花だけが旅をする

おおきたつぐみ

前編

 ――きみが生まれたのは五月の末、もうすぐ夏が来る頃だった。北国生まれのパパが一番好きな時期だ。太陽が長く白く輝き、海は空を映して青く光り、花も鳥もきらめく季節。その全てがきみを祝福しているように思えた。だから、夏が来るたびにきみが生まれた幸せを何度でも感じられるように、来夏ラナと名付けたんだよ。


 誕生日より少し早く、今年も父からプレゼントと共にメッセージが届いた。来夏の父はたまにしか会えない娘を、どこか遠慮がちにきみと呼ぶ。それほど私が生まれるのを喜んでくれたのならいつも一緒にいてくれたらいいのに、そう来夏は思う。父がこの町で一緒に暮らしていたなら、噂話ばかりしているおばあさんハルモニたちだって来夏をこそこそと日本イルボンなんて呼ばなかっただろう。母だって日本人男に入れあげて捨てられた女と陰口を言われなかっただろう。

 でも実際のところ、父母は日本と韓国に離れて住むことを選んだ。来夏がまだ四歳の頃だ。


 来夏の両親が出会ったのは父が大学二年の時、半年間の交換留学でソウルの大学に通っていた時だった。高校卒業後、故郷から首都に出て洋服ショップ店員として働いていた母は、友人が開催した飲み会に浮かない顔で連れて来られた父に一目惚れし、ロマンチストで穏やかな彼の性格を知るにつけ本気で恋をした。父も情熱的で献身的な母に惹かれ、留学終了後も二人は遠距離恋愛を続け、二年後、父は大学卒業と共に韓国支社がある流通企業に就職し、希望通りソウルに赴任して父母は結婚した。互いの両親の大反対を押し切って。


 やがて来夏が生まれ三歳になった時、父に東京本社への転勤命令が出て、一家は日本へ移り住んだ。しかし母は半年住んでも日本に適応できず、精神的に不安定になって韓国への帰国を決めた。物価が高く騒々しいソウルで母子だけで住む気にもなれず、また父が韓国支社に転勤するまでという約束で故郷の港町の実家へ帰った。祖父母は小さな刺身食堂を経営していたが前の年に祖父は亡くなり、祖母が一人で切り盛りするその食堂で母も一緒に働き、三人暮らしが始まった。

 ソウルや東京にいる頃、母は故郷の町も実家も祖父母の食堂も魚臭くて嫌だとよく言っていた。高校卒業までいつも魚を食べさせられたからといってほとんど魚料理もしなかった。それでも今は毎日祖母と一緒に朝早くから市場で買い出しをし、食堂で生魚をさばき続けている。母はどこかで父がもう韓国に戻らないと感じていたのかも知れない。

 実際、父は韓国支社赴任の希望を出すことはなく、現在は故郷の札幌にある支店で勤務している。父は日本に戻ってから、どれだけ自分が韓国で、そして妻の前で無理していたかを思い知ったらしい。情熱的だと思っていた母の性格は父には激しすぎた。そして押し黙り本心を言わない父に母は孤独を感じていた。それでも相手や娘への愛情はあるから、父母はいまだに韓国でも日本でも婚姻関係のままだ。


 来夏は今年十歳になる。父母のことを理解しようとは思っているけれど、心に埋められない空白が広がっているのも事実だった。どこにいても潮の気配がする小さな町で来夏は常によそ者だった。日本人男に捨てられたと陰口を叩かれる母ですらこの町に生まれた韓国人として私たちウリの範疇だったが、ソウルで生まれ日本人の血が半分流れる来夏は違った。実の祖母にも距離を感じる時もあった。せめてここに日本人の父がいてくれたら心強かったのに。

