第二章 嵐の中で
14. 片羽の蝶
ジャーンシー王妃ラクシュミーが、総督府によって領地回復の誓願を棄却された二年後、一八五六年三月のこと。
ラクシュミーの出身地・ビトゥールのとある邸宅に、二人の男が相対していた。
「アワドを併合?」
ラクシュミーの義兄にして、ビトゥールの主ナーナー・ゴーヴィンド・ドゥンドゥー・パントは眉を跳ね上げ、愛想良く微笑むイギリス人の目を見据えた。
アワドはかつての君主が文化保護に熱心で、衰退したムガル帝国で職にあぶれた絵師を雇うなどして独自の繁栄を築いていた。今でもその流れを汲み、知の集積地と謳われる首都ラクナウを擁する。また、東インド会社軍の構成員の八割を占めるスィパーヒーを、最も多く輩出していることでも有名だ。
東インド会社軍との戦に破れて以降、約九十年にも及ぶイギリス支配を受けているアワドは、会社軍の戦費や駐留費を購うため、半ば強制的に領土を割譲させられ、それが王国の財政を苦しめるという悪循環に陥っていた。
ナーナーの住まうビトゥール、駐屯基地のあるカーンプルを含む下ドワーブ地方も、そのようにしてイギリスの支配下に入った土地である。
カーンプルから十四マイル離れたビトゥールの邸にまで足を運んできたイギリス人はウートレム中佐と名乗った。アワド藩王国はアワド州と名を変え、
「現藩王による政治放擲や贅沢は目にあまるものがありました。それだけならまだしも、
ビトゥールの邸にも、簡易ではあるが
ウートレムは老年に差しかかってなお、壮健そうであった。イギリス高官の多くがそうだが、日に焼けた顔に鍛えた身体をしている。そうでもなければ、この厳しいインドの気候を生き抜くのは難しいのだろう。
ウートレムもまた厚い肩を精一杯すくめ、ゆっくりと首を振った。彼の表情は真実、仕方がなかった、と語っているが、この男は自身の属する会社がアワドを窮地に陥れた事実を知らないのだろうか。もし把握した上で言っているのなら、大した厚顔無恥ぶりだ。下げた眉の奥に光る忌々しい青い瞳を前に、舌打ちを堪えるのに苦労した。
「確かに、貴君の言う通りであれば、併合もやむを得まい。まさか貴君は、アワド藩王国の併合を知らせるためだけに、わざわざこちらへいらしたのか? 足労をかけるまでもなく、手紙で仰ってくだされば手間もなかったでしょうに」
「もちろん、御身をお訪ねしたのには理由がございます」
動じた風もなくウートレムは相槌を打ち、続けた。
「カーンプルの国庫守備に関して、兵の増強をお願いしたく」
ナーナーは銀の椅子の肘に手をかけ、わずかに身を乗り出した。
養父バージー・ラーオ二世が亡くなったのは三年前のこと。遺体を丁重に荼毘に付した後、遺灰をガンジス川に流し、来世への再生に旅立ったのだった。
それと同時に、ナーナーはビトゥールに対するあらゆる権限を失っていた――正確には、今のインド総督ダルフージが八年前に定めた、
「増強と言われるが……そう簡単にはいかない。貴君もお分かりだろうが」
バージー・ラーオー二世に支給されていた八十万ルピーの年金の打ち切りや、一年限りの免税権。司法権すらイギリスに握られたナーナーは、二十代半ばにして隠遁生活を余儀なくされている。
これを通達された当初は、臣下をイギリス本国に送ってまで抗議したが、訴えは受け入れられなかった。
今のナーナーは、総督府の『信任』によって託されたカーンプルの国庫守護を全うする目的で、諸経費を吐き出すだけの存在だった。
「我々も共存共栄を目指し、各方の事情には配慮して参りました。いえ、これからもそうあり続けたい、私はそう思っておるのですが……上の決定に逆らうのは、なかなか」
ウートレムはため息を吐き、苦々しい表情を浮かべたものの、どこか白々しい。
今まではこの男のお目こぼしに与っていた、と言うわけか。ナーナーは内心で吐き捨てる。
「その、上とやらは何と言って寄越したのだ?」
ナーナーはなるべく穏やかな声で促した。両者の立ち位置だけ見れば、ナーナーが主でウートレムが臣下であったが、内実は逆だった。
「三門の砲と三百の兵の所有を許可する、と。カーンプルはアラハバードからラクナウを繋ぐ重要な街道を押さえるのに必要な拠点です。ナーナー殿の監視下にあれば、こちらとしても安心です」
ウートレムは小さく微笑んだ。彼の言う『安心』は、片羽をもがれた蝶が地でもがいているのを眺める優越に似ている。もう二度と飛ぶことは叶うまい、という冷淡な確信だ。
更に彼が恐縮した風情で寄越してきた書類を、ナーナーは一瞥する。イギリスの役人は兎に角書面を重要視する。口での約束は約束とも思っておらず、全ては文字による契約と、信じる者にしか嘉し賜わぬ狭量な神への誓約で成り立つ。
「ひとまず預かるが、難しい要求であることは否めない。こちらとしても、貴君や総督府の信頼に応えるにはやぶさかではないが……」
