吉田麻衣子(7)
二週間が経過し、とうとう退職願が受理された。
最後の日、上司は苦虫を噛み潰したような顔で、同僚は涙交じりに見送った。麻衣子はこれまで世話になった部署含め、デパートの地下で購入した菓子折りを持って挨拶に回った。
皆一様に「結婚式の日取りはいつか」と尋ねてくるのを、麻衣子は曖昧に受け流した。京香だけが訳知り顔で得意そうだった。
お別れ会の誘いを断って、正午過ぎには最寄り駅に着いた。いったん家に帰って着替えると、車を再度走らせた。二十分ほどのドライブだったが、いまだ残る惨劇の匂いに麻衣子の中で、浮かび上がってくるものが確かにあった。
目的地の青柳町は、アパートや一軒家が建ち並ぶ住宅地だが、ここら随一の繁華街たる青花町が近いこともあって、決して治安がいいとは言えない場所だ。コンビニよりもパチンコ屋、自動販売機よりも立ちんぼの数が多いといわれている。住んでいるのも多くは青花の夜の蝶や裏方、裏の世界の関係者、もしくは浮浪者である。麻衣子は駐車場を探して停めて、いつもより念入りにロックを確認した。油断すると白昼堂々車上荒らしが漁りに来るのだ。
小雨のため、ビニール傘を差す。少し歩くと『かつらぎ荘』という古い看板がかかるアパートを発見した。
二階建ての木造建築。庭は荒れ放題だが、何台か並ぶ車と、建物を囲うように一定間隔で植わったつげの木でなんとか雑草を目隠ししている。階段を上がるとミシミシ軋み、廊下の手すりに触れるとピキッという危うい音がした。
二〇三号室のチャイムを鳴らし、麻衣子は少し声高にして、
「もし。チーター宅配便です」
と言った。我ながら笑ってしまいそうだった。
「なんらぁ、頼んでねぇりょぉ」
寝起きか、舌足らずな言い方と、野太い男の声質のギャップがおかしい。
どしゃん、がしゃんとものにぶつかる音がしたが、なんとかドアが開いた。
よれたジャージ姿の男性である。息を吐くとアルコールのきつい匂いが鼻を突き、頭からはぷんと汗の匂いが飛び散る。こちらに目を向けているにもかかわらず、果たして麻衣子の姿が視界に入っているのか判別しがたい、奇妙な違和感のある瞳は、写真で見たとおりだった。
間違いなく、この男が田崎正志だ。
「田崎さん」
麻衣子は凛と言い、スマホの画面を開いた。
「このためにわざわざツブヤイターのアカウントを作りました。これ、あなたが加工したものですよね」
田崎は目の前の女と、スマホの中の女とを、早回しのように交互に見比べた。
「あぁ……おめぇが吉田麻衣子かぁ」
男はある程度、意味を理解したのか、実物の麻衣子の顔を指差すと、ケタケタと気が違ったように笑い出した。
「そうだなぁ。おれの最高傑作だぁ。いいだろぉ」
「たしかによくできているわ。そうね――これと甲乙つけがたいぐらいに」
麻衣子はわざとらしい棒読みで言って、画面を写真フォルダの中の、ある一枚に切り替える。
瞬間、反対に田崎の顔が変わる。
麻衣子は面白そうに写真を爪でつついた。
「あなたの通っていた専門学校でおこなわれた、映像編集技術を競うコンテスト――業界からも注目されている、登竜門的イベントらしいじゃない。あなたは敢闘賞……でも私の目で見ると、最優秀賞の人のより、あなたのほうが――」
「ああ、そうだ!」
これまでの世界を追い出されたような無気力さから一転、男は途端生気を取り戻したかのように、切り裂くような声をあげた。麻衣子は口を真一文字に結んで、スマホの電源を切った。男は立て板に水で、
