26. 蓮華の衣
一八五八年三月二十日、一通の通達がジャーンシー王妃ラクシュミー・バーイーの元に届いた。
インド中央野戦部隊率いるヒュー・ローズ少将からの、降伏を呼びかける手紙である。
ジャーンシーの二十キロ先にイギリス軍の姿を捉えた城下は、目の前の災禍に備えていっそう静まり返ったようにラクシュミーは感じた。
昨年末から中央部を平定を目的としたローズ軍が、次々と反乱軍を破っていること、彼の軍がジャーンシーに迫りつつあったことは、既に彼女も把握していた。
「王妃殿下の手紙は届いていなかったようですな」
ラクスマン・ラーオは、ローズの署名入りの手紙を卓上に戻すと、無念そうに肩を落とした。
「届いていても、無視されたのかもしれないわね……」
ラクシュミーは砲の増強や備蓄の準備を進めていたが、これはオルチャへの牽制のためで、対イギリスを想定していたわけではなかった。
「とにかく今は、ローズ少将の軍勢をどうするのかが先決です」
宰相が不安に揺れながらも進言し、ラクシュミーは小さく唸る。
ジャーンシー軍は、正規軍と近隣領主兵、傭兵として中央部のラージプート族を雇い、総勢で一万四千。その大半が、古来伝統の婉曲した
(イギリス軍は千五百。でも武器は最新式、兵は精鋭ばかり。……困ったわね)
昨年十月から始まったオルチャやダチアとの戦を、ラクシュミーはただ眺めていただけではない。
サリーを脱ぎ捨ててイギリス風の乗馬服に身を包み、頭にターバンを巻いた男装姿で兵を率いた。自ら剣を振るい、戦場を駆けるのは、己の性にも合っていた。
ただ、領主軍に勝利して宝物や糧食を徴収しても、一時しのぎに過ぎなかった。ラクシュミーの
それでも、ラクシュミーの意気も民の熱意も挫けてはいない。
「イギリス軍は勝ち戦が続いていますが、流石に気力体力ともに限界でしょう。砦で長期戦に持ち込み、イギリスの疲弊を待ってはいかがでしょう?」
ラクスマン・ラーオの提案に、ラクシュミーは頷けなかった。
「待つだけでは、到底勝てないわ。イギリスはその気になれば幾らでも増援を呼べる。もし補給路を絶たれたら終わりよ。長引けば近隣住民が戦を嫌がって、イギリスに味方するかもしれない」
反乱の主要地たるデリーやカーンプル、アワドは既に会社軍に鎮圧されている。周辺の小勢などはイギリスの優勢を認め、早々に静観を決め込んでいる。あまつさえ、イギリス軍に積極的に兵を貸している国すらある。
「いかにイギリスの兵器が最新鋭であろうと、城塞を崩すことは並大抵ではないでしょう。ジャーンシー軍の兵の技量も士気も、彼らに劣るとは思いません。そうでしょう、ヴィクラム・ハーン?」
ラクシュミーはジャーンシー軍の司令官を務める男の名を呼ぶ。
ヴィクラムは、スィパーヒーが去った後、残った城兵や領主兵、義民兵、傭兵というばらばらな勢力をまとめ上げるのに一役買った。その手腕を認めて司令官の地位を授けたのだが、彼は軍略に明るいほうではなかった。ラクスマン・ラーオも同様で、廷臣をまとめ上げることはお手の物だが、戦略戦術は不得手だ。
お陰で、ラクシュミーが知恵を絞り出すしかなかった。自信のなさでは彼らと変わらないが、王妃として皆を率いる以上、避けては通れまい。
「はい、ラクシュミー王妃殿下。個々の兵の強さはイギリスの比ではありません。ですが、少々扱い辛い面もございます」
ジャーンシー軍は寄せ集めの軍団で、同カースト同士ならともかく、ジャーンシー内外から集った義民兵とラージプート族傭兵の間は未だにぎくしゃくしている。
ヴィクラムの嘆きは最もだが、それを何とかするのが彼の役目ではないのか、と苛立たしくもある。
「町の外壁の南から西にかけて、兵を寄せなさい」
ジャーンシーは、バングラの丘に建つ城を中心に街が円形に広がり、その街を囲む外壁がある。ラクシュミーの発言に、ラクスマン・ラーオとヴィクラム・ハーンは目を見張った。
「外壁の門は左右にございます。兵を薄くすれば敵の思う壺ではありませんか?」
「もしわたしが、千五百で城を攻略するとして……きっと、兵力を分散させたりはしないわね」
街への出入りは東西の門のみでしかできない。逆に言えば、この門さえ抑えれば、街の制圧は容易となる。
ジャーンシーの東側は、険しい岩山が連なる狭隘な道だ。さすがの英軍も、ここから攻めるのは難しいだろう。畢竟、西門さえ死守できれば良い。
「宰相は手薄と言うけれど、イギリス軍より多く兵を割けるわ。十分、対処できるはずよ。布陣はヴィクラム・ハーンに任せます。後ほど報告を」
「畏まりました」
王妃の命を受けたヴィクラムは、プラーナムの礼を取ると謁見の間を辞した。
ひとまず方針が決まったことに息を吐いたラクシュミーに、ラクスマン・ラーオが表情を曇らせた。
「もしやと思っていましたが、本当にジャーンシーを攻め落とすつもりのようですな」
「そうね……」
先のダチア・オルチャとの戦中も、英軍駐屯地のひとつであるサーガルに援助要請を送り続け、ジャーンシーは敵ではないと示していた。今年の一月には、アースキン大佐の上役にあたるハミルトン卿に、ジャーンシーの状況を手紙に認めた。にもかかわらず、ローズの軍勢が目の前にある現状に、ラクシュミーは唇を噛んだ。
