序章『万里小路聖歌の華麗なる日常』

プロローグ01

 その日、世界は二つのかおを持っていた。


 一つは、人々が享受する凡庸ぼんような日常。

 経済指標が踊り、SNSが刹那の話題を垂れ流し、学生たちが試験の点数に一喜一憂する、見慣れた風景。

 それはまるで、薄いガラス板の上で繰り広げられる、儚くも賑やかな影絵芝居のようだった。

 誰もがその脆さに気付かぬ振りをし、或るいは本当に気付かずに、日々の小さな喜怒哀楽に身を委ねていた。


 だが、その薄皮一枚を隔てた向こう側には、もう一つの貌が存在した。

 夜の帳が下りた都市の片隅、忘れ去られた地下街の奥深く、あるいは暗い廃墟の裏側で、空間が悲鳴を上げるように歪み、魔獣と呼ばれる異形のモノたちがこの世界へと染み出してくる。

 それは、明確な敵意と純粋な破壊衝動を撒き散らし、人類の生存そのものを根底から脅かす、不条理にして根源的な破滅の顕現であった。

 まるで、世界という絵画に滲み出した、おぞましいインクの染みのように。


 そして、その脅威に対峙する者たちがいた。

 妖精と契約を交わし、人知れず戦場に立つ少女たち――魔法少女。

 彼女たちは極彩色の結界を展開し、その華奢な身体に不釣り合いなほどの異能の力を宿し、時に仲間を失いながらも、絶望的な戦いを繰り返していた。


 彼女たちの献身と、誰にも知られることのない無数の犠牲の上に、世界の表層的な平穏は辛うじて保たれている。

 だが、その真実を知る者は、ごく僅かに限られていた。

 報道されるのは原因不明の大規模損壊事故、突発的局地型磁気嵐の発生と、それに伴う通信障害といった、当たり障りのない言葉の羅列。

 人々は、見えない脅威の存在を、まるで都市伝説のように薄々感じながらも、それを直視することなく日常の営みを続けていた。

 確かな証拠もなければ、認めたところで対処のしようもないからだ。



 朝の光が、高く設けられたゴシック様式の窓から差し込み、そのステンドグラスを通して七色の帯となり、聖アストライア女学園の大理石の床に複雑で美しい模様を描き出していた。

 それはまるで、天上からの祝福が降り注いでいるかのような荘厳さを醸し出し、生徒たちの心に静謐せいひつさをもたらす日常の光景であった。


 明治38年創立の聖アストライア女学園。創立百二十年の歴史を誇るこの学び舎は、外界の喧騒とは隔絶された、選ばれし乙女たちのための聖域である。

 その長い歴史の中では、数々の名家の子女が学び、卒業していった。

 政財界に影響力を持つ者、芸術の世界で名を馳せた者、あるいは歴史の陰で重要な役割を果たしたとされる者……彼女たちの肖像画が、歴代学園長のそれと共に、重厚な額縁に収められ、講堂へと続く緋色の絨毯が敷かれた長い廊下に厳かに並べられている。

 生徒たちはその前を通るたび、自らが受け継ぐ伝統の重みを無言のうちに感じ取るのであった。


 磨き上げられたマホガニーの調度品は、年代を経てなお深い艶を保ち、生徒たちの手に触れる部分は滑らかに輝いている。

 教室の机や椅子一つとっても、それは単なる備品ではなく、長年大切に使われてきた歴史の証人のような風格を漂わせていた。

 壁面を飾る、来歴不明だが明らかに高価なタペストリーは、古代の神話の一場面や、伝説上の風景を描いたもので、その緻密な織り込みは専門家が見れば息を呑むほどの技巧の結晶だという。

