インターネットピエロ

ゆらゆた

インターネットピエロ

「今日も、いい声ですね」


配信画面のコメント欄に、見知らぬ誰かがそう書き込んだ。彼は照れくさそうに笑いながら、マイクの前で「ありがとう」と低く返した。



顔は見せない。見せられない。けれど、声だけなら武器になる。そんなこと、これまで一度も思ったことがなかった。


きっかけはほんの気まぐれだった。何の気なしに始めたライブ配信。

画面の向こうの誰かに「イケボですね」と言われたその瞬間から、彼の世界は一変した。


「歌ってください」


「もっと喋って」


「今日も来ました」


知らない誰かの声に応えたくて、彼は毎晩マイクの前に座るようになった。


部屋の灯りを落とし、スマホをスタンドに立て、イヤホンマイクをつける。配信アプリを開けば、そこはもう“舞台”だった。


「こんなに喜んでもらえるなら、もっと頑張らないとね」


自分の声が、誰かの心に届いている。そう信じていた。現実の誰かよりも、画面の向こうの「誰か」の言葉の方が、胸に響くようになっていた。


だが、その変化に、彼女は気づいていた。


最初は応援していた。楽しいなら、やってみたらいい、と。


でも、彼の目の前から、次第に現実が消えていった。


休みの日も出かけることはなくなり、食事の時間さえ惜しんで配信の準備を始める。


「また、配信?」


そう問いかけた彼女に、彼は軽く笑って答えた。


「うん、今日も人が来てくれると思うから、やらないと」


その笑顔は、彼女に向けられたものではなかった。

目の前にいる彼女ではなく、画面の向こうの“誰か”のためのものだった。


彼の歌声に惹かれて集まる人たち。


「癒されました」

「今日もありがとう」

「声、最高です」


コメントの数だけ、彼は自分の存在を確かめていた。


夜が深くなるほど、彼の声は滑らかになっていく。

でも、彼女はその声に耳を塞いだ。


彼の歌声は、自分のためのものじゃない。


隣にいても、もう彼の心には手が届かない。


「あなた、まるで……ピエロみたいね」


ある夜、彼女はそう呟いた。

ふと配信を止めていた彼は、振り返って眉をひそめた。


「え?」


「誰かの“いいね”のためだけに、生きてるの。滑稽で、悲しい、ピエロみたい」


彼は何も言い返せなかった。

図星だったからだ。

認めたくなかったけれど、彼女の言葉が胸に刺さった。


それでも彼は配信をやめられなかった。

スマホの中には、彼を認めてくれる声があった。

現実では手に入らない肯定が、そこにはあった。


彼女は荷物をまとめ、静かに家を出て行った。

止める声も出なかった。彼の喉は、誰かのリクエストに応えるためのものになっていた。


それからの彼は、ますます配信にのめり込んだ。

笑い声、歌声、感謝の言葉。

まるでサーカスの舞台で、仮面をつけて踊るピエロのように。


画面の向こうの誰かが今日も言った。


「今日も素敵な声ですね」


彼は笑った。だけど、その笑みは鏡の中で歪んでいた。


もう、自分が誰なのか、彼にはわからなくなっていた。


舞台の幕は、永遠に下りない。

彼が望んだ「存在証明」は、たしかにここにある。

でもそれは、現実のぬくもりと引き換えに手に入れた、孤独な称賛だった。


そして今夜もまた、ピエロはマイクの前で歌い始める。


誰かの「いいね」のために。

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インターネットピエロ ゆらゆた @yurayuta

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