38. コタ・キ・サラーエの戦い

 六月十六日の夜。

 総大将ナーナー・ゴーヴィントの命を受け、ラクシュミー・バーイー率いる約千の軍勢が夜陰に紛れ、密やかにグワーリヤルとモラーの中間地点、コタ・キ・サラーエ砦へと移動を開始した。

 細作の報告により、いち早く不穏な動きを察知したローズ軍もまた、麾下のスミス准将の軍を動かし、闇夜の中を粛々と進ませた。

 夜が明けて、太陽が白々と大地を照らし始めた頃合いになると、ターコイズブルーのモザイクタイルも美しいグワーリヤル城が見守る下、それまで影も形もなかった両軍勢が整然と向かい合い、大砲を発射した。


 前線に立つスミス准将より五百ヤード後退した所に、ローズは陣を張り、椅子に座ったまま指揮を取っていた。

 ローズの本陣とスミス准将の陣、そしてコタ・キ・サラーエ砦はちょうど一直線上に存在していた。ただ、コタ・キ・サラーエ砦側が高所にあり、スミス准将の陣を見下ろせるようになっている。

 コタ・キ・サラーエに集まった敵軍の総数は、斥候の報告通りおよそ千。スミス准将率いるのは千五百、と大きな差はない。

 細かい指示はローズ少将の戦ではつき物である。本陣との距離がやや遠いため、いつもより伝令の数が多い。リアムはローズの横に控えて、彼が口頭で飛ばす指示を書き留める右筆になっていた。

 ローズには、道案内は不要ゆえ一度アーグラに戻るかと打診されたが、リアムは固辞した。おそらく、グワーリヤルでの戦いが最後になる。決着するまで留まるつもりだった。

「スミス准将はよく対処してくれている」

 砲の音がひっきりなしに続く中、ローズは満足そうに頷くと、椅子に背を預けた。コタ・キ・サラーエはグワーリヤルに至る街道の要所であり、互いに譲れぬ戦いだった。

 ローズ軍の統率が取れているのはいつものことだが、相手もまた巧妙に応じている。これまでは指揮系統が弱く、側面を突かれると動揺し、後は小隊が別個の判断で動いていたのだが。

 本陣へもたらされる戦況を分析に徹していたローズが、ふと口を開いた。

「王妃の姿が見えんな」

「……ええ」

 事前に放った細作は、グワーリヤル城の壁上でラクシュミーの姿を捕らえている。その際にはブラウスにズボン、白いオダニを被った姿だった。真紅のサリーとは対照に地味な装いだったが、淡い琥珀の肌と黒目がちの明眸に艶を添える涙袋は、ジャーンシー砦でイギリス兵をも魅了した美貌と相違なかった。

 目立つ風貌の彼女を見落とす可能性は低い。彼女を取り巻く女兵士の異端さもまた戦場では浮いている。

「砦の中か、コタ・キ・サラーエ以外におるのか……」

「アーグラからの援軍はまだ到着していません。グワーリヤル城内にいるとは考えにくいのですが」

 普通の女性なら砦の中で守られていても何の違和感もないのだが、ラクシュミーとなると話は別だ。少数の手勢でローズ軍の不意を突こうとしている、と考えるほうが彼女らしいだろう。