 季節ごとに掛け替えられるそれらのタペストリーは、生徒たちの美的感覚を静かに育む役割も果たしていた。

 中庭の噴水は、ルネサンス期のイタリア貴族の庭園を模して造られ、その中央に立つ純白の女神像の手から、計算され尽くした角度で飛沫を上げ、水面に光の輪を広げている。

 水音は心地よいリズムを刻み、思索にふける生徒たちのための静かなBGMとなっていた。

 手入れの行き届いた薔薇園からは、品種改良を重ねて生み出された学園固有の薔薇をはじめ、季節ごとに異なる芳香が漂ってくる。

 その香りは、微かに校舎内にまで届き、生徒たちの心を和ませていた。

 春には淡いピンクの、初夏には深紅の、秋には純白の薔薇が咲き誇り、生徒たちはその移ろいからも季節の美しさを学んだ。


 生徒たちの制服は、世界的に著名なデザイナー、故・クロード・ヴァレンティノによる最後の作品の一つとされる特注品であり、季節ごとに数種類のバリエーションが存在する。

 夏服は涼やかなリネン混の生地で、冬服は上質なウール地。

 そのどれもが、体の線を拾いすぎない優雅なシルエットを保ちつつ、動きやすさも考慮されているという、まさに芸術品であった。

 その生地の織り目一つに至るまで、伝統と品格が染み込んでいるかのようだった。

 ブレザーの金ボタンには、学園の紋章である星と百合の意匠が精巧に刻まれ、スカートのプリーツの角度さえも厳格に定められている。

 彼女たちの言葉遣いは常に丁寧――と謡いつつも一部口調に乱れがある者はいる――で、所作は洗練され、その佇まいはまるで古い絵画から抜け出してきた貴婦人のようでもあった。

 すれ違う際には、軽く会釈を交わし、低く柔らかな声で挨拶を交わすのが常であった。

 『ごきげんよう』という言葉が、そこかしこで、まるで小鳥のさえずりのように交わされる。


 ここは、美と知性と、そして何よりも家柄という名の厳格なヒエラルキーによって統べられた、完璧なる箱庭。

 魔獣の咆哮も、魔法少女の悲鳴も、この薔薇色の優雅な塀を越えて届くことはない――少なくとも、表向きは。

 この学園の敷地は、特殊な結界によって守られているという噂もまことしやかに囁かれていたが、その真偽を確かめる術を持つ生徒はいなかったし、そもそもそのような俗な事柄に関心を持つ生徒は少なかった。

 

 彼女たちにとって重要なのは、目に見える世界の調和と美しさであり、その裏側を詮索することは品位に欠ける行為と見なされた。


 その完璧な調和の中で、万里小路まりのこうじ聖歌せいかは、朝の挨拶を交わす級友たちに、いつものように穏やかな微笑みを返していた。


 陽光を浴びて白銀に輝くプラチナブロンドの髪は、緩やかなウェーブを描いて肩まで流れ、大きな蒼い瞳はビー玉のように澄み渡り、どこか遠くを見つめているかのようだ。

 彼女の髪は、毎朝専門のスタイリストが手入れをしていると噂されていたが、聖歌自身はそのようなことを口にすることはなかった。

 名門万里小路家の直系。その揺るぎない血筋と、神が愛したとしか思えぬほどの美貌びぼう、そして入学以来首席の座を譲ったことのない非の打ちどころのない成績と品行は、彼女を学園の至宝として、生徒たちの羨望せんぼうと教師たちの期待を一身に集める存在たらしめていた。

 彼女が廊下を歩けば、自然と人垣が割れ、囁き声が後に続く。

 それは嫉妬というよりも、むしろ畏敬に近い感情であった。

 下級生たちは、彼女の姿を遠くから見かけるだけで頬を染め、同級生たちでさえ、彼女に話しかけるには少なかの勇気を必要とした。


「皆様、ごきげんよう。今朝は少し空気が澄んでおりますね。中庭の白薔薇も、一層美しく咲き誇っておりましたわ。まるで、夜露を吸って輝きを増したかのようです」


 鈴を振るような声で発せられる言葉は非の打ちどころのない丁寧語。それは相手が学園長であろうと、同級生であろうと、あるいは庭師の老人であろうと変わることはない。彼女の周囲には、常に一種の侵しがたい気品と、ほんの少しの距離感が漂っていた。まるで、彼女だけが異なる種類の空気を纏っているかのように。


 聖歌が自分の席――窓際の一番後ろ、教室全体を見渡せる特等席のようでありながら、どこか孤高を感じさせる場所――に着くと、すぐに数人の生徒が彼女の周りに集まってきた。

 彼女たちは、いわば聖歌の取り巻きとでも言うべき存在で、学園内でも特に家柄が良く、容姿も整った生徒たちだった。


「聖歌様、ごきげんよう。昨夜ご覧になったというオペラはいかがでしたの? 新進気鋭のテノール歌手が出演なさるとか」


 最初に声をかけたのは、栗色の髪を上品な夜会巻き(髪を後ろにねじり上げて、コームやピンで留めたスタイル)にした、華族の血を引くという一条院いちじょういん彩子あやこだった。

