15. 赤い城の傀儡
ムガル帝国の首都、デリーにある
皇帝バハードゥル・シャー二世の住まう場所にして、権勢の象徴たるこの城は、シャージャハーン帝によって建てられ、二百年あまり鎮座している。ジャーンシー城もまた同年代に建てられたものだが、その規模や偉容は流石に段違いである。
この広大な居城が完成した時、ムガル皇帝はまさに権力の絶頂にあった。宝石をちりばめた銀の玉座に『もし、地上に天国ありとせば、そはここなり』と金で文字を刻み、繁栄の証拠を今日に残している。
かつてはインド亜大陸全体を睥睨していた皇帝が、今や見ることを許されているのは、城そのものとデリー市内のみだった。
ジャーンシー勤務を解かれたリアムは、フォート・ウィリアム内の事務仕事に回された。本来ならヘイリーベリー卒業後の語学試験をパスできない社員に任せられるもので、見習いの扱いである。
役員会の推薦を得て、例外的に外地任務を与えられたリアムにとって、この処置は出世コースから外したという上からの宣言に他ならないが、不満は感じなかった。
ラクシュミーに協力したことを後悔してはいない。会社も汚名を返上する機会を残してくれている。元のように外地任務に戻るには何年、あるいは何十年とかかるかもしれないが、五年間のジャーンシー勤務の経験は決して無駄にはならないだろう。
今回デリーにやってきたのは、バハードゥル・シャー二世帝の要望書に対する返書を届けるためである。電信で済むような内容ではあるが、皇帝側にとっては使者が訪ねることが最低限の礼儀であり、ムガル帝国の主たる己を誇示するのに必要であるらしい。
年々、こうした些細で実用性のない要求が増えてきている。茶番であることは重々承知で、総督府は返書の使者を立てることにした、というわけだ。
リアムの役目は、デリーの宮殿に住まう政務官フレイザーに手紙を届ける、それだけだ。見習いに相応しい、単純な仕事であった。
宮殿に到着したリアムは早速、フレイザーに取り次ぎを願う。大仰かつ緩慢な態度の侍従は、リアムの用件を聞くと「しばしお待ちを」と淡泊な口調で告げて去った。
「ご苦労だったな、ハーヴェイ」
待たされること三十分。デリー駐在官のフレイザーは、軍の正装でリアムを出迎えた。
「君か。上層部に楯突いた新入社員というのは」
「お恥ずかしい話です」
内心ではかけらたりとも恥じていなかったが、しおらしい風情を装った。フレイザーは愉快そうに笑う。
「ダルフージ閣下は大変有能でいらっしゃる。この数年でイギリスの領地は格段に増え、女王陛下を喜ばせるに十分すぎる成果を挙げられた。さすがの
フレイザーは、一筋縄でいく人物ではなさそうだ。そうでもなければデリーに派遣などされないだろうが。
「お陰で藩王国からの陳情が絶えんと聞く。役員会も難儀なことだ」
フレイザーはため息を吐き、同情する様子を見せたが、内心ではかけらたりともそう思っていないのだろうな、とリアムは苦笑した。
「ついでだ。ハーヴェイも皇帝陛下の謁見についてきたまえ」
えっ、と突然のことに声を上げた。手紙を届けるだけだと思い、何の準備もしていない。制服の規定はないため、概ねジャケット姿ではあるが、貴人と対面するような格好ではない。やんわりと拒絶の意を伝えてみたが、「構わんだろう」とフレイザーは取り合わない。
「偉大なるバハードゥル・シャー二世帝におかれては、少しでも傅く人間が多いほうがお喜びになる」
リアムの逡巡をあっさりと切り捨てると、フレイザーはその足で宰相の元を訪い、皇帝への拝謁を願い出た。
更に何十分と待たされた上、もったいつけた仕草で奏上の許しを得た二人は、
敷かれた赤絨毯の先、諸官を見渡せるよう作られた高い壇上に、大理石の玉座があった。
玉座に鎮座する老人は金銀刺繍の豪華な上衣をまとっていたが、その重みに耐えているかのように背中を屈めている。細く枯れた指がせわしなく動き、その度に指輪に填められた宝玉が、ちかちかと反射してリアムの目を刺激した。
これが、ムガル帝国の皇帝なのか、と玉座の人物に改めて目を向ける。正直なところ、拍子抜けだった。
曲がりなりにもインド最大の帝国を築いた王の末裔だとは、とても思えない。この老帝よりも、一地方の藩王国に過ぎないジャーンシー王のほうが、まだ王族に相応しい風格を備えていたものだ。