 にわかに、歓声が聞こえリアムは前方に目を向けた。ややあって、伝令がやってきて、興奮気味に叫んだ。

「第九十五連隊が反乱軍の砲を襲撃、沈黙させました!」

「よし」

「更に、ラクシュミー王妃が出撃し、第八騎兵隊が交戦中です!」

「スミス准将に、王妃は必ず生け捕りにせよと伝えろ」

 はっ、と敬礼した伝令を、ローズが引き留めた。

「ハーヴェイが行け」

「ですが……」

「この時のために来たのであろうが! ぐずぐずするな!」

 ローズの一喝を受けて、リアムは敬礼もそこそこに鞍に跨がった。素早く鞭を入れ、スミス准将の元へ向かう。

 砂を含んだ平原を、馬の蹄と軍靴が抉る。蒼穹は、舞い上がった黄塵にまみれてその色を濁らせた。

 裂帛の気合いと共に振り下ろされるタルワー刀に切り裂かれ、大地を血を染める兵がいれば、渾身の気勢を張り上げて突き出された銃剣に貫かれ、天を仰いで絶命する兵がいる。

 戦は大砲の撃ち合いの中、横列した騎兵が突撃し、スミス准将の軍が呼応する形となった。

 敵味方入り交じる空間において、近代兵器など物の役にも立たない。下手をすれば味方を吹っ飛ばしかねなかった。

 まるで中世に逆戻りしたかのような、単純な力のぶつかり合いに戦略性など皆無だが、それが却って両者の進退を賭けた決戦に相応しい。

 スミス准将の姿を探して馬首をめぐらしていると、騎馬のぶつかり合う戦場の中心、ワルター刀を掲げた人物に目を合わせ――息を飲んだ。

 白のオダニを被り、真珠のネックレスを身につけた将は、見事な黒駒を操る。腕に填めた金のバングルが、太陽の下で光暈を生み出す様は本物の女神だった。

 向こうもリアムの姿に気づいたのか、あっ、とわずかに開いた紅唇から声がこぼれたように聞こえたが、それはリアム自身のものだったかもしれない。

 意識が逸れた、その一瞬。

 パン、といつもなら気にも止めない小銃の発砲音を捉えた。鉛の弾が火花と共に打ち出され、銀の軌跡を描く様を、不思議と具に視認した。

 弾は吸い込まれるように、ラクシュミーの左胸に至り、ぱっと鮮血の花が咲いた。

「――!」

 女の悲鳴が響き渡った。すかさず、ラクシュミーを守るように飛び出したサリー姿の女が、馬上で銃を構えたが、更なる発砲の前に体勢を崩して反撃には至らなかった。

 ラクシュミーとその側近を撃ったのは、スミス准将麾下の第八騎兵隊の放った銃弾だった。ラクシュミーは落馬し、血を流した凄惨な姿のまま、馬上の兵と刃を交わし、斬り伏せる。

「いたぞ! ラクシュミー王妃だ!」

「ラクシュミー王妃をお守りしろ! イギリスを滅ぼせ!」

 第八騎兵隊の一人が声高に叫ぶのに周囲がおう、と応えるのと、悲鳴のような高い女の声が、タルワー刀を掲げた男たちを鼓舞するのが同時だった。

 王妃には指一本触れさせまいと、屈強なラージプート兵が第八騎兵隊の突撃を食い止めるために、体ごとぶち当たっていく。その内の数騎が、リアムを狙って駆けてくるのを見て、とっさにカービン銃の引き金に指をかけた。

 一人は肩を撃ち抜いて落馬させたが、剣を掲げて立ち向かってくる。もう一人は腕を掠めたがびくともしなかった。相手が複数なのは分が悪い。リアムは素早く後退を決めた。

「逃がすか!」

 彼らが飛び道具を持っていないことが幸いした。第八騎兵隊の背後に回り込んだところで、パンっという発砲音と共に悲鳴が上がり、とっさに後ろを振り向く。追ってきた男が撃たれて、落馬するのが目に入った。

(私も悪運が強いらしいな……)

 馬の首を返して、敵をしとめた人物に目を向ける。

「スミス准将」

 見覚えのある顔に、馬上からだが丁寧に頭を下げると、准将は礼は要らぬと言わんばかりに手を振った。

「無事で何よりだ。ハーヴェイ殿、ローズ少将に報告を頼む、かの悪名高き王妃を討ったとな!」

 晴れやかに言い切ったスミス准将は、王妃の遺体を挙げよ、と部下に檄を飛ばした。

 ローズは首魁の宰相のナーナーや軍の司令官タートヤ・トーペーより、ラクシュミーの存在を脅威としていた。ラクシュミーさえ捕まえることができれば、軍は瓦解するとまで言い切った。

 現に、ラクシュミーの姿が見当たらないだけで、兵たちは蒼白になり、敗走し始めている。王妃率いる精鋭ですらこの有様、雑兵などは言うに及ばず、である。精彩を欠いた敵軍の隙を見逃さず、スミス准将が追撃をかけると、相手は武器を捨てて潰走した。

 この勢いでグリーワヤル城へと攻め上がろうとするスミス隊の中にいたリアムは、その視界の端に、戦場を覆う砂塵に紛れて逃げる兵の姿が見えた、気がした。

 しばらくその場に留まって、戦場の様子を探っていると、おそらく脱走兵だろう、兵二人に両隣から支えられ、それでも歩みを止めない小柄な人影があった――足を引きずっていても、歩き方で分かった。

 その三名がコタ・キ・サラーエ砦へ向かう街道を逸れ、森へと入り込んだのを見たリアムは反射的に後を追った。

「ハーヴェイ殿!」

 スミス准将の制止は、リアムの耳に届かなかった。何かに急かされるように、リアムもまた森の中へと足を踏み入れた。

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