「あの女はな、政治家のお嬢ちゃまでな、審査員長を脅してやがったんだ。聞けよ、巧妙だぜぇ? まず息子に近づいて、セックスの様子を隠し撮りしたのを親父に送りつける。息子の名前は伊藤陽太だ。信じられっか? あの俳優の伊藤陽太だぜ。CM何本も抱えてる伊藤陽太だぜ。元アイドルの美千穂と結婚して二児の父の伊藤陽太だぜぇ? 親父は老舗の映像制作会社の社長で業界に顔がきくからな、当然もみ消そうとしたがすでに永田町に手が回っていた。さすがに政治家さんには勝てねぇ、親父は息子のスキャンダルを抹消するために、あの女を最優秀賞に仕立て上げるようでっち上げたんだ! 技術も才能もないクソのくせによぉ!」
そこまで言い切ると、彼ははあはあと肩で息をしながら、光のない漆黒の目で、麻衣子を下から覗き込んだ。
「あの女、今やいろんな番組やってんぜ。『ワイドワイド12』とか『ランシャーズの明日は明日の風が吹け!』とかなぁ、幅広くやってんぜぇ……」
「だからあなたの『作品』はすべて、LP企画のパッケージを元にしているのね。美千穂が昔、素人もののAVに出たことは以前騒がれていたことがあったから。でも――」
麻衣子は悲しそうに首を振った。
「あなたのアカウントに投稿されていた作品、過去すべて振り返ってみたわ。それだけ憎いのになぜあなたは一度もその女でアイコラを作らなかったのか。それはひとえに怖かったからでしょう。女にバレて、政治家のお父さんが復讐に来るのが。だからせめてもの仕返しにLP企画のパッケージを使ってみせた。そうでしょう?」
「……」
男の頬がピクリと動く。麻衣子は続ける。
「さらにさかのぼってみるとわかるけれど、最初のほうは一見コラージュとわからないほどに上手くはめ込んでいる。さすがは実質最優秀の作品を作ったあなたよ。でも時を経るにつれてどんどん雑になっていって、最新の私のそれなんか、パッと見ただけの私の後輩が一目でわかるほどに粗くなっている。もちろんあの子も私がAVに出るはずがないからそう思ったんでしょうけど、にしても酷いわ。最高傑作? 技術じゃない、感覚がどんどん大嫌いなお嬢様に近づいていっているからそんなことが言えるのよ」
「……おまえに何がわかんだよぉ!」
一瞬だった。
悲痛な叫びとともに、ポケットの中のカッターを麻衣子に向ける。その顔は怒りとも悲しみとも取れる、涙でぐしゃぐしゃに濡れた、哀れな姿だった。
「……正直あなたに恨みはないわ」
麻衣子はポツリとつぶやくと、突進してくるカッターと田崎を避けた。
「…………」
手すりは非常に脆かった。
車は急には止まれない。雨で滑りやすくなった床は、急ブレーキをかけづらい。
クスリでとっさの判断がつきづらくなり、さらに怒りで我を忘れた彼が行き着く先はひとつだった。
男はひとつの悲鳴もあげることなく、落下した。
唯一の救いはここが二階で、落ちた先が生い茂ったつげの木の上で、クッションになっていたことだった。ただ晴れ間が覗き明瞭になった視界には、彼の持っていたカッターが彼の腹を突き、小さな葉を赤く染めているのが確認できた。
「哀れな人」
下を覗き込みながらそう言って、麻衣子は玄関に向き直った。
傘を傘立てに差し込んで、中に入る。もちろん靴を脱ぐ。
二人で住むにはいささかせますぎるワンルームに、ゴミ袋が所狭しと並んでいる。部屋の中にゴミがあるというより、ゴミの中に住処がある。足を踏み入れてみると、先ほどまで雨の匂いに隠れていた室内の異臭が鼻をダイレクトにねじ曲げてくる。よく苦情が来ないものかと思う。
でっぷり膨らんだ袋たちを踏み越えながら進んでいくと、ゴミとゴミの間に、人のような何かが横たわっていた。
金色の長い髪に、彼と同じよれよれのジャージ。どす黒い布団のような何かを腰から下に乗せて、足はゴミ袋が覆いかぶさっている。顔はあちらを向いているので見えないが、寝ているのだろうか。
「ねえ、ゴミ袋ってあったかいの?」
麻衣子が声をかけると、女は面白いぐらいに大きく身震いし、上半身を起き上がらせた。
「なぁに、マーくん。もう起きたの?」
