31. 我が唯一の望み

 城門から真っ先に出てきた男は、松明を掲げた部下を数名従えていた。彼はリアムとリスターを鋭く目線を送って「ジャーンシー軍を預かるヴィクラム・ハーンだ」と、腰に帯びた剣の柄に手を添えながら告げた。

「イギリス軍の使者とはお前たちか」

 馬を降りたリアムとリスターは男――ヴィクラムに向き直る。

「そうです。ローズ将軍の言葉を伝えに参りました。王妃にお会いできますか?」

 リアムの念押しに、ヴィクラムは頷く。

「馬と武器は我々が預かる。アラーの神と王妃の名にかけて、必ず返すと約束しよう」

 断固としてヴィクラムは告げる。リアムがリスターに彼の言葉を伝えると、二人して馬の手綱を兵に預けた。それを見届けてから、ヴィクラムは着いてくるように、と背を向けた。

 城への道は五年前に足繁く通っていた時と変わらない。一歩一歩確かめるように足を進める、その石畳の形すら見覚えがあった。

 内謁殿ディーワーネ・カースにたどり着いた二人を迎えたのは、ずらりと居並ぶジャーンシーの廷臣と兵士の姿。最も奥まった玉座の前はパルダーで仕切られていた。

「ようこそおいでくださいました、お二方」

 凜としたクイーンズ・イングリッシュは、パルダーの奥から聞こえた。

「ジャーンシー王妃ラクシュミーです。ローズ将軍閣下のお言葉を伝えにいらしたとか」

「その通りです。まず、面会をご承諾頂きましたことに感謝申し上げます」

「貴軍に煮え湯を飲まされている我が軍に、たった二人でやって来られた勇気は尊敬に値します。会談はその証、とお考えください」

 リアムがマラーティに切り替えたのにラクシュミーも合わせた。

「この期に及んで何を伝えることがありますか? 降伏ですか」

「はい。ここで剣を収めて頂ければ廷臣以下、兵士の命も保障しましょう。王妃には申し訳ないが、ジャーンシーにはもう手立てはありません。街道は封鎖しており、補給路も絶っている。このままでは兵達を飢えさせるだけです。ジャーンシー城を解放し、降伏なさったほうが賢明と存じます」

