幻想旅行記

白昼夢茶々猫

第1話 クリスタルピアノと天上の音楽

 旅をしよう。

 世界は知っているよりもずっと広くて、知ることが出来るのはずっと狭いのだから。



 そこは空にとても近い町だった。

 高い建物の中に入る。どうも、ビル、というらしい。

 これに乗るといい、と案内された箱の中に入ってしばらくしてから出ると、不思議な事に青い空がとても近い。先程まで、地面を踏みしめていたというのに、天使にでもなった気分だった。

 ここがビルの一番上だそうだ。この町で一番空に近い場所。

 静かな静寂に包まれて、ビルの近くにある海のさざ波の音がかすかに聞こえる。

 ガラス張りの部屋の中に、ぽつりと目を引く楽器が一つ。透明なピアノがそこにはあった。

 この町の住人に、これはなにか、と問えばピアノだと、見たままを返してきた。歓迎されているらしく、弾いてもいいとの許可を貰う。

 ピアノは正直そこまで上手い方ではない。一曲二曲、昔に練習していた曲が弾けるかどうかといったところだ。

 ピアノに座れば、透明な譜面台の向こうに、海が見える。ちょうど三日月のような形の白い浜辺と、空の延長線上のような透き通った碧の海が美しい。

 わくわくとした顔の住人に気に入ったかと聞かれたので、当然頷く。このような美しい場所が気に入らない理由など、高所恐怖症か美しさ恐怖症にでもかかっているのかもしれない。

 いや、高所恐怖症だとしてもこの場所は気に入るのではないか。高いことは確かだし、そういった人々が怖がりそうなガラス張りの最上階ではあるが、そう、まるで空の一部にでもなったかのような光景なのだ。

 自分の背に羽が生えていると思う程、気分が高揚して足取りが軽い。

 うん、きっと、高い所が怖い人も気に入るに違いない。美しいものが怖かったら……、それはどうしようもないな。

 ガラスの前の光景に呆けていたら、袖を引かれ、ピアノを弾いてみるように再度言われる。どうも面白い仕掛けがあるらしい。

 あまり人の前で披露できるような腕前ではないが、旅人には楽器がつきものときっと古今から決まっている。リュートや竪琴ではなく、ピアノだったっていいに違いない。

 一応、両手で演奏できるだけの技術は持っているのだし。

 椅子に座り、美しい鍵盤に微かに震える指を乗せる。細くもなく、たいして白くもない、言わば特筆すべきところのない自分の指までもがなんだか美しいものに見えた。

 ゆっくりと指を落とすと、かろん、とピアノの音。

 それから視界の端に、赤と黄色の光が走った。

 不思議に思ってその光を辿ってみれば、それはもうどこにもない。もう一音、もう二音、曲と呼ぶにはつたない音を記憶を辿りながら弾けば、おのずと光の正体はわかった。

 花火だ。

 赤、黄色、オレンジ、緑、紫、ピンク。色鮮やかな光たちが、鍵盤を押すごとに、上のガラスに映っては跳ねる。

 どうも面白い仕掛けとはこのことだったらしい。

 ここの住人には美しいものが好きな人が多いが故に創られた、だそうだ。

 少しもたつく指がそれでも奏であげているのは、パッヘルベルのカノン。

 鐘のような音で構成されるこの曲は、目の前の絶景によく似あっていた。音の追いかけっこともよく評されるが、次々と走っていく音と、真昼の空に溶け込むように、ガラスの中で弾ける花火がリンクしているのがひたすら美しかった。

 名残惜しくも、弾き終われば、案内人の静かな拍手が響いた。

 素晴らしい演奏だったと言ってもらう。自分のつたない演奏にそう言ってもらえるとは社交辞令だろうとはいえ、嬉しいものだ。


 さて、ではそろそろ行こうか。

 旅の途中。美しい場所はとくに、その美しさに囚われないようにしなければね。

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