権力の椅子の上で、贅を凝らした衣装をもてあまし、縮こまる御年八十一の老帝は、落ち着きのない様子で目線を彷徨わせていた。
「ご機嫌うるわしゅうございます、
フレイザーは丁寧に臣下の礼を執ったが、略式だ。ヴィクトリア女王より格下であると暗に告げている。
うむ、と当人は重々しく頷いたつもりなのだろうが、覇気のなさは隠しようもない。
「フレイザー殿、よう参られた。余への返書が届いたと聞くが、その者か?」
ちら、とリアムを見る皇帝の顔を、長く直視できなかった。権威に慄いた訳では決してない。ただ、心苦しかったのだ。色の濁った目はどこか、深淵に似ていた。
「ええ。我が社の有望な若者です。この機に是非とも皇帝陛下にお目もじつかまつりたいと申しまして」
フレイザーはしゃあしゃあと言い放ち、微笑む。
時が淀んだ宮殿に暮らし、死の淵近い皇帝に相対していて、彼は気が触れたりはしないのだろうか。
フレイザーがリアムを促すので、彼に倣って略式の礼を取る。ハバードゥル・シャー二世の、空虚な頷きが頭上に降ってくる。
「そなたも我が臣として、励むがよい」
アジアの王は気位が高く、下々と言葉を交わすことは滅多にないと聞く。王の言葉そのものが報償に等しいというが、生憎リアムは不確かな権威よりも契約と法律に忠義を捧げている。
下手な言質を取られるよりは黙っていたほうが良いだろう、と無言で頭を下げるに止めた。
リアムがフレイザーに書簡を渡し、更に数名の従僕の手を介し、最終的には皇帝の側に控えた寵臣ハキームの手元へ届けられた。
ハキームが返書を開き、その内容を皇帝に耳打ちし、皇帝が何事かを返す。ハキームが大きく頷き、フレイザーに向き直る。
「度量衡と貨幣の復活はならぬのか、との仰せです」
「皇帝陛下の御心に添えず申し訳ございません。なれどこれも陛下の玉体を案じてのこと。煩雑な政のことは、我が社にお任せください」
白大理石の荘厳な
彼のその発言も、声の調子にも老齢の皇帝への気遣いに溢れているが、実質何もするなと告げている。
リアムは内心ひやりとしながら、居並ぶ家臣たちの表情を伺ったが、彼らの顔には怒りも悲しみも見受けられない。それどころか、フレイザーのこともリアムのことも、目に入っていないかのようだった。
プラッシーの戦いで東インド会社の得たベンガルの徴税権。これがインド亜大陸支配の第一歩だった。皇帝の庇護の下、ありとあらゆる利権もその領土も取り上げた商社は今や、皇帝の権威すらもはぎ取ろうとしている。
後継者すら自由に指名できない皇帝に、度量衡や貨幣といった大権を許すはずもないのだが、なおも要求し続けているのは、ただ権威を堅持したいがための、悪足掻きなのだろう。
「……
「他意はございません。年金の増額は陛下の静穏を乱さぬための処置にございます。印と文面に関しましては、近く総督の交代がありましたので、引き継ぎに問題があったのでしょう。急ぎ解決いたします」
些細な、あまりに些細な要求を突きつける皇帝に、フレイザーは穏やかに微笑みながら相槌を打つ。
要求が出尽くしたところで皇帝が大儀そうに欠伸をこぼし「余は疲れた」とささやいたことで、謁見はお開きになった。
ハキームにつき添われた皇帝が退出するのに続いて、ぞろぞろと廷臣たちも姿を消した。
フレイザーに促され、公謁殿を退出したリアムの胸の中には、後味の悪さだけが残った。振り解いたはずの蜘蛛の糸が、なおも絡みついているような、正体のない居心地の悪さが。
「最も権威あるインド皇帝の姿は、君の目にどう映る?」
フレイザーが後ろ手を組んで回廊を渡る。その数歩後ろに控えたリアムは、しばしフレイザーの背を見据えた。
「……虚しいですね」
言葉を探したが、それしか出てこなかった。フレイザーは振り返り、そうだな、とわずかに口角を引き上げた。つと、宮殿に目を向け、眩しそうに細めた。赤砂岩の城を太陽が焦がし、陽炎が立ち上る。
「我々はあの老帝の死を待っている」
はっとして、リアムはフレイザーに目線を送った。宮廷内で口にしていい話ではない。
「我々の都合で生かされ、王になった人物だ。従順で扱い易いが故に選ばれた。そのことをあの方も知っている」