 パルダー越しにラクシュミーは見ているはずだ。真っ直ぐ前を見据えてリアムは告げた。

「……それでも最期まで戦う、と申し上げたらどうなりますか?」

 ラクシュミーの返答は想定内だ。己の罪の減刑より、戦場で散ると決めているに違いない。彼女の矜持が、逃げることを許さない。折れるまで走り続ける。

「ここに」

 リアムは懐から書状を取り出す。

「ローズ将軍直々のお言葉がございます。ですが、王妃ただ一人のみに伝えよとの厳命を頂いております。故に、人払いをお願いしたいのですが」

 再び謁見の間はざわめきに満たされる。

「冗談ではない!」

 声を荒らげたのはリアム達をここまで導いたヴィクラムだ。彼はラクシュミーの傍近く、宰相ラクスマン・ラーオの隣に立っており、王妃の信頼を得ているようだった。

「さっきから聞いておれば、そちらの一方的な言い分ばかりだ! 貴様の発言はジャーンシーを攪乱させるだけだ。そもそも……」

「口を慎みなさい、ヴィクラム・ハーン」

 ラクシュミーの声は穏やかながら、威厳に満ちていた。

「ヴィクラム、あなたには伝えてなかったけれど、わたしたちには彼への恩があります。そうでしょう、宰相?」

 話を振られたラクスマン・ラーオは、廷臣を眺めてから頷く。

「ええ、ええ。その通りでございます」

 かつて失権政策反対に協力してもらったのだ、と簡潔に経緯を説明した後、ラクシュミーはため息を吐いた。

「結果は、我々の望むものではありませんでした。けれどわたしは、総督府と違って、恥知らずではありたくないのです」

 きっぱりと断言するラクシュミーに、リアムはため息を吐きそうになり、慌てて堪えた。声の調子だけでも分かる。彼女は憤っている。

「彼と二人きりにしてください。ローズ閣下の真意を知りたいわ」

 王妃の言葉は彼らにとって絶対となっているようだった。ヴィクラムを始め、戸惑いながらも反対の空気が薄れてゆく。

「……入り口近くに兵を置くことには文句を言わんな?」

 ヴィクラムの台詞はリアムに向けられたものだ。

「もちろんです。王妃殿下を害するつもりはありません」

 実際丸腰なのだ。素手で殺害を試みたところで、城の奥深くから無事に出られるはずもない。ふと思いついて、リアムはつけ加える。

「隣の彼はローズ将軍の副官で、本国では伯爵家の子息です。不安なら、王妃との面会中、人質にでも取りますか?」

「まさか我が王妃の言葉を疑うまい。馬鹿にするな」

 憤然と言い返したヴィクラムは、さっさと謁見の間を出て行く。それを皮切りに、他の廷臣達も躊躇いつつその場を辞した。

「リスター殿、すまないがあなたにも席を外してもらいたい」

 涼しい顔で事の成り行きを見守っていたリスターに目を向ける。彼は交渉をリアムに任せる、というローズの文言に忠実だった。わずかに口端を持ち上げて、頷いた。

 続々と間から人が減ってゆき、最後に、パルダーの内側から二人の女が出てきた。一人はすらりと背の高い糸杉のような娘、もう一人はふくよかな年配の女で、二人はサリーで顔を隠しつつ、リアムに軽く一礼して姿を消した。

 人気のない謁見の間は広く、うら淋しい。かつて、リアムがここを訪れた時には、金銀や花々で飾られた華やかな空間だったのに、今は剥きだしの石の壁が佇むばかりだ。

 ラクシュミーやヴィクラムの勇ましい台詞とは裏腹に、長引く戦に苦しんでいる実情が手に取るように分かった。

「やっぱり、あなただったのね」

 長い沈黙の後、先に口を開いたのはラクシュミーだった。

「私がローズ閣下の元にいた事、お気づきでしたか」

「そりゃあ、筆跡を見ればね」そこでため息を一つ吐き、「見間違いであれば良いと、願っていたけれど」

「裏切り者だと蔑んでもらっても結構ですよ」

「馬鹿ね。あなたはイギリス人としての義務を果たした。それだけのことよ」

 ラクシュミーは割り切った台詞を吐いたが、声には棘があった。やにわに衣擦れの音がして、パルダーの隙間から小さな手が出てきた。そのまま絹布の仕切りを払いのけ、姿を現したラクシュミーは、真紅のサリーをまとっていた。

 金の蓮花の刺繍も鮮やかな一枚は、インドの職人技術の結晶だ。殺風景な謁見の間が、彼女の存在で色づく。彼女の華やかな装いを見たのは、ずいぶんと久しぶりだった。

 ラクシュミーは無造作に腰に手を当てると、でもね、と口火を切った。

「わたしはずっと敵対の意志はないと伝えていたのよ! アースキン大佐は何をしていたの? ハミルトン卿にしたって、ちっとも役に立ってくれないわ! 総督府は相変わらず頑固でどうしようもないのね!」

 アースキンもハミルトンも、リアムにとっては相当見上げねばならぬ存在だったが、ラクシュミーにかかると、皆聞き分けのない弟のようだ。頬を膨らませて憤る姿は、初めて会った少女の頃を彷彿とさせた。