 父がいない苛立ちを母にぶつける時もある。なぜわざわざ国も性格も違う人と結婚なんてしたのか。

「だって、恋って前触れもなく突然感染する熱病みたいなものだもの」

 と母のハナは淡々と言った。

「でもこんなに何年も離れていて、もう一緒に住むことだって無いかも知れないのに、なんでママはパパのことがまだ好きなの?」

 ハナは、ふと遠くを見るような目をした。

「――ライラックの花のおまじないをしたからかも知れない」

「おまじないって?」

「ライラックを知っている? 細い木で初夏に葡萄みたいな房の花が咲くの。札幌とソウルで遠距離恋愛をしている頃、ちょうどライラックが満開の時期に会いに行ったことがあった。ライラックは普通四枚の花びらなんだけれどたまに五枚の花びらを持つ花があって、〈幸運のライラック〉といって黙って飲むと愛する人と一生一緒にいられるんだって教えてくれたの。私もそのおまじないがしたくて二人でライラックの木を見て回ったけれど、なかなかなくてね。ようやく一輪見つけて、私はパパと一生一緒にいられますようにと願いながら黙って飲み込んだ。そのおまじないが強すぎて今でも効いてしまっているのかも知れないね」

 母は少し寂しげに笑ったけれど、来夏の胸にはライラックのおまじないがときめきと共に強く印象に残った。


 翌日、来夏は早速小学校への通学路で親友のカウンにその話をした。カウンの父親は中学校の教頭で数年ごとに別の町の学校へと異動する。何世代も変わらない地元の顔ぶれの中、来夏と同じようによそ者ではあったけれど、有名大学を出て教頭を務める父と自宅で子ども向けの英語塾を開く母は町の尊敬を集めていた。それでも地元のしがらみとは違う世界にいるカウンは来夏の生い立ちを打ち明けてもただ素直に受け止めてくれたし、その後も何も変わらず接してくれた。そんな友達は初めてだった。

「ライラックにそんなおまじないがあったなんて知らなかった」

「カウンでも知らないことがあるんだね」

 カウンの母も妊娠までは中学の英語教師だったらしく、二人の教師に育てられたカウンは聡明で成績もよく、博識だった。

「そりゃあそうだよ。見つけてみたいね、五枚の花びらのライラック」

「でも、この町にライラックの木なんて生えているかなあ?」

 カウンは笑顔で頷いた。背中に垂らした長い三つ編みが揺れる。

「川の側の公園に二本生えていたよ」

「えっ、知らなかった」

「前の学校にライラックの木が生えていたから見覚えがあったんだ」

 二人はその日の放課後、リュックサックを背負ったまま通学路から外れ、川沿いの公園に向かった。カウンが指差した先、公園の隅にはすんなりとした細い木が生えていて、一本は紫、もう一本は青い花が房となって優雅に風に揺れていた。近づくと甘くて爽やかな香りがする。

「いい匂いだね。これがライラックかあ」

 花房を手に取った来夏とカウンは鼻を埋めるようにして匂いを嗅いだ。

「さ、幸運のライラックを探そう。でももし見つけても見つけたって言っちゃだめなんだよね?」

「そうだよ。黙って飲まないとだめなの」

「私、絶対見つけたい」

 そう言うと、カウンは真剣な顔で次々に花をチェックしていった。来夏はカウンには誰か一生一緒にいたい人がいるのだろうかと考えた。来夏にとってそんな相手はまだ父や母だった。それと――カウン。カウンは昨年春に転校してきたから、早ければ再来年にはこの町を去ってしまうだろう。そうすればまた来夏は一人になる。想像するとすぐに寂しくなるから、来夏は幸運のライラック探しに集中した。

 しかし結局何度二人で探しても、二本のライラックには五枚の花びらの花はなかった。夏至に向かって伸びていく夕焼けはまだ暗くなるには時間があったけれど、そろそろ帰らなくてはいけない。二人はがっかりしながら帰り、家の近くの交差点で別れてそれぞれの家へと向かった。


 翌日は来夏の誕生日だったけれど、起きるといつも通りに祖母も母もすでに漁港へ買い出しに出ていて留守だった。テーブルには母の字で「お誕生日おめでとう。ケーキ買って帰るから夜はパーティをしようね。我が娘、世界一愛してる」と書かれたメモが残されていた。コンロに置かれた鍋の蓋を開けると来夏の好物の白いソルロンタン(牛骨スープ)があった。祖母が市場で牛骨を買ってきて煮込んでくれたのだろう。たっぷりとお椀によそい、ご飯とキムチと一緒に朝食を済ませた。