バハードゥル・シャー二世の、最愛の息子に王位を譲りたいという希望は呆気なく潰された。次の後継者は会社側の指名でミルザー・カイーシュという皇太子に決まっている。彼は皇位を襲うあたり、
「小さな矜持に拘る姿は見ていて虚しい。ところで……あの方は、己が別の姿に変身する能力があると信じておられる。何に変身するのか、分かるか?」
悪戯っぽく問うフレイザーに、リアムは首を振った。
「蠅だそうだ」
その回答に、リアムは咄嗟に顔をしかめた。
「あの皇帝の内心を最も言い表していると、私は思うね」
フレイザーはぴたりと口を閉ざす。リアムもまた言葉を失い、沈黙だけがたゆたう。
役目を終えたリアムは、市場の並ぶチャッタ・チョウクを抜ける前に、城の正門を振り返り、白昼に晒された
リアムがデリーを訪れたのは、これが最初で最後になった。カルカッタに戻るなり、インド中央部のインドールへの配属が決まり、実質的な謹慎状態を解かれたのだ。
インドールはホールカル藩王国の一都市で、ジャーンシーの南方に位置する。呆気なく外地に戻れたことを素直に喜んで良いものか迷いながら、また長距離の旅路についた。元々少ない私物が、移動を重ねる度に減っていった。最終的には身一つになりそうだ。
「君がハーヴェイか。お父上はお元気かな?」
到着したインドールの公館では、上官にあたるハミルトンが出迎え、開口一番に尋ねた。
ハミルトンはインドール含む中央インド全般を預かる
「はい。と言っても、私があちこち移動していたものですから、直に顔を会わせてはいません。便りがないのは良い便りとも言いますので」
「そうか……君のインドール配属には、お父上の後押しもあったのだよ。君は長期休暇を申請していないね。良い機会だし、会ってはどうかな? ……まあ、君の気が向けばだが」
遠慮がちにつけ足された台詞で、ハミルトンはリアムと父の関係が良好でないことを知っているのだと察した。
「……そうですね。手紙で伺いを立ててみようと思います」
ジャーンシー赴任の祝辞以来、父の筆跡を見ていない。こちらから手紙を書いたこともない。リアムがフォート・ウィリアムに楯突いたことをどう考えているのだろう、と不意に気になった。
リアムの返事に、ハミルトンがほっとしたように表情を緩めたのが印象的だった。差し出された手を握り、手短に挨拶を終えた。
そこでは近くの基地のみならず、各地から反乱の情報が常に入ってきた。スィパーヒーは待遇の不満から頻繁にもめ事を起こしていたが、どれも小規模だった。ガス抜きも必要だろうと、総督府はこれをあえて厳しく取り締まることもなかった。
ジャーンシーのことも、時折聞こえた。併合後もラクシュミーは別に弁護士を雇い、ハミルトンを介して総督府に、領地回復を誓願し続けているようだった。彼女の動向が耳に入る度、自分が成し遂げられなかったことへの後悔が疼く。しかし、もう手を貸すことは叶わない。
そうこうしている内に、半年があっという間に過ぎた。ジャーンシーに配属されてから八年、社員としてのキャリアはまずまずといったところだろう。
素っ気ない父の代わりに、アリスからの手紙が数ヶ月に一度は届く。自身の近況と、生家や兄たちの様子を綴るだけで、返事を催促するような文言はひとつも見当たらない。つい先日には、アリスが子爵家の子息からプロポーズを受け、婚約したという知らせがあった。
忙殺されている中で聞いた妹の慶事に、素直に祝福の念が湧いた。屋敷にいたときよりも、遠く離れている今のほうが、より身近に感じるのが不思議だった。
相手を紹介したいので、一度ロンドンに戻ってきて欲しい、と珍しく願望を綴ったアリスに、応えるべきか迷った。未だにあの屋敷へ踏み入れる勇気がなかった。だが、これも『良い機会』かもしれない。近くロンドンに帰ると返事を認めた。
そんな折りに、「会社軍の制式銃を新しくすることになったのでな」とハミルトンが指し示したのは、王立造兵廠が新開発したというライフル式のエンフィールド銃だった。
――まさかこれが、大きな争いの引き金になるとは、リアムは元よりフォート・ウィリアムの誰もが予想していなかった。
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