ナーナーは語尾を濁し、ウートレムに視線を戻す。兵を維持するには、父の遺産を切り崩すしか方法がない。
領地を治める権限の一切取り上げておきながら、ナーナーをビトゥールの主のように扱う連中に、反吐が出る。胸中の毒をおくびにも出さず、ナーナーは殊勝な態度で口を開いた。
「我が父の代より、総督府には尽くしてきたつもりだ。ウートレム殿の苦慮も分かるが、我々の献身に今一度報いてくれるよう総督府に働きかけていただきたい。我々にはもう、貴国に抗おうなどという気力はない。許されるなら、我が身をガンカーにお返しし、解脱の館へ向かいたい」
「ナーナー殿下、御身はまだお若くていらっしゃる。世を儚むには早うございますぞ」
「いや、父も旅立ち、残すべきものなど何もないのだ。生きている意味など、どこにあろうか」
萎れた風情のナーナーを前に、ようやくウートレムの瞳に、本物の哀れみが浮かぶのがわかった。
「そう、気を落とされますな。我々とて、ナーナー殿下に無体を申し上げるつもりは毛頭ございません。また改めて、お伺い致します。先の件のご返答はその時にでも」
ウートレム中佐はナーナーに向かって深々と一礼すると、宣言通り早々と邸を発った。
異邦人のいなくなった空間で、ナーナーは大きく息を吸った。椅子の背にもたれたところで、一人の人物が内謁殿に姿を見せた。
「とうとう来たようだな」
にやっと笑ってそう言ったのは、タートヤ・トーペーだ。バージー・ラーオ二世がマラーターの宰相職を追われ、ビトゥールに封ぜられた時から仕えている武官であり、ヒンドゥーの導師だ。
ラクシュミーやナーナーと同じく聖職者カーストのブラフマンであり、二人の剣術指南役もこなしていた。
バージーの死後もナーナーの元に留まって、鍛錬していたり、私兵に稽古をつけたり、寺院でマントラを唱えたり、と気ままに過ごしている。当人は隠居生活を楽しんでると嘯くが、まだ四十を幾つか過ぎたばかりで、第一線を退くには早すぎる。剣の腕も全く鈍っていないことは、日々手合わせをしているナーナーも良く知るところだ。
「申し上げにくい、などと言う割にはずけずけと要求を突きつけきた。見習いたいものだな」
手にした書類を軽く振りながらナーナーが言うと、タートヤが目を瞠った。
「今の総督は藩王国併合に熱心だな。サーターラーにナーグプル、ジャーンシー、とうとうアワドまでもか」
ナーナーはタートヤの主人ではあるが、公の場以外では昔のまま、砕けた口調で接してくる。
ナーナーにはビトゥールの主を名乗ることへの嫌悪がある。イギリスの傀儡であることを、自ら肯定しているようで抵抗を感じるのだ。タートヤはそれを察してか、必要以上に畏まらずにいてくれる。
養父のバージー・ラーオ二世と共に、故郷のサーターラーからビトゥールへ移された当時、ここには荒廃する土地があるばかりだった。
この土地の権利を高利貸しや商人が買い上げ、暴利を貪った結果、小作人がいなくなったのである。免税権はあっても実際に土地を耕す者がいないのでは当然だ。税収も思うように上がるはずもない。
隠遁してからの養父は、魂が抜けたようだった。特に手を打つこともなく、寺院でぼんやりと過ごす養父に代わって、ナーナーが土地の売買に関して規制を設けさせたのだが、相手はイギリス役人の庇護を受けていた。
彼らは上の裁判所に利権を侵されたと訴え、こちらの言い分を棄却する。こうなれば法など有名無実のお飾りでしかない。
いつしか生活の頼みは、悔しいが東インド会社からの年金だけになった。八十万ルピーは大金だが、養父は長年染みついた豪奢な生活を、ついぞ改めることはなかった。昼は寺院に引きこもってマントラを唱え、夜は五人の妻を取っ替え引っ替えしながら放蕩に耽る有様だった。
「アズィームッラー・ハーンはどう思う?」
ナーナーが手にしていた書類を、側に控えた無口な男に見せる。男は、見た目こそ細面の美男子だが、その容姿にもかかわらず、恐ろしく影が薄い。ウートレムとの会見の場にもいたのだが、人としての気配をどこかに捨ててきたかのようにひっそりとしている。
無口で無表情、求められない限り一切私見を差し挟むこともない。だが、己の職分には忠実な男だ。イギリス公館での勤務経験があり、英語だけでなくフランス語にも精通しているなど、得がたい資質を備えている。
「こちらを信任している、ということは間違いないようですね」
書類をたっぷり眺めた後、アズィームッラーが答えた。うっそりと気怠そうな仕草からは想像できない美声だ。ナーナーの脳裏に宝の持ち腐れ、という言葉が浮かぶ。
バージーの放蕩には目も当てられなかったが、良い面もあるにはあった。ビトゥールはバージーが来るまでは寂しい田舎町でしかなかったが、羽振りの良いバージーの元には必然的に人が集まり、瞬く間に地方都市の一つとなったのだ。