 彼女は聖歌の熱心な崇拝者の一人で、常に聖歌の動向に気を配っていた。


「ええ、彩子様。素晴らしい歌声でしたわ。特に高音の伸びは、まるで教会のパイプオルガンのようでした」


 聖歌は穏やかに答えたが、内心では表とは全く異なる考えを持っていた。

 あのテノール歌手の衣装のベルベット、きっと素晴らしい手触りだったでしょうね……舞台衣装とはいえ、一度触れてみたいものですわ。などと、だいぶ俗っぽい考えだ。


「まあ、それは素敵ですわね。わたくしも次回公演のチケットを手配しなくては。聖歌様がお勧めになるくらいですもの、間違いありませんわ」


 彩子はうっとりとした表情で頷いた。彼女にとって、聖歌の言葉は常に絶対的な価値を持つのだ。


 教室には続いて、黒髪のストレートヘアが印象的な、クールな雰囲気の生徒会長、如月きさらぎ玲奈れいなが軽く会釈してから入って来た。

 高等部三年生である彼女は、聖歌とは幼馴染であり、他の生徒よりは気兼ねなく話せる間柄ではあったが、生徒会長としての立場と、聖歌の持つある種の規格外な雰囲気に対して、常に冷静な一線を保とうとしているようでもあった。


「聖歌、おはよう。早速で申し訳ないのだけれど、来週の学園主催のチャリティー茶会の件よ。今年もあなたに高等部代表として、主賓のご挨拶をお願いしたいの。学園長もそのようにお望みでいらっしゃるわ。原稿の草案は、明日までに生徒会室へ提出してもらえるかしら?」


 その言葉遣いは、幼馴染としての親しみを残しつつも、生徒会長としての責任感を滲ませていた。


「まあ、玲奈様、ごきげんよう。お役目、謹んでお受けいたしますわ。原稿も、明日の放課後には必ずお届けいたします……ところで、玲奈様。その茶会でお出しになるお茶菓子について、一つご提案があるのですけれど」

「提案? 何かしら?」


 玲奈が少し訝しげに聞き返す。


「はい。もし可能でしたら、アンゴラ兎の赤ちゃんの毛のように、それはそれはふわっふわで、お口に入れると儚く溶けてしまうような、特製のマシュマロなどをお出しするのはいかがでしょう? きっと、ご来賓の皆様も、その至高の『ふもふ食感に心癒やされ、チャリティーへのご寄付も弾むに違いありませんわ!」


 聖歌は、目を輝かせながら熱弁した。玲奈は、そのあまりにも聖歌らしい提案に、一瞬、その美しい眉をぴくりとさせたが、すぐに冷静さを取り戻し、生徒会長としての顔で応じた。


「……聖歌。あなたのそのユニークな発想は素晴らしいと思うけれど、チャリティー茶会は学園の伝統と品位を重んじる行事よ。あまりに奇をてらったお菓子は、ご年配のご来賓の方々には馴染まないかもしれないわ。でも、そうね……マシュマロ自体は悪くないかもしれないわ。食感の柔らかいお菓子は、確かに好まれる傾向にあるから。少し、パティシエの方と相談してみましょう。ただし、アンゴラ兎の赤ちゃんの毛という表現は、メニューには記載できないけれど」

(本当に、この子の頭の中はどうなっているのかしら……アンゴラ兎の赤ちゃんの毛のようなマシュマロ……まあ、確かに柔らかそうではあるけれど……でも、その情熱を、もう少し現実的な方向に振り向けてくれれば、どれほど助かることか……)


 玲奈は内心で深いため息をついた。聖歌のこの独特の感性と、時折見せる突拍子もない提案は、生徒会長としての彼女の悩みの種であり、同時に、幼馴染としての玲奈にとっては、どこか放っておけない魅力でもあるのだった。


 そんな彼女たちのやり取りを、少し離れた席から羨望と若干の嫉妬が混じった瞳で見つめている生徒たちもいた。

 聖アストライア女学園は、表向きは平等と博愛を謳ってはいるものの、その実、家柄や才能によって厳然としたカーストが存在する。そして、万里小路聖歌はその頂点に君臨する存在だった。

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