事実は小説よりも奇なり

 * * *


 鳥も虫も寝静まる夜。消毒の匂いが鼻を掠める殺風景な部屋で、布団とベッドの間に体を挟む銀髪の少女は眠れずにいた。


「退屈だわ」


 吐いた言葉は誰に届くこともなく、夜のしじまに溶けていった。

 四人部屋の中で、使われているのは少女の病床だけだった。他は皆、少女より後に入院して、少女より先に退院してしまった。 

 今はひとりぼっちだった。家族ももう家に帰ってしまった。

 何年経っても、少女がこの寂寥せきりょう感に慣れることはなかった。

 孤独を紛らわそうと、少女はベッドに備え付けられた読書灯をつけ、枕元に置いた本を手に取った。何度も何度も読んだ本。外で遊べない少女にと、母親がプレゼントしてくれたものだった。今までたくさん読んできた中で、彼女はその話に一番思い入れがあった。

 身内に虐げられてきたお姫様が、隣国の王子様と結ばれる恋愛小説。読みやすく、意地悪な継母も姉も相応の報いを受け、読後の爽快感を誘う作品は読み飽きることなどなかった。

 ただ一つ、理解できない点があるとするなら、主人公が抱く「恋」という感情だった。

 このことをそのまま母親に伝えると両手で顔を覆いながら「丈夫な体に産んであげられなくてごめんなさい」と謝られてしまった。

 

 ——ただ純粋に恋をするという感情を知りたかっただけなのに。


 申し訳なさで、それ以降少女はその話題を他人に話すことはなかった。

 

「あーあ。でも死ぬまでに一回くらい、恋してみたかったわ。せめて出会いさえあればよかったのに」


 それでも、心は実に正直で、考えないようにしようとすればするほど、「恋」とは何かを知りたくなった。

 少女が十五年生きてきた人生の中での出会いといえば、主治医のお爺さんが二回変わったくらいで、同世代の異性との交流もなければ、同性の友達すらいなかった。

 少女は過去の出会いをぼんやりと思い出しながら、いくつかページをめくった。 

 その小説によると、恋をすると心臓が痛くなったり、顔が赤くなったり、色々と大変なようだ。しかも、ふとした瞬間にその相手のことを考えてしまう病の一種だと書かれていた。

 主人公がそんな大病に悩まされる様子があちこちに描写されていた。

 

「同じ病気になるなら肺炎より恋を患いたかったわ。その方がきっと今よりずっとマシだと思うし」


 叶わぬ望みにさらにため息を吐くと、発作の咳も出た。咄嗟に覆った手を見つめると白すぎるいつもの手だった。血が出ていないことが確認できると、今度は安心するように息を吐いた。

 体を起こして胸に抱えていた本の頁をさらにめくると隙間に挟んでいたガーネットのスピンが顔を覗かせた。


『好きです。私もマルク様が好きでたまらないのです。月の満ち欠けも、貴方と愉しみたいのです』


 少女はフリルのたくさんついた煌びやかなドレスをきた女性を脳内に描きながら、小説内のセリフを指でなぞった。


「月の満ち欠けを見ることの何が面白いのかしら」


 小説はいろんな世界へ誘ってくれるが、見たことのないものや経験したことのない感情に想像を膨らませることは難しかった。だから理解したかった。そうすれば、もっとその作品に共感でき、世界が広がるのだと思った。


「そりゃ、好きな人と見るから特別に感じるんじゃないんすかね?」


「え?」


 耳に届いたのは知らない男性の声だった。

 少女は掠れた悲鳴をあげると、辺りを見回した。

 今まで彼女の独り言に付き合う人間など、この十五年間で一人もいなかった。

 少女は体を強張らせると、本を盾にして警戒するように覗いた。気づけば月明かりの差す窓が開き、夜風がカーテンを優しく靡かせていた。


「ああ、俺の声聞こえてんだ。じゃあ君がオリヴィア?」

 

 声の主はその陰に隠れているようだった。


「なんで名前知って……あなた、誰なの?」


 少女——オリヴィアは震える声で問うた。窓から侵入してきた不審者をナースコールで通報する手もあったが、予想外の出来事にただ怯えるしかできなかった。

 影は窓枠にかけていた足をリノリウムの床に着地させて、ゆっくりと近づいてきた。


「初めまして、死神です」


 そう自己紹介するのは、小説に出てくるような黒い衣装と鎌を背負った骸骨——とはかけ離れた、人間の男性だった。衣装こそワイシャツに黒のベストを纏ったクラシカルな格好だが、髪の毛は対照的に月に照らされ、黄金色をしていた。

