39. 生き証人

 脱走兵らしき三人組の後を追ったリアムは馬を降り、慎重にマンゴーの木が生い茂る中へと足を踏み入れる。茂みをかき分けてゆくこと数分。突如背後の茂みが鳴って、リアムの背に堅い物が突きつけられた。

「動かないで! う、動くと撃つから!」

 まだ年若い娘だ。その声は哀れなほどに震えている。先ほど、ラクシュミーを守れと叫んだのと同じ声だ。リアムは手にしていた拳銃を投げ捨て、両手を挙げた。

「ラクシュミー王妃は奥にいるのか?」

「えっ……」

 まさか自ら銃を突きつけた白人が、流暢なヒンドゥスターニーを話すとは想像していなかったのか、わずかに銃身が下がる感触がした。だが、娘の動揺は一瞬だった。すぐに銃口を押しつけられる。

「これ以上、王妃様に近づかないで! い、意味は分かるでしょう!?」

「ノウラ!」

 威厳のある低めの女の声が、前方の茂みから飛んできて、娘の台詞を遮った。

「銃を下ろしなさい。その方をこちらへ」

 意外な成り行きに、リアムのほうが目を瞠った。両者の声には全く聞き覚えはなかったが、誰なのかは想像がついた。

 常にラクシュミーの側に控えていた豊満な中年女性と、糸杉のような娘の二人組。かつてジャーンシー王宮の図書室で、あるいは謁見の間で、その姿を見かけたことがある。

 ノウラと呼ばれた娘は、女の制止を受けても銃身を離そうとせず、前に行け、という風にリアムの背をつついた。

 果たして茂みの奥にいたのは、予想通り横たえられたラクシュミーの姿だった。

「お久しゅうございます、ハーヴェイ殿」

 ラクシュミーの側に座り込んでいた女は、両手を合わせて頭を下げた。リアムはかけるべき言葉が浮かばず、ただ会釈をした。

 後ろで戸惑っていたノウラは、リアムの名を聞いた瞬間、あっと声を上げて、慌てて銃を下げた。

「申し訳ありません」

「いえ、あなたが謝る必要はありません。当然の対応です」

 か細い声で詫びるノウラを取りなしてから、リアムは覚束ない足取りでラクシュミーの元に近寄ると、膝をついた。

「ラクシュミー……?」

 呼びかけて、秀でた額、髪の生え際、こめかみ、頬と順に確かめるように撫でた。

「……不思議。……あなたって、どこにでも現れるのね……」

「!」

 弱々しい声ながら、しっかりと言葉を紡いだラクシュミーに、こっちの心臓が止まるかと思った。

「リアム……どこ? よく見えないわ」

 宙を彷徨うラクシュミーの手を取って、甲に口づけると、彼女は淡く微笑んだ。最初に出会った十五の頃の屈託のない笑みだった。

「すまなかった」

「あなたは……わたしに謝ってばかりね」

「君を前にすると、無力なんだといつも思い知らされる」

 ジャーンシー併合の時も、降伏を呼びかけた時も、そして今も。常にラクシュミーを助けようと伸ばす手は届かないままに終わるのだ。

「他の……知らない人じゃなくて、あなたで良かった」

 苦しい息の下、上体を起こそうとするラクシュミーを宥めたが、彼女は聞かなかった。諦めて支えてやるとラクシュミーの手が肩を掴んだ。そのまましがみつくように身を寄せて、満足そうに笑う。聞き違いでなければ、ラクシュミーは嬉しい、と囁いた。

 この暑さの中、彼女がかすかに震えていた。無駄だと分かっていても、熱を与えてやりたくて、ラクシュミーを強く抱きしめた。

 腕の中で彼女が身じろぎし、手のひらが肩をなぞり、首に回される。ゆっくりと瞬くラクシュミーの黒い瞳は焦点を結んでいない。だが、夢見るような、幸福に満ちた表情をしていた。

 彼女から別れを紡がれる前に、ラクシュミーの唇を己のそれで塞いだ。耳に痛いほどの静寂に覆われ、束の間、周囲の喧噪も、柵も何もかも彼方へ追いやられた。

「ハーヴェイ殿……」

 遠慮がちにかけられた声に振り向いて、やっと女とノウラの存在を思い出した。

 気がつけば、ラクシュミーは事切れていた。

 リアムは光を失った彼女の瞳を閉じ、なおもしばらく暖かさの残る手を握り続けた。

「ラクシュミー様をどうなさるのですか。まさか首を晒すとか……」

「いえ」

 リアムが首を振った。

「ローズ少将も、ラクシュミー王妃に敬意を払っています。例え、総督府が晒せと言っても無視します」

 リアムの台詞の真意を吟味するかのような間が空き、ふと女の表情が緩んだ。

「ではよろしくお願いいたします」

「タラ・バイ様!? ラクシュミー様を、置いて行かれるのですか?」

 ノウラの抗議に、女――タラ・バイはラクシュミーの顔を見つめて、ぽつぽつと語り始めた。

「ラクシュミー様の功績は、このまま消し去るべきではありません。ですがイギリスに反抗し、潰えたわたくし共に、それを書き記す力などございません。後世にまで遺す術も。……お願いできますでしょうか」