 リュックサックを背負って家を出ると、いつもの交差点でカウンが待っていた。おはようと言うと、カウンは笑顔で〈来夏へ〉と書いた白い封筒を差し出した。

「来夏、お誕生日おめでとう」

 まだ誰の声でも発せられていなかった祝福の言葉だった。ありがとうとお礼を言って封筒を受け取り、嬉しくてすぐに開けようとすると、カウンが「しっ」と来夏の唇に指を当てた。

「黙ったままで中を見て。絶対何も言っちゃだめだよ」

 とカウンに言われ、来夏はにわかに緊張しながら封筒の封を開けた。

 中にはレースのハンカチと、五枚の花びらを持つ小さな青い花が一輪、かすかな甘い香りと共に入っていた。

「あ! これ……」

 思わず声を上げた来夏の口をカウンが慌てて手で塞いだ。来夏は唇をきゅっと結んでカウンに頷いて見せると、花びらが折れないように注意しながらそっと小さな花をつまんで取り出した。まるで魔法のようだった。昨日あれほど探しても見つからなかった幸運のライラック。カウンはどうやって見つけ出したのだろう。その秘密を聞きたかったけれどカウンは早く飲み込めとジェスチャーで示している。

 黙って飲むってこういう意味なのかな? 誰にも内緒で飲むってことなんじゃないかな? ――ふと疑問が湧いたが、カウンが真剣な顔で来夏を見つめているから何も言えず、来夏は口を開けてライラックの花を舌の上に載せた。夏の一歩手前の空をそのまま閉じ込めたような青く爽やかで甘い香りが口腔から鼻に広がる。ついさっきまで寂しい誕生日だったのに、今、来夏は幸せでいっぱいだった。

 ――また来年も、その先もずっとカウンといられますように。

 そう願いながら、来夏は青い花を飲み込んだ。


それから二人は学校で、ライラックの公園で、海辺で、お互いの家で、親密な時を重ねた。多くの時間を共に過ごしてもケンカは一度もしなかった。ライラックのおまじないは本物だったのだと来夏は思った。

 十二月にはカウンの誕生日があった。来夏は祖母に教わりながら青いビーズでブレスレットを作ってプレゼントした。

「私が見つけた幸運のライラックの色だね!」

「そうだよ、わかった?」

「私の一番好きな色だもの」

 と言うと、カウンは大喜びで手首に着けてくれた。

 その翌年、十一歳の誕生日の朝も、カウンは青いリボンの髪ゴムと青い幸運のライラックをプレゼントしてくれた。やはりその朝も一人でソルロンタンを食べて出てきた来夏は感激して泣いてしまった。

「どうして泣くの、せっかくのお誕生日なのに」

「だって起きたらママもおばあちゃんも仕事でいなくて一人だったから。いつものことだけれど、やっぱり誕生日の朝くらいは一人でいたくないよ。パパだって先週洋服を贈ってくれたけれど、もう何年も会っていない。誕生日なのに寂しかったから、カウンがこうしてライラックを探しておめでとうって一番に言ってくれたことが嬉しい」

「それなら余計に早くおまじないをしなきゃ。一生一緒にいたい人を思い浮かべながら黙って飲んで。――パパでもママでもいいし」

「カウンには飲んでいることバレちゃっているけれどいいのかな」

「そ……それはそうだけれど、私は来夏がどんなお願いをしているかまではわからないから、大丈夫」

 カウンが明らかに動揺したので来夏は思わず笑い、にじんだ涙を拭ってから花を口に含んだ。甘く爽やかで、初夏の風のような、カウンそのもののような香りがした。

 ――カウンと一生一緒にいられますように。

 心の底から願いながらライラックの花を飲み込む来夏を、カウンは微笑みながら見つめていた。

 

 しかし翌年二月、二人の小学校卒業と同時に共にカウンの父の転勤が決まり、一家は車で三時間ほど離れた新興都市へ引っ越しすることになった。さすがにあの小さな花にカウンの父の転勤までを止める力はなかったのだ。

