吉田麻衣子(3)

 翌日は休み――ということで麻衣子は包帯を取っ払って、近くの温水プールに足を運んだ。

 麻衣子も幼い頃に通った懐かしいプール。夏場は涼を求めた人々で芋洗い状態だが、この時期のこの時間は泳げないほど混み合ってはいない。小プールに目を向けると、水を楽しむ幼子たちの姿があった。

 麻衣子はゴーグルをはめると、ゆっくりと水に足を入れた。二、三歩歩むと、顔をつけて、浮かんで、足を少しバタバタさせた。

 水の感覚はまだ残っている。二十五メートル先に到達すると、ゴーグルを上げて、向こう岸まで確認した。

 今このレーンで遊んでいるのは十人ほど。高校生ぐらいの男の子と、慣れた感じの屈強な男と、線の細い若者と、カップルと、老婆と――まさに老若男女。麻衣子は鼻で息を吐くと、再び同じ体勢で泳ぎだした。

 するとだ。

 彼女は突然、何かに吸い込まれたような感覚に襲われた。残った息を水の中で全部吐き出る。お風呂の栓に流されていくお湯のよう。だが彼女はあわてることなく、両腕を伸ばしたまま、懸命に後ろを見た。

 しばらくすると足首から触れる感触がなくなった。麻衣子は顔を水から出すと、大きく息を吸い、ゆったりと歩き出した。

「あの、大丈夫スか……? なかなか水から出てこなかったんスけど」

 監視員が声をかけてきた。顔が焦っていないのは、溺れかけたと思っていないからだろう。それぐらい麻衣子は波も立てずに、体勢を立て直したのである。

「大丈夫です」

 麻衣子はプールから上がり、シャワーを浴びて更衣室へ出た。髪を乾かして、ロビーでペットボトルの水を飲みながら、考え直す。

 麻衣子は決して目が悪いほうではない。むしろ良いといえる。プールへ足を踏み入れたときから、構内にいる人々の顔をすべて調べていた。思い当たる節があるのを、一人だけ発見した。

 肌身離さず持ち歩いている、晋作のメモ。それらしい人物が、悠々と水と戯れていたのである。そして足を引っ張られ、背後を振り返って、確信に変わる。アキに話しかけた不審者と、麻衣子を溺れさせようとした人物は、同一人物である。

 さらにやつには特徴がある。不自然に落ちくぼんだ目、濃すぎるクマ――あれはジャンキーの目だ。危ないクスリに犯された人間の末路だ。

 彼女はメモをバッグに入れ直して、プールをあとにした。

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