美術室の探求者~質感と魂のリアリズム~
時系列:春から初夏にかけての、ある美術の授業とその後の出来事。
聖アストライア女学園の美術室は、北向きの大きな窓から安定した光が差し込み、イーゼルや石膏像、そして生徒たちの描きかけの作品が静かに置かれている、創造の気配に満ちた空間だった。今日の授業のテーマは「内なる声」。生徒たちは、思い思いの画材を手に、自らの心象風景や、魂の叫び(あるいは囁き)を表現しようと試みていた。
万里小路聖歌は、教室の隅に近いイーゼルの前で、大きなキャンバスに向かっていた。彼女の筆先から生み出されているのは、現実には存在しないであろう、しかしどこかで見たことがあるような、幻想的で荘厳な獣の姿だった。その獣は、夜空を思わせる深い藍色の毛皮に覆われ、その毛の一本一本が、まるで星の光を宿したかのように微かな輝きを放っている。まだ下塗りの段階に近いにも関わらず、その絵からは、見る者を圧倒するような生命感と、そして何よりも、触れれば指が吸い込まれてしまいそうなほどの、深遠なる『もふもふ』の気配が漂っていた。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、生徒たちが片付けを始める中、霞は聖歌のイーゼルの前へと歩み寄った。
「万里小路さん、今日も素晴らしい集中力でしたわね。その獣……以前あなたがウードリーの画集をご覧になっていた時に話していた『理想のもふもふ』のイメージに近いのかしら?」
聖歌は、筆を置くと、額に浮かんだ微かな汗を優雅な仕草で拭い、霞に微笑みかけた。
「まあ、東儀様。ご覧になってくださっていたのですね。ええ、これは、わたくしの心の中に住まう、最も気高く、そして美しい『お友達』の姿を、ほんの少しだけ描き出そうと試みているものですの。でも、その方の持つ、宇宙的なまでの『もふもふ』の深淵さと、魂の輝きを、この二次元のキャンバスに表現するのは、本当に難しいですわね……」
聖歌は、自らの絵を見つめ、どこか満足しきれないといった表情で小さくため息をついた。
霞は、聖歌の言葉に静かに頷きながら、その絵をじっと見つめた。そして、ややあってから、低い声で問いかけた。
「万里小路さんの描く毛皮は、まるでそれ自体が意思を持っているかのように感じられますわね。あなたは、ただの質感を写し取っているのではなく、その奥にある『存在の気配』のようなもの、あるいは……その生き物が持つ『魂の輪郭』とでも言うべきものを、捉えようとしているのではありませんか?」
聖歌は、霞のその言葉に、驚いたように目を見開いた。そして、次の瞬間、その蒼い瞳は、深い共感と喜びの色を湛えて輝き始めた。
「まあ、東儀様……! あなたは、わたくしの心を、まるで透き通った水晶玉のように見通されるのですね……! ええ、その通りですわ。わたくしは、全ての『もふもふ』に宿る、そのかけがえのない、聖なる魂の輝きを描き出したいのです。その毛の一本一本が奏でる生命の歌を、その温もりの中に秘められた宇宙の叡智を、この絵筆で表現できたなら……。それこそが、わたくしの求める芸術の、究極の姿なのですわ」
聖歌の言葉は、もはや単なる美術論を超え、どこか哲学的な、あるいは宗教的な領域にまで踏み込んでいた。しかし、霞はそれを奇異なものとしてではなく、一人の芸術家の真摯な探求として受け止めていた。
「魂の輝き、ですか……。それは、アルベール先生が時折仰る『存在のリアリズム』にも通じるものがあるかもしれませんわね」
霞がそう言うと、ちょうど二人の会話を聞いていた美術教師のアルベール・デュポンが、にやりと笑って近づいてきた。
「おや、二人とも、なかなか深遠な芸術談義をしているじゃないか。ミス・ヘイズの言う通りだよ、マドモアゼル・マリーゴールド。君の描く『毛』は、もはや単なる物質的な存在を超越し、そこに宿る『生命そのもののエッセンス』を捉えようとしている。それは、ゴッホが糸杉に見た炎であり、セザンヌがリンゴに見出した永遠性だ。君のその『もふもふ』への執着は、単なる個人的な嗜好ではなく、芸術家としての根源的な探究心の発露なのだと、私は確信しているよ」
アルベール先生は、情熱的な口調でそう語った。聖歌は、先生の言葉に頬を染め、しかし誇らしげに微笑んだ。
「先生にそのように仰っていただけるなんて、身に余る光栄ですわ。わたくし、これからも、この世に存在する全ての素晴らしい『もふもふ』の魂を描き出すために、精進してまいります!」
その決意を新たにする聖歌の姿に、霞は静かな感動を覚えていた。
(万里小路聖歌……。彼女が追い求める『もふもふ』とは、一体何なのかしら。それは、単なる手触りの良い毛皮のことだけを指しているのではない。もっと深く、もっと根源的な、生命の温もりや、魂の繋がりといった、形而上的な何か……。彼女のその探究の先に、どのような芸術が生まれるのか、そして彼女自身がどこへ辿り着くのか……。見届けたい、という気持ちが、私の内側から湧き上がってくるのを感じるわ)
東儀霞は、この風変わりな天才芸術家(と彼女は認識し始めていた)の、最も熱心な理解者であり、そして最も鋭い観察者となることを、この時、密かに心に決めたのかもしれない。
聖アストライア女学園の美術室には、若い探求者たちの静かな情熱と、まだ見ぬ芸術への期待感が、春の終わりの柔らかな光の中で、キラキラと輝いているようであった。
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