 卒業式の後、来夏とカウンは別れがたい思いでいつもの交差点で佇んでいた。来夏は思い切ってどうやって幸運のライラックを見つけたのかを尋ねた。昨年のライラックの花が咲く時期にも一人で公園のライラックの木を見に行ったけれど、五枚の花びらの花は見つからなかったのだ。

「ずっと内緒にしておくつもりだったけれど、仕方ないなあ」

 カウンはくすくす笑いながら教えてくれた。

「最初に二人で探しても見つからなくてここで別れた後、やっぱり来夏の誕生日にプレゼントしたいと思って他にもライラックが生えていないか探しながら歩いていたら川向こうに三本生えているのに気づいて、橋を渡って行ったら真ん中の木で見つけたんだよ」

「えーっ、橋まで行ったらかなり遠かったでしょう?」

「うん、あの日は帰りが遅くなってママにずいぶん怒られたよ。でも去年は最初からその木を探したからすぐ見つけられたよ」

「ねえ、幸運のライラックは一輪しかなかったの?」

 来夏が聞くと、カウンは少し口ごもってから、ううんと首を振った。

「二回とももう一輪見つけて、私も飲んだよ」

「そうだったんだ! カウンは誰と一緒にいたいと願ったの?」

「秘密。そこまで言ったら黙って飲んだことにならないでしょう」

 カウンはうつむいて青いマフラーに顔を埋めた。昨年十二月のカウンの誕生日に来夏が贈った手編みのマフラーだ。優しくて賢く美しいカウンはみんなに愛され、先生にも一目置かれている。この町で一番仲がいいのは来夏だけれど、前の町にもきっと親友はいただろう。そしてここを去れば、また次の町でもたちまち親友と呼べるような友達ができるだろう……

 呼吸するたびに海から吹き付ける冷たい冬の風が来夏の胸を内側からちくちくと痛めた。その痛みを振り払うように来夏は笑って見せた。

「そうだね。でも本当は何が正しいんだろうね、見つけたことも内緒にしないといけないのか、見つけて飲むまで無言ならいいのか」

「見つけたことも内緒にしないといけないなら、私たちが飲んだライラックのおまじないは効かないのかな。今度来夏のパパに正解を聞いてよ」

「うん。聞いたら手紙に書くよ。でもきっとおまじないは大丈夫だよ」

 カウンの新しい住所は手帳に書いてもらっていた。次は高層マンションに住むらしい。そうしたらこんな何もない田舎の町のことなんてきっと忘れてしまうだろう。冬の夕暮れはあっという間で、空の天辺から紺碧の夜が降りてきていた。別れたくなくていつもの交差点に立ったままだった二人の体はすっかり凍え、震えていた。カウンは明日朝には引っ越すのだから最後の準備もあるだろう。バイバイ、またねと言わなきゃ。

 しかし、来夏の口からは別れの挨拶の代わりに涙声が漏れた。

「カウン行かないで……カウンがいなくなったらまた私、ここで一人になっちゃう。こんな狭くていつでも誰かから見られるような町、嫌だよ」

「――私も来夏と離れたくない。来夏は初めての親友だもの」

 そう言うと、カウンは両手で顔を覆って泣き出した。来夏も悲しくて、カウンに抱きついて泣いた。カウンも来夏の背中にぎゅっと腕を回した。

「あらあらこの子達ったらどうしたんだろうねえ、道の真ん中で大声で泣いて」と通りがかったおばあさんが言うのが聞こえて、二人は慌てて上着の袖で涙を拭いつつ離れた。濡れた頬に海風が凍みて痛かった。

「ほらやっぱり、誰かが見てる。私なんて特に”日本”イルボンだしさ」

「うん……でも私はこの町が好きだよ。少し歩くだけで海に行けるし、魚が美味しいし、来夏がいる町だし、幸運のライラックを見つけた町だしね。――それに来夏は一人じゃない」