男と同様に寝ぼけた声だが、振り返った顔に異常さは見受けられなかった。クマがひどいのは夜の仕事のためだろう。どうやら本当にクスリはやっていないようだった。
女は何がなんだかわからない様子だった。見慣れた部屋に、いるはずのない女がいて、挙げ句ニヤニヤしながら顔を近づけてきているからだ。
「あんたは……マホ? なんでここにいるの?」
「『ミスエンジェル』のナンバー1がいるわけないでしょう。なんだか悲しいわ、あんなに見てきていたのに忘れちゃうなんて……瑞稀ちゃん?」
麻衣子は残念そうに首を横に振る。
そろそろ状況を把握した中島瑞稀は、ただでさえ白濁した顔を能面のように白くさせ、唇をわななかせはじめた。
「あんた……なんで、なんでここにいるの。マーくんは……マーくんはどこ?」
「そんなマーくんマーくんって、すがるのはもうやめてあげて」
麻衣子はゴミ袋のひとつに腰を沈めると、足を組んで哀れっぽく息を吐いた。
「あなたたちには同情するわ。悪い女に将来の道を絶たれた男と、悪い男に根こそぎ奪われた女が、何かの拍子に恋に落ちるのはわからないでもない。でもそれからドラマの登場人物のように心を入れ替えて、お互いに支え合って人生をやり直せばいいのに――男は女にいいように使われっぱなしで、クスリに侵され技術まで衰え、女は養ってあげているんだからと上から目線で自分の復讐にこき使う。とことんゲスね」
「わ、悪いのは誰よ」
中島瑞稀は震えながらも身を乗り出して、懸命に勝ち誇った笑顔を作った。
「悪いのはあんたでしょ」
「それ、私が高校の頃、バスケのポジションを勝ち取ったこと? それともあなたが片思いしていたサッカー部の先輩に私が告白されたこと?」
「どっちもよ!」
瑞稀は金切り声をあげた。
「わ、私のものを、あんたが根こそぎ奪ったのよ! 私が活躍する予定だったし、間宮先輩は私の彼氏になるはずだったのよ!」
「浅はかねえ。私があなたより上手くて、私があなたより魅力的だっただけでしょう」
麻衣子は尻を持ち上げると、苛立ちを隠せないとばかりにナイロンを指でつねる彼女を見下ろした。
「何を――」
中島瑞稀は歯ぎしりし、言い返そうと試みるが、麻衣子のひどく冷たい声に遮られた。
「あなたは予定、なるはず、とまるで世界が自分を中心に回っているかのような物言いだけど、すべては自分でつかみ取らなきゃいけなかったものよ。私の車のナンバーを調べる努力をするように、自主練を頑張ればよかった。私の頭に植木鉢を落とすタイミングを見計らうぐらいなら、間宮先輩に似合う女になれるよう自分を磨けばよかった」
麻衣子は腰をかがめて、瑞稀と視線を合わせた。
「あなたは自分の復讐に他者を巻き込んだ。田崎正志、彼は筋金入りの臆病だから、スズメバチを放つなんてできない。か弱い子どもを狙って、屈強なお父さんが来たら逃げる。同じ爬虫類でも蛇じゃなくてのんびりした亀を使う……ねぇ、ひとつ聞きたいことがあるの」
麻衣子は中島瑞稀の頭をむんずとつかんだ。
「あの亀はどこで手に入れたの? ペットショップ?」
「……あの」
中島瑞稀はこの期に及んでなおつかみかかろうと、ゴミ袋に当てた五指に力を込めたが、無駄だと悟ると、だらりと腕を下げた。
さっきまでの零下の声が、まるで情けのようなあたたかさを帯びているように感じたのだ。瑞稀はまるでわけがわからないままに、答えた。
「田んぼよ。田んぼを泳いでいたの」
「なるほど。わかったわ」
うなずいた麻衣子が取った行動は、瑞稀をなくす。
あの得も言われぬあたたかさは、腹の中で青く燃える炎の熱さを、少し引き抜いて自分に見せていただけなのだろう、と思えることすらできなくさせる。
約十八時間後の午前九時、頭を抱える警察に一本の電話がかかった。
「私がやりました」――と。
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