「必ず」

 タラ・バイの望みは最もだった。戦いに破れたラクシュミーは英国人の歴史家によって、悪女の汚名を被せられるだろう。ジャーンシーが辿った運命も何もかも、彼女の因業であると説かれるだろう。そうではないと、詳らかにするのは己の役目だと心得た。

「あなたがたもまた、王妃の人となりを知る、生きた証人です」

 リアムのかけた言葉に、タラ・バイとノウラは顔を見合わせ淡く微笑んだ。最後に二人はラクシュミーの足下に座り込み、まるで額づくかの如く深々と頭を下げた。まだ体温の残っている足の甲に、名残惜しく触れてから、立ち上がる。

 鬱蒼と茂るマンゴーの木々の中に消えてゆく女二人と入れ替わるように、イギリス軍のものだろう、歓声が遠く風に乗って聞こえた。


 ラクシュミーが戦場で命を落としたという報は、瞬く間に両陣営に鳴り渡り、その後の宰相軍の凋落ぶりはいっそ哀れなほどだった。

 宰相ナーナー・ゴーヴィントは二日ほど砦で粘ったが、四方八方をイギリス軍に囲まれる前に撤退を決め、グワーリヤル城前で粘っていた兵たちも見事に霧散した。この戦いでもナーナーとタートヤ・トーペーの両名は姿を消し、捕らえることはできなかった。

 これにはローズも、しぶとさにかけてはラクシュミー王妃よりも上だな、と皮肉な口調で吐き捨てたものだ。

 しかし、インド中央部最大の懸念とされていたジャーンシーの平定がなったことは、総督府の溜飲を下げるのに一役買った。総督府からの伝達には、途中、ナーナーらを取り逃したことや命を無視したことには触れておらず、ローズへの賞賛と労いの言葉が並んでいた。

 戦後処理に負われる最中、ラクシュミーの遺体は、ローズの厳命もあって丁寧に扱われ、ヒンドゥーの慣習に従って荼毘に付すこととなった。 彼女の遺体が焼かれて灰になり、空を覆う様を、リアムはローズと共に神妙に見上げた。

 先のジャーンシー砦での戦いで、王妃の身代わりを演じたジェルカリーは、ジャーンシーの獄中で王妃の訃報を受け取った。牢の中で三日三晩泣き暮らした彼女は、王妃の灰をガンジスに流すため、聖地ヴァラーナシーへの出立を望んだ。

 反乱の首謀者に近しい彼女に、減刑は望むべくもなかったはずだが、ジェルカリーの処刑の記録は、今日に至るまで見つかっていない。ラクシュミー王妃の遺灰と共に、煙のように消え失せてしまったという。

 この戦に関する報告書を作成するにおいて、「最も優秀で、勇敢な指揮官であった」とラクシュミーを称えたローズ少将の表情は、戦友を失った者のそれだった。事実、戦を終えた後のローズはしばらく、どこか心あらずな風情であった。

 リアムはと言えば、グリーワヤルに留まって戦後処理に当たっていた。今度こそ静養のために本国へ戻るローズと、そのつき添いを申し出たリスターと握手を交わし、近い内に再会することを約して別れた。

 さて、グワーリヤル城から消えた宰相ナーナー・ゴーヴィントとタートヤ・トーペー、両者の行方であるが、ナーナーはネパールへ入ったところで消息を絶ち、以降の足取りは不明である。

 ナーナー・ゴーヴィントを匿ったという報告も複数あったが、全て虚偽と判明し、恐らくいずこかで死亡したものと判断された。

 タートヤ・トーペーはグワーリヤルを去った後、ジャイプール近くのシカールでの戦でとうとう捕縛され、一八五九年の四月に絞首刑に処された。彼は最期、絞首台にかかった縄に、自ら進んで首を入れたという。

 これをもって、総督府は反乱の終結を宣言、インド北西部に吹き荒れた反乱の嵐は、速やかに収束していった。

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