「どうして?」

「私……幸運のライラックを飲んだ時、二回とも来夏と一生一緒にいられますようにって願ったから」

 迷った後で恥ずかしそうに告げるカウンの言葉を聞き、来夏の心臓は驚きと喜びで高鳴った。

「私も! 一昨年も去年も、カウンと一生一緒にいたいって願ったよ」

「本当? 来夏もそう願ってくれたの?」

 カウンは感激した様子で来夏の両手を握った。

「私、来年も次の町で絶対に幸運のライラックを見つけ出すよ。来夏は向こう岸に生えているライラックの真ん中の木から見つけて。離れていても毎年来夏の誕生日に一緒に飲もう、また二人で会えますようにって」

「うん、そうしよう。手紙も書くから」

「私も書くよ。電話もする。夏休みや冬休みにはこの町に遊びに来たり、来夏もうちに遊びに来れたりするようにパパとママにお願いする。そうやって高校まで過ごして、二人でソウルの大学に進学しようよ」

「ソウルの大学……?」

「頑張って勉強してソウルの大学に合格したら、きっと来夏のおばあちゃんもママも行かせてくれるよ。二人で大学の寮に住めばいいよ」

 カウンは来夏の両手を嬉しそうに振りながら言ったけれど、来夏には生まれた場所とはいえ三歳で離れたきりのソウルも、大学も遠いものにしか思えなかったから、カウンがそこまで考えていることに驚いた。

 カウンと同じ寮に住んで、同じ大学に行く――夢のように思うそのすぐ後で、祖母と母が食堂で朝から晩まで働いて得られるお金ではとてもじゃないけれどソウルの大学に行きたいなんて言いだせないだろうと考えた。観光客など滅多に来ないこの寂れた町ではなじみの客がぽつぽつと来るくらいで、ほとんど客が入らない日もある。でももしかしたら父が進学のためのお金を出してくれるかも知れない。今だって毎月欠かさず日本から生活費を送金してくれているのだから。それでも母が嫌いな刺身食堂で働くのは年老いた祖母を助けたいのと、いつか父からの送金が途絶えるかも知れないと考えているのかも知れない。いずれにせよ来夏はカウンのように未来にただ希望だけを抱くことはできなかった。

 けれど、今この時だけは夢を見ていたくて、来夏は何度も頷いた。


 翌日の土曜の朝、来夏は朝食後に母と一緒にカウンの自宅へと急いだ。家財道具を積んだトラックはもう出発しようとしており、カウンの両親が見送りに集まった学校関係者や近所の人達に順に挨拶しているところだった。両親の後ろで寂しげに立っていたカウンは来夏を見つけると顔を輝かせて走り寄り、抱きついた。来夏も力の限り抱き締めた。

「来夏ちゃん、カウンと仲良くしてくれてありがとう。この子は転校ばかりで、こんなに仲良くなれたのは来夏ちゃんが初めてなの。引っ越し先にもぜひ遊びに来てね。何日泊まってもいいから」

「娘が大変お世話になりました。カウンちゃんもぜひうちに泊まりに来させて下さい。狭い家ですが、来夏が喜びますので」

 二人の母が微笑みあった。カウンの母はたまに遊びに行くと来夏にも英語を教えてくれる優しい人だった。彼女に英語を習ってきた子ども達も大勢見送りに来ており、慕われていることが伝わってきた。

「また会おうね。手紙も電話もしようね。ライラック、約束だよ」

 カウンは泣きながら来夏に囁くと、母に促されて車に乗った。窓を開けて来夏に手を伸ばし、来夏も泣きながらカウンの手を握った。やがて車が走り出し、道の向こうに見えなくなるまで来夏は見送った。


 それから二人は約束通り手紙を出し合った。手紙で初めて知ることもあった。何の問題もなさそうに見えたカウンの両親は実はあまり仲が良くないという。もともと中学校の英語教師だった母はカウンの出産だけではなく、転勤し続ける夫についていくために仕事を辞めるしかなく、それがずっと不満らしい。父も父の両親も「妻とは夫に尽くすものだ」と言うばかりで、母はカウンに結婚しても続けられる仕事に就き、妻の仕事に理解ある夫を選ぶようにと言っているらしい。