 死神、というよりはレストランで働くサーバーのような見た目をしていた。

 ワイシャツから覗く手には、黒い手袋がはめられている。


「えーっと……」


 夢を見ているのだろうと思った。自分の顔をつねろうとした右手を、先に男性に掴まれた。


「夢じゃないよ」


 ぐっと顔を近づけられて彼のエメラルドグリーンの瞳が顕になった。

 御伽噺でしかないと思っていた宝石のような瞳が実在するのだとしばらく見惚れていると、ふと、彼が目を閉じた。

 そのまま死神と名乗る男に腕を離されると、彼は少し寂しそうな顔をして、口を開けた。


「残念だけど、君、死ぬよ。一週間後に。」


 衝撃の事実とは思わなかった。嘘だとも思わなかった。もう長くないことは主治医からも伝えられていたし、どちらかといえば独り言に答えられたときの驚きの方が大きかった。オリヴィアはそうですか、とだけ返すと盾にしていた本をそっと下ろした。


「……ちょっと待って、受け入れるの?」


 自ら言ったのにも関わらず、男性は手を広げて驚いているようだった。


「なんとなくそんな気はしてましたし。でも、死神っていうのは嘘ですね」

 

 冷静に考えたら、死神なんてフィクションの登場人物、現実世界にいるわけがない。

 先程までの心のざわめきが嘘のように凪ぐと、オリヴィアは落ち着いた声で尋ねた。


「失礼ですが、私とどういう関係ですか?」


 歳の近い知り合いなどいた記憶はないが、名前も知られていて、ここまで話しかけてくるのだから、見舞いに来た身内なのだろう。


「まあ、そりゃ信じられないよな」


 独り言のように呟いた男性は懐に忍ばせた書類を抜き取ると、音を立てて広げてみせた。


「オリヴィア・フェリーチェ。四月二十五日生まれ。上記の者は肺炎により四月三十日に死亡。家族構成は父と母と五つ離れた妹が一人。これまで携わった主治医は二名。小説を好む。特記事項は特になし」


 セピア色の紙には撮った記憶のない顔写真とオリヴィアの身辺情報が筆記体で書かれていた。

 書類の中には誰にも言っていない情報まで詳らかに載っていた。

 たとえば、七歳まで雲に乗れると思っていたことや、ホラー小説を読んだ日の夜はどうにもトイレに行くのが怖く、別作品のお守りを自作して身につけていたことなど、顔から火が出るような内容ばかりで、オリヴィアは眉根を寄せた。


「まあ、こういう書類が死神協会宛に送られてきて、寿命が来た人間の魂を天国そらに届ける仕事をしてるのが俺たち死神ってわけ」


 まだ読んでいる途中だったが、書類をベストの内ポケットに入れられてしまった。

 死神を名乗る男性はパンパンと手を叩くと、というわけで早速なんだが、と話を続けようとした。


「えっと、ちょっと待ってください。余命宣告はお医者さまからもされていたのでわかるんですけど、その、死神って? だって、そういうのって小説の中の話じゃ」


 男性は頭をかきながら目に下半月を作った。


「まーだ疑ってんのか。ほら、事実は小説よりもなんちゃらって言いますよね?」


「奇なり?」


 言葉自体、知ってはいるがまさか本当だとは思ってもいない。現実とは違うから、理想に夢を託した物語がフィクションだ。

 確かに恋愛の素晴らしさや友情の尊さをテーマにした作品はリアリティがあり、作者の実体験をもとに描かれている作品もあるのだろう。

 看護師さんが若い研修医に浮ついているのを耳にしたり、同じ病室の隣のベッドに定期的に見舞いに来て退院後の予定を約束している小学生もいたりはする。

 それは身近だからこそ、イメージもしやすかった。

 ただ、見たことないものは想像もできない。

 中世の御伽噺も、挿絵があって初めて理解できるのに。


「それに、さっき見せた書類に君しか知らない情報も書いてあったろ、んですよね?」


 取ってつけたような不自然な敬語を用いる死神は、腕を後ろで組んだ。

 天使や悪魔、それこそ死神を扱ったファンタジー作品も読みはしたが、小説を読んでイメージしていた死神とは似ても似つかないせいか、説得力がなかった。


「もしやストーカー?」


「ちげーよ!」

 

 納得のいかないままオリヴィアは顎を手で触っていると、また声がした。


「まあなんだ、流石に死の宣告だけだと可哀想だから、死ぬまでに願いを叶えるってのも死神の仕事らしくってですね。病気を治したり、寿命を延ばしたりすることはできないけど、夢くらいは見せてやりますよ」


「夢……?」


「やり残したことがあればできる範囲で叶えてあげようってこと。定番なのが故郷の家族に会いに行く、とか、食べたいもの食べる、とか。なんかそういうのないんです?」


「いや、死ぬことがわかっていて改めてやりたいことなんか……」


 ない、と言いかけて、またとないチャンスだと思った。

 もしかしたら。そんな彼女の心とリンクするかのように、窓から差し込む月明かりが、より一層強くなった。

 オリヴィアは期待で膨らむ胸を手で抑えながら、ゆっくりと息を吸い込んだ。


「……ねぇ、なんでも良いの?」


「ああ、俺にできることならなんだってしますよ、それが仕事なんで」


 ややめんどくさそうに首筋に手を当てる死神を前に、少女は口を開いた。


「じゃあ、私、恋がしたい!」


 

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