り直した。そして、返信に書かれていた連絡先へ慎重にメッセージを書き始めた。
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