 来夏も自分の父母を見ていて、大恋愛の末に結婚しても時と共に感情は冷めてしまうみたいだと書いた。ライラックのおまじないについて父に電話で聞いた結果も知らせた。父も細かい部分は知らないのだと電話で笑っていた。ママはどうやって飲んだのと聞くと、花を見つけた時に無言で父に見せて、そのまま飲み込んだと言う。それならカウンと自分のやり方でもきっと効力はあるだろうと来夏は安心した。

 それよりも、来夏は父の韓国語能力が衰えていることが気になった。父は来夏とは韓国語で話してくれたが、父が韓国から離れる時間が延びるにつれ、また来夏が成長して語彙が増えるにつれ、父は伝えたいことはあっても韓国語でうまく言えないし、来夏の言葉を全て理解することも難しいと弁明するようになった。父母は滅多に電話で話さないから、父が日常で韓国語に触れる時間はほとんどないのだろう。

「来夏がパパのために日本語を勉強してくれないかな。きみは半分は日本人なんだから、きっとすぐうまく話せるようになるよ。日本語を身につけたら日本の大学に留学もできるし」

 一度そう言い出してからは、父は連絡を取るたびに来夏を日本へと誘った。ずっとその小さな町にいることはない。もし札幌の大学に進学するならパパと一緒におじいちゃんとおばあちゃんの家に住もう。パパが卒業した北海道大学には韓国人留学生もたくさん学んでいるんだよ――。

 父の誘いだけはカウンには言えなかった。カウンは来夏とまた同じ学校に通う日を夢見て勉強しているからだ。来夏だって同じ気持ちだった。だけど、父の誘いにわくわくする自分もいた。来夏自身は日本で嫌な思い出はないし、数年に一度父に会いに日本へ行く時も街並みの美しさや静かさが気に入っていた。母は日本人はよそよそしいと言うけれど、来夏をじろじろ見て噂する人達がいないだけでも自由を感じた。それに、こんなに離れていても父が自分を呼んでくれるのも嬉しかった。

 来夏は母にもカウンにも内緒で、日本語の勉強を始めた。


 六月になり十二歳を迎える日、来夏は中学校からの帰り道にカウンから教えられた三本のライラックの木が生えている土手まで行き、青い幸運のライラックの花を見つけ出すと、スーパーの前に設置されている公衆電話ボックスからカウンの自宅に電話をかけた。来夏の祖母は夕方には帰っているけれど、カウンの両親はこの時間はまだ帰宅していなかった。二人は手紙で念入りに計画を確認しあってこの日を迎えていた。

 カウンはすぐに電話に出ると「誕生日おめでとう、来夏」と明るい声で言った。来夏にとって今年もそれが初めて声で聞く誕生祝いの言葉だった。

 カウンは引っ越した町で芽吹きの時期にハート型の葉が特徴的なライラックの細い木を数本見つけておき、五月中旬になって花が咲き始めたら一本一本見てようやく薄紫の幸運のライラックの花を見つけ出した。

「でも今日まで風に飛ばされたりしおれたり他の誰かに取られたりしないか気が気じゃなかったから、来夏と一緒に飲めるのがすごく嬉しい」

「私も本当に嬉しい。綺麗なレースのリボンとクッキーもありがとう」

 カウンからは昨日を指定して誕生日プレゼントが届いていた。

「無事に届いてよかった。それじゃあ、飲もうか」

 何も言わずとも、二人はお互いが同じことを願っていると知っていた。一生カウンと――来夏と――一緒にいられますように。

 強く願いながら初夏の淡い香りごと花を飲み込んだ時、カウンの胸は痛んだ。せっかくの誕生日に電話ボックスで一人ライラックの花を飲む来夏を想像したら涙が出そうになった。昨年までは一緒に過ごせたのに。

「早く時間が経って大学生になりたい。同じ学校に通って来夏とずっと一緒にいたい。誕生日にはちゃんと顔を見ておめでとうって言いたい」

 カウンがそう言うと、来夏も本当にそうなったらどんなに幸せだろうかと思った。私だってカウンと一緒にいたい。――けれど、どこかですでに来夏には確信があった。

 私はきっと、父のいる北海道に行って大学に進学する。大好きなカウンから今よりもっと離れて、海も国も超えてしまうことになるけれど、それでも。 

                                              

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