これを養父は、かつてインド大陸を席巻し、ムガル皇帝を脅かすほどの権勢を振るったマラーターの
ナーナーがラクシュミーの
バージーの死は不幸だったが、内心安堵もしていた。養父は既に、失われた権勢の嵩をいつまでも引きずる、亡者でしかなかったのだから。
ナーナーがぐっと椅子の肘を掴む。その仕草を見たタートヤが、顔を引き締めた。
「いよいよだな」
「ああ」
タートヤと取り交わされる言葉は短い。しかし、その内には堅く秘めたる決意があった。
ナーナーは養父の、殊更にイギリスにおもねる態度に苛立ちを募らせていた。バージーがイギリス東インド会社に降伏を申し出た時、マラーター同盟はとっくに力を失い、あれ以上イギリスに反抗する気力も人材もなかった。それを思えば彼の判断は、最善ではないが次善の手段だっただろう。
ただ、マラーターの敗北は、マラーター自身が招いた結果とも言える。イギリスが静観しているのを良いことに、ムスリム教国たるムガルや、シク教国との争いに現を抜かしていたのだから。
イギリスは、インド大陸内に宗教による対立があることを把握した上で、より効果的な機会を見計らって自国人同士が討ちあうように仕向けていたと、気づいたときには後の祭りだ。
このままでは、インドはイギリスに食い散らかされて終わる。身内の争いは横に置き、一つにまとまらなければならない。その旗頭を務めるには、皮肉ではあるがマラーター宰相の復権が必至だった。
「前途多難だな」
タートヤがため息をつけば、ナーナーは笑う。
「旧マラーターの諸侯連中は皆イギリスに飼い慣らされてる。危ない橋を渡るより、甘い蜜を吸っているほうが楽だからな。だが、趨勢が変わればどう転ぶか分からない。おれは、イギリスの足下を掬える可能性はあると思う」
「だが、事を起こすには我が陣営だけでは心許ないぞ。どうするつもりだ、ナーナー?」
タートヤの言うとおり、手持ちの兵力だけでイギリスに対抗するにはあまり頼りない。今日、ウートレム中佐が持ってきた話を呑んでもまだ足りない。
ナーナーは、わずかに首を右に傾け「考えはある」と呟いた。
「そうだな……一人イギリス人を雇えないか」
ナーナーの台詞に、タートヤは目を剥いた。彼の顔には、イギリスへの嫌悪を露わにしているナーナーが、まさかそんなことを言うとは、とはっきり書いてあった。
「敵の事情を知るには敵に詳しい者の力が必要だ。いくらエリートで鳴ってる精鋭集団だろうが、落ちこぼれの一人や二人見つかるだろう」
インド亜大陸を統治するために派遣されたイギリスの若者たち。そのほとんどは、今のナーナーとそう変わらぬ年齢で一国を任され、高給と出世を約束された特別カーストとして認識されている。が、その反面、株に手を出して一文なしになった、女に巻き上げられて路頭に迷った、会社の定める基準に届かず辞める羽目になった等、悲惨な末路を辿った者も多い。
「イギリスは兎に角情報に重きを置いている。こちらも向こうの動向は掴んでおくに越したことはない」
そうだな、とタートヤは同意し、ふっと遠い眼差しをした。
「ラクシュミーなら、どうしただろうな」
言われて思い出したのは、嫁いだ時の少女の顔だ。
らしくもなく不安そうな表情を浮かべていたラクシュミーはもう二十二歳。七年の月日は彼女を変えただろうか、それともナーナーの記憶にある、奔放で勝ち気で剛胆な少女のままだろうか。
邸にいた時には当たり前で気づかなかったが、彼女の存在はこのビトゥールの寂しい景色を照らす太陽だった。ラクシュミーがいるだけで、空気が明るく華やいで、人の心を和ませた。彼女の微笑みは周囲をも輝かせ、鬱屈を吹き飛ばした。つむじ風のような彼女は、時に迷惑も運んだが、それすらも楽しい思い出となって久しい。
「さあな。少なくとも、おれと同じ道は選ばないだろう」
ラクシュミーはイギリス贔屓だった。邸を訪れるイギリス人と親しくしていたし、かの地の習慣にも関心を持っていた。敵対することよりも、融和を選ぶのではないかとナーナーは思う。実際、ジャーンシーは併合を受け入れている。
嫁げば実家との繋がりは切れてしまうので、ラクシュミーからの便りはない。彼女は婚家で上手くやっているだろうか、この邸にいたときと同様、笑って過ごしているだろうか。知りたいことは沢山あるというのにその術がない。
馬鹿げた約束をしたことを、ナーナーは忘れてはいなかった。このインド中に蓮の花を咲かせるという、壮大で無謀で、くだらない約束を。 もしナーナーの計画が上手く運ぶなら、蓮花は女神の祝福となってこの地に咲き誇るだろう。
大陸中に溢れるその様を、決して夢想だけには終わらせない。ナーナーは決然として椅子から立ち上がった。
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