第4話|幻の花を追って
咲良は、小さな図書室の片隅でその本と出会った。
古びた植物図鑑。黄ばんだ紙。文字は手書きのように揺れている。
ページの間に、ひらひらと差し込まれていた一枚の写真が目に留まった。
白く、光を吸い込むような花弁。
夕焼けを背に、どこかの山道にぽつんと咲いている。
ページの余白に、鉛筆のメモがあった。
「この花は、まだ誰にも名前をつけられていない。
雨上がりの午後、あの尾根の風が吹く場所で、咲いていた。」
咲良はそのページをそっと閉じて、でも心はもう、山の上を歩き始めていた。
「それ、ほんとにあるの?」
葵が眉をひそめる。咲良が持ち込んだのは、スキャンした図鑑の写真と、曖昧な地名だけ。
「……確信はない。でも、行ってみたい。
もし“まだ名前のない花”があるなら、それを見たいと思ったの」
「ロマンチストだなあ」勇人が笑った。
春樹は黙って写真を見つめ、ゆっくりとうなずいた。
「分かる気がする。名前がないって、なんか……まだ世界のどこかに“余白”がある感じがするよね」
「それに」芽衣が声を上げた。「花って咲くタイミングがあるんでしょ? だったら今がチャンスかも!」
AIアシスタントが応答した。
「該当の花と一致する画像は見つかりません。ただし、推定される標高・開花条件から、4月下旬〜5月初旬が最も適しています」
「じゃあ今だ。行くしかないでしょ!」
勇人の声に、みんなの表情が明るくなった。
登山日和の朝、5人は小さなリュックを背負って集まった。
AIのルート予測で、目指す尾根の位置は「おそらくここではないか」と示されていた。
地図と写真と勘と希望を頼りに、彼らは山に入った。
最初のうちは、登山道も整備されていた。
木漏れ日が揺れて、小鳥の声がリズムを作る。
咲良は、風の中で写真の花の匂いを想像していた。
けれど、途中からは道なき道だった。
ぬかるみ。崩れた斜面。枝に引っかかる髪。
ドローンは風に煽られ、飛行を断念した。
AIも電波の届かない場所では、沈黙したままだった。
「咲良、もう少しで頂上だよ」
勇人が、背後を振り返って声をかける。
「うん……!」
彼女の足は疲れていた。でも、心はまだ登っていた。
頂上は、開けた草地だった。風が抜けて、空が近かった。
そして──その中央に、
一輪の白い花が、ぽつりと咲いていた。
全員が言葉を失った。
光の中に、すっと立っている。
風に揺れているのに、どこか揺らいでいない。
咲良が、ゆっくりとしゃがんで、そっとその花にカメラを向けた。
AIアシスタントの画面には、こう表示された。
「一致する登録種はありません。これは、まだ知られていない花かもしれません。」
咲良は笑った。
「……やっぱり、咲いてたんだね」
誰かが見つけたことのある花かもしれない。
だけど、今この瞬間、それを見つけたのは自分たちだった。
それだけで、充分だった。
帰り道、夕暮れの下り坂で勇人がぽつりと言った。
「この花、名前つけるなら……どうする?」
咲良は少し考えて、空を見上げた。
「“風標(ふうひょう)”ってどうかな。風の標(しるべ)。
吹いた風の、その先に咲いてるみたいな気がしたから」
春樹が頷いた。
「いいね。それ、咲良らしい」
芽衣が笑う。
「次は芽衣も見つけたいな。名前のない何か」
葵が肩をすくめた。
「その前に、道なき道に突っ込まないで。今度はもっと装備整えて行くんだからね」
みんなが笑った。
その声が、まだ風に溶けていくような時間だった。
✦ afterbloom:風の先に咲くもの
希望というのは、目に見えない“つぼみ”みたいなものだ。
咲くかどうかも分からない。名前もまだない。
でも、誰かがそれを信じて探しに行ったとき、
はじめて、風の先に咲く。
それは、ただの花じゃなかった。
“見たい”と思った心が、咲かせたものだった。
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