「こうなっては仕方がないわ。あなた、眠れてないんじゃなくて? 顔色が良くないもの」
「王妃殿下こそ」
「あら、わたしは大丈夫よ」
軽く微笑んだラクシュミーに、ラクスマン・ラーオは穏やかに目を和ませた。
彼の微笑みに触発されて、父モロパントや養父バージー・ラーオ二世のことを思い出して、鼻の奥がつんとした。
もう何年も消息が届いていないが、カーンプルの戦でナーナーがマラーター宰相を名乗っているということはつまり、バージー・ラーオ二世はもうこの世にはいないだろう。実父の行方に関しては、探りようもなかった。
「ローズ少将への返書は廷臣たちの意見を聞いてからにします」
宰相は承諾の意を込めてラクシュミーの足塵を拝し、謁見の間を後にした。
「ラクシュミー様、お祈りの時間です」
ラクスマン・ラーオと入れ替わりにやってきたタラを従えて、ラクシュミーは城を出て、
いつもなら軽く身体を拭ってサリーに改めるのだが、タラは珍しくラクシュミーを浴室に導いた。
そこには既に数名の侍女が控えており、一抱えほどある陶器にはなみなみと湯が満たされていた。
「こんな時に湯浴みなんて……」
ただでさえ、湯を使うことなど滅多にないのに。タラはラクシュミーの抗議を無視し、絹のブラウスのボタンに手をかけた。
「導師様のお言葉を戴くのですから、身綺麗になさいませんと。それに、一軍の総大将が見窄らしい格好でうろついてはなりません」
「でも……」
ラクシュミーが口を尖らせている間にも、侍女がオダニを外し、髪を解いてゆく。久しぶりに解いた黒髪は、緩やかに波を打ってラクシュミーの明るい琥珀の肌を滑り落ち、背を覆い隠した。
逃げようにも三人の侍女に囲まれ、タラが見守っている。流石のラクシュミーも、肌を出したまま逃げる勇気はない。諦めて女たちに任せた。 腰巻き一枚の姿で床に座らされ、侍女の一人が髪を洗い、別の侍女が手桶で背中に湯をかける。
こんなに丹念に磨かれたのは婚礼の前日以来だ。立ち上る湯気の軌跡を目で追いながら、ラクシュミーは懐古する。十五歳のラクシュミーも、こうして浴室に放り込まれ、されるがままになっていた。
嫁家でやっていけるのか、夫とは上手くいくのか、そもそもどんな人なのか、自分の義務とは何なのか、答えのない不安を幾つも抱えていた。
(わたしは……義務をきちんと果たせているのかしら)
誰への問いかけなのか、分からなかった。強いて挙げるなら最も祈りを捧げ、己の名ともなったラクシュミー女神だろうか。
ラクシュミーは、常に義務を果たすためだけに動いてきた。その結果としての戦ならば、受け止めて勝ちを得なければならない、と決意を固める反面、迷ってもいた。
この流れのままイギリスに敵対するだけが道ではない。和睦を結び、時期を伺うという手もある。
ラクシュミーの存在は、最早ジャーンシーの命運そのものと化している。迂闊な判断を下したくなかった。
返書に躊躇ったのは、それが一因でもある。だが、何よりも――
髪をぎゅっと絞られ、頭皮がひきつる痛みに、思考が遮られた。顔を顰めるラクシュミーを横目に、女たちは忠実に仕事をこなす。
渇いた布で肌を拭き上げ、薔薇の香油を塗り込む。髪には柑橘の香りのする椰子油を馴染ませ、梳る。唇に紅を差すと、疲労の滲んだ顔が少し明るく映る。
タラが新しい翡翠色の
蝋燭の明かりの中、光を弾く艶やかな衣は忘れようもない、ラクシュミーの婚礼衣装だった。
未亡人に派手な装いは必要ない。他のサリーや宝飾類と共に、とうに売り払ったものと思っていた。時間が遡行したような感覚に襲われ、ラクシュミーはしばし立ち尽くした。
「今のあなた様に相応しいと思います」
タラの目は夜そのもののような、静かな色をしていた。
ラクシュミー女神は蓮華色の肌をし、蓮華の衣装をまとった富と幸運の女神。国が危機に晒されているというのに、迷ってばかりの己が、女神と同じ蓮華の衣に相応しい?
「……タラって、相変わらず意地が悪いのね」
長年、ネワルカー家に仕えている女官長は、ゆっくりと顔を綻ばせた。彼女はとうにラクシュミーの迷いを見抜いていた。その上で忠告しているのだ――己の
「大丈夫よ」
衣装を受け取って、ラクシュミーは頷いた。
「大丈夫だから」
サリーをまとったラクシュミーは
いつもより長い祈りを終えたラクシュミーは、廷臣たちに諮る前にジャーンシーの街を眺めたくなり、城の露台へと向かった。
洗い立ての肌に、吹きつける風がくすぐったい。オダニを手で押さえながら、ラクシュミーのサリーと同じく真っ赤に染まった街並みに目線を落とす。
やがて、懐に忍ばせていたローズ少将からの通達を開き、降伏せねば殲滅するという簡潔な文面を何度も見返す。ラクシュミーが引っかかっているのは、その内容ではなかった。
最後の署名こそ見慣れぬ英語の手跡だが、本文は別人が記したペルシャ語だ。この筆跡を、ラクシュミーは知っている。
書面に散りばめられた既視感をひとつひとつ確かめるように、指先で文字を撫でる。
「リアム、あなた……近くにいるの?」
イギリス軍が待機しているであろう方向を眺め、呟く。
「わたしは、あなたとも戦わなければならないの?」
突然、目の前が真っ暗になった気がした。
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