「あなたも、相変わらずのようで……」

 リアムは笑いを堪えながらそう返すのがやっとだった。ラクシュミーはきっと眉を釣り上げて、つかつかと距離を詰めた。

「ミスター・ハーヴェイ! よくもまあ、暢気に笑えるわね。冗談じゃないわよ!」

 ラクシュミーの怒りは良く分かる。――全く、冗談ではない。

「それで、ローズ少将直々にわたしに伝えたいことって何かしら」

「降伏せねば殲滅する、だそうです」

 リアムの台詞の続きを待って、ラクシュミーは構えていたが、しばらく経っても青年が口を閉ざしたままなのを見て、首を傾げた。

「……それだけ?」

「総督府は絞首台送りにすると息巻いています」

 ラクシュミーは大きく胸を上下させた。ややあって、そうなの、と落胆の色を見せたが、一瞬だった。

 もっと動揺するかと身構えていたリアムだったが、ラクシュミーの表情は穏やかと言っても良かった。

「ラクシュミー王妃」

 リアムは姿勢を正し、呼びかけた。女王に対する最大限の敬意を持って。

「ジャーンシーを手放してもらえませんか。次こそは総督府を説き伏せます。あなたを絞首台送りになどさせない。もう一度機会を――」

「次は、左遷じゃ済まないわよ」

 リアムの台詞を遮って、ラクシュミーは呟いた。らしくもなく俯く彼女の手を、そっと取った。

「構いません。あなたが生きているなら、それでいい」

 一瞬、ラクシュミーの手が震えた。リアムが握る力を強める前に、するりと彼女は手を引いた。

「結構だわ。ジャーンシーはあなたたちの敵になったのね」

「まだ、覆す余地はあります!」

 全てを悟ったかのようなラクシュミーの顔を見るのは嫌だった。強い口調でリアムが言い募ると、ラクシュミーが目を丸くした。

「ずっと悔いてきました。私があなたをここまで追い詰めたのだ、と」

 ジャーンシーの併合反対に協力したのは、総督府の強引なやり方への反発もあったが、何より彼女が悲しみに打ちひしがれないよう、立ち上がるきっかけになればと思ったからこそ。あの時点での最善の方法だったと、今でも信じている。

 ただ、力が及ばなかった。もし、最初からラクシュミーに諦めろと諭していれば、請願の協力などしなければ。彼女がここまでジャーンシーに拘ることはなかったかもしれない。

「ローズ少将に伝えて」

 リアムの悔恨の言葉を、ラクシュミーは取り合わなかった。おもむろに顔を上げる彼女の、怒りに滲んだ黒い瞳を目の当たりにする。

「わたしたちは屈しないわ。戦場で勝利の果実をもぎ取るか、朽ちぬ栄光と救いの下に散るか。そのどちらかしか道はない」

 それは、最初の降伏勧告に送り返してきた文面と同じ、はっきりとした拒絶の言葉だった。

「……わたしが義務を放り出すわけにはいかないのよ」

 取りなすようにラクシュミーは苦笑し、肩をすくめた。口調はおどけていたが、わずかに揺らいだ視線に彼女の本音が垣間見えた。

「お願い、わたしを救おうなどとしないで。王妃のままでいさせて……最期まで」

 ラクシュミーが囁き、会談は終わりだというように軽く手を振った。臣下らを呼び戻そうと背を向ける彼女を呼び止めた。

「私には、あなたが必要です」

 ラクシュミーは振り向かなかった。それどころか、微動だにしなかった。

「必要なんです」

 畳みかけても、彼女は応じなかった。

「ミスター・ハーヴェイ、ローズ閣下への伝言をお忘れなく」

 ラクシュミーは背を向けたまま、それだけを呟くとパルダーの内側に消えた。リアムは王妃に丁寧な一礼をしてから謁見の間を辞した。

 布で仕切った入り口にはずらりと兵と廷臣が居並び、リアムが出てくると一斉に視線が集まった。

「ハーヴェイ殿、王妃殿下は」

 丸顔の宰相が謁見の間を覗く。

「ローズ閣下のお言葉を呑んでは頂けませんでした。我々は戻ります」

 リアムの台詞に、ヴィクラムはゆっくりと剣を引き抜く。にわかに殺気が膨れ上がるのが分かった。リアムはその様子を具に見ながら、不思議と落ち着いていた。

「……生きて帰れると思っているのか?」

「やめなさい、ヴィクラム・ハーン!」

 リアムが口を開くより早く、パルダー内にいたラクシュミーが鋭く制止した。

「使者を殺しても、悪戯に敵意を煽るだけです。ジャーンシーの誇りをも汚すわ」

 王妃の命にヴィクラムが剣を納める。リアムはラクシュミーに黙礼を返すと、リスターを促してジャーンシーの宮殿を後にした。

 市外にある本陣まで戻ると、常のようにローズが煙草をふかしていた。

「どうだった?」

「見事にふられました」

 成果は全くなかったが、妙に清々しかった。彼女を止めるには、言葉では足りなかった。後はもう、彼女の信念が砕けて折れるまで追い続けるしかない。

「致し方あるまいな。女の心を掴むのは、勝機を得るより難しい」

 ローズはゆっくりと立ち上がり、煙を吸う。

「明日の明朝、ジャーンシー城を攻撃する。諸将軍は既に待機済だ。ハーヴェイ、リスター共に儂に随行せよ」

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