第一章『万里小路聖歌の華麗なる計画』

第1話「もふアン」

 万里小路聖歌の日常は、スノーフレーク・アンサンブル・もふもふ・ザ・ファースト――愛称もふアン――という、かけがえのない「天使」の加入により、かつてないほどの色彩と潤い、そして何よりも筆舌に尽くしがたい「もふもふ」の喜びに満ちていた。

 万里小路本邸の一角、南向きの窓から陽光が燦々と降り注ぐ広大なサンルームは、いまや完全に、もふアン専用のプレイルーム兼ヒーリングサロンと化していた。そこには、世界中から取り寄せられた、ありとあらゆる動物の毛質に対応するという最高級の獣毛ブラシ(猪毛、馬毛、豚毛は勿論のこと、アザラシのヒゲ、北極狐の尾の毛、果ては『幻のアンゴラ山羊の初梳き産毛』と謳われる伝説の逸品まで、聖歌の審美眼に適った数十種類が銀のトレイに整然と並べられている)。オーガニックコットン、エジプト綿、シルク、カシミア、ビキューナといった、肌触り別に厳選された最高級天然素材のクッションやハンモック。そして、もふアンの知的好奇心と運動能力を刺激するという名目で設置された、純金製のキャットタワー(もふアン本人はその冷たい感触よりも、聖歌が敷いたカシミアのマットの方を好んだが)や、宝石をちりばめたボール(もふアンは時折それを前足でちょいちょいと転がし、聖歌を喜ばせていた)。これら全てが、聖歌の『もふもふ』への飽くなき情熱と、万里小路家の財力を遺憾なく物語っていた。


 もふアン専用の食事もまた、万里小路家お抱えの一流シェフが、栄養バランスと嗜好性、そして何よりも毛艶と毛並みの向上に最大限貢献するという聖歌の厳命のもと、世界各地の希少食材を駆使して毎日新たな献立を考案するという力の入れようであった。


「本日は、北海道産の天然サーモンのムニエル、フランス産高級キャビアを添えて。デザートには、南アルプス天然水で育てた有機栽培苺のムース、金箔飾りでございます、もふアン様」


 などと、セバスチャンが恭しく銀の食器を運んでくるのが日常なのである。

 経済的に大丈夫なのかそれはというツッコミが起きそうなものだが、そこは流石の万里小路家。聖歌自身の手腕によるものも大きく、社交界を通してのもふもふへの探求心は、時に経済すらも大きく動かし、言っては何だが金など捨てるほど持っていた。恐ろしいお嬢様である。


 聖歌による、一日最低三時間、休日には半日を費やすという献身的なお世話――という名の、愛情と専門知識と高度な技術が融合した至高のもふもふマッサージ&ブラッシング・フルコース――の結果か、もふアンは日に日に元気を取り戻し、その姿を変えていった。


 路地裏で泥に汚れ、血に濡れ、ところどころ痛々しく禿げていた毛皮は、今や陽光を浴びてプラチナシルバーに輝き、まるで天女の羽衣か、あるいは雪の精の産着のように、触れることすら躊躇われるほどに清らかで、絹糸を何万本も束ねたかのような極上の手触りを誇っている。

 その小さな体躯から発せられる微かな気配も、以前の怯えと警戒心に満ちた刺々しさが嘘のように消え、どこか清浄で穏やかで、そしてほんのりと甘い花のような芳香を漂わせるものへと変質していた。

 痛々しかった傷も綺麗に癒え、心なしか以前よりもひと回り大きく、そして健康的に丸々としてきたように見える。


「まあ、もふアン。あなたのその神々しいまでの毛並みは、今日もまた一段と芸術的ですわね。この、指先が吸い込まれるような柔らかさ、この絶妙な弾力、そしてこの陽光を反射してオーロラのように煌めく艶やかさ……まるで春の陽だまりと高級な白檀を混ぜ合わせたかのような、筆舌に尽くしがたい芳香……スーハ―……くんかくんか……ふぅ。まさに生ける奇跡、歩く芸術品ですわ。世界中のどんな宝石や美術品よりも、遥かに価値があり、そしてわたくしの心を掴んで離さないのですもの」


 聖歌は、レースのカーテン越しに柔らかな光が差し込む窓辺の長椅子で、もふアンをその細い膝の上に乗せ、うっとりとした表情で囁きかけながら、特注の極細ブラシで、その小さな顎の下の毛を優しく梳いていた。

 もふアンもまた、聖歌のその巧みな指使いと、愛情に満ちた声に身を任せ、満足げにゴロゴロゴロゴロ……と、まるで小さな天使が奏でるハープのような、心地よい喉の音を響かせている。その音は、聖歌にとって、世界中のどんな偉大な交響曲よりも美しく、そして心安らぐ音楽なのだった。


 だが、人間の――いや、万里小路聖歌の欲望とは、かくも底なしなのであろうか?

 もふアンという、現時点での至高のもふもふを手に入れたことで、彼女の心は満たされるどころか、新たなる渇望の炎が燃え上がり始めていた。もふアンとの運命的な出会いは、彼女にとってゴールではなく、壮大なるもふもふ探求の旅の、ほんの始まりに過ぎなかったのだ。


「これほどまでに素晴らしい『もふもふ』が、この世界の片隅にひっそりと存在していたということは……」


 聖歌は、もふアンの柔らかいお腹にそっと顔をうずめ、その温もりとシルクのような手触りを堪能しながら、確信に満ちた声で呟いた。


 「この世界のどこかには、きっと、さらに、もっと、わたくしの想像を遥かに超えた、筆舌に尽くしがたい究極の『もふもふ』が、まだ誰にも知られずに眠っていらっしゃるに違いありませんわ……! もふアン、あなたはわたくしにとって、その輝かしい未来を指し示す、愛と希望の道しるべ……そう、あなたは壮大なる『もふもふ叙事詩エピック』の、感動的な序章なのですわ!」


 それは、もはや単なる予感ではなく、彼女の魂が渇望する、絶対的な真理に近いものであった。

 そして、その渇望は、彼女を新たな行動へと、そして世界の運命を大きく揺るがす冒険へと駆り立てるのだった。


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