04. 供物

 ラクシュミーらが宮殿に戻ると、綿のサリーは脱がされ、軽く身体を拭われた。

代わって侍女が差し出したのは、婚礼の時にまとった金蓮花の刺繍の真っ赤なサリーだ。受け取ろうとしたラクシュミーの手を、タラがぺちりと叩き、自ら率先して華やかな絹布を広げた。

(サリーくらい、自分で着れるのに)

 宮殿の生活では、いちいち人の手を借りなければならず、かえって居心地が悪い。

「今日は何も予定はなかったはずよね?」

 タラがサリーを着付ける横で、侍女たちが首や腕、頭に金の飾りをつけていく。途端に枷をかけられたように重くなる身体に辟易する。まるでさっきの象と同じ。ラクシュミーは飾り立てられた供物だ。

 乗れるはずだった馬に乗れなかったことをも思い出し、気分は沈むばかりだった。

「陛下のお召しです」

「……こんな、朝の内から?」

「お話があるそうでございます。ヴァラーナシー巡礼のことでございましょう」

 ラクシュミーにわずかな不安が過ぎった。『近々』が、とうとうやってきたのだ。

「この様に急なお呼びもございます。陛下をお待たせするわけには参りません。それともラクシュミー様は、哀れな洗濯人の娘の首が飛ぶところをご覧に入れたいと?」

 淡々とした口調でタラは告げる。さっと顔色を変えた少女の胸元でサリーのひだを整え、柄行きパルーが良く見えるようにラクシュミーの頭に引っかける。目前のタラのふくよかな顔には、口調と同様、冷めた色があった。

「ジェルカリーを罰することは許さないわ」

「ならば身を慎んでいただきませんと。陛下の命にはどなたも逆らえません。例えラクシュミー様でも、です」

(ジェルカリーを人質に取られたようなものね)

 それにしても、一介の女官たるタラ・バイが、夫の威光を振りかざすような真似をしても許されるのだろうか。ラクシュミーはきり、と唇を噛んだ。

 結婚式ほどではないにしろ、王に面会するに相応しい格好になったラクシュミーは、再度城に向かう。但し、今度はパルダーの内に入れられ、輿での移動だ。

「ラクシュミー、急に呼んで悪かったね。早く知らせたかったのだよ」

 ガンガーダル・ラーオは城の中にある図書室にいた。壁面を全て本棚にした一室の中央、天鵞絨の長椅子に腰かけていた夫は、笑顔でラクシュミーを迎え、億劫そうに上体を起こした。

 ラクシュミーは図書室に足を踏み入れるのは初めてだった。夥しい本の数に圧倒され、夫に挨拶するのも忘れた。蒐集家であることは知っていたが、まさかこれほどとは。

「気になるのなら読んでみるかな?」

 言葉を失ったラクシュミーに、夫は機嫌良く髭をしごいた。

「選ぶだけで、一日が終わりそうです」

 部屋をぐるりと見渡してから、ラクシュミーは夫に頭を下げた。

「ヴァラーナシーへ向かう段取りがついたのでね。出発は三日後だよ」

 夫の台詞に、サリーに隠したラクシュミーの口元が強ばった。ゆっくりと微笑んだが、ぎこちなさは拭えなかった。

「ずいぶん急なのですね」

「なるべく早いほうが良いだろう。ヴァラーナシーはラクシュミーの生まれ故郷だし、今からゆけば、新年を迎えることもできるよ」

「素晴らしいお話だと思います」

 実にうっとりと話す夫に、ラクシュミーは相槌を打つ。ラクシュミーとてブラフマンの娘、聖地への憧れは少なからずある。死出の地として名高いヴァラーナシーのガンガー、この聖なる河に遺灰を流してもらうことはヒンドゥーの夢といっても過言ではない。

「そうだろう? 我々が留守の間、国のことはラクスマン・ラーオがきっちりとしてくれる。今までもそうだった。わしは彼を信頼しているんだ」

 ラクシュミーはいつも王の側に控えている、丸顔の宰相を思い浮かべた。穏やかな笑みをいつも絶やさず、王に逆らっている姿を見たことがない。と言っても、夫は深く考えることなく、宰相に任せてしまっているので、逆らいようがないのだけど。

「ささやかだが、今宵別れの宴もある。新しい楽団と踊り子だ。ラクシュミーもきっと気に入るだろう」

 またか、とラクシュミーは微笑みの下でうんざりとした。長時間拘束されるのは辛くて仕方がないが、夫は家臣を集めて騒ぐ時間が好きなのだ。

「ええ、とても楽しみです、陛下マハラジャ

 そう答えるしか、ラクシュミーに選択肢はなかった。

 夕刻から始まった宴は、案の定深更まで続き、ラクシュミーはあくびをかみ殺すのに一苦労した。

 その横で、機嫌を良くした夫は普段は戒めている葡萄酒を煽り、泥酔していた。介抱するのは、もちろんラクシュミーの役目だ。途中まではタラやノウラの手を借りたが、奥の閨には一人で運ばざるを得なかった。

 夫の巨体を横たえ、一息吐いたラクシュミーの腰に夫の腕が絡まり、そのまま寝台に引っ張り込まれた。

 強い酒精と汗が綯い交ぜになった体臭を間近で嗅ぎ取り、ラクシュミーは思わず顔を背けた。べたつく指で触れられた箇所が、粟立つのが分かったが、嫌悪感をねじ伏せて夫に身を任せた。

 事を終えた後、夫が完全に寝入ったのを確認してから、ラクシュミーは何とか夫の下から這い出て、寝台を離れた。口の中が粘つき、喉がひどく乾く感じがする。

 手早くサリーを身につけて控えの間に顔を出すと、か細い蝋燭の灯りの側に、ノウラがちょこんと座っていた。ラクシュミーの顔を見ると、ほっとした表情を浮かべた。

 今まで座っていたクッションにラクシュミーを導くと、ノウラはいそいそとチャイの用意を始めた。ぼうっとする頭で、蝋燭の火が揺れるのを飽くことなく見ていたら、そっと茶器が差し出された。カルダモンのすっきりとした香りを胸一杯に吸い込み、熱々の甘い茶をゆっくり味わうと、堅くなっていた身体が解されていくようだった。

「王様は遊んでばかりで、とても立派なブラフマンだとは思えません」

 黙々とチャイを口にするラクシュミーの隣で、ノウラが手にした茶器を睨んでいた。

「バージー様もお父様も、人を見る目がないです」

「ノウラ」

 ラクシュミーが窘めると、幼なじみでもある侍女は、はっと顔を上げた。

「すみません……」

 ラクシュミーは首を振って、ノウラの失言を聞かなかったことにした。

 繰り言が多くて、時に疎ましく感じるけれど、ノウラだけは絶対にラクシュミーの味方だと断言できる。

 そうなると、ノウラと離れてしまうことが殊更辛く、ラクシュミーの大きな目が潤んだ。弱気は見せまいとしたラクシュミーを、ノウラがそっと抱き寄せる。

 涙は隠すつもりだったのに、ほろりとこぼれてノウラの肩を濡らした。謝ろうとしたラクシュミーの頭を、ノウラは両腕で包み込んだ。

「もう、お休みください。お疲れでしょう?」

「ありがとう……」

 ノウラは、ジャスミン《チャミリ》の香りがする。彼女の身体の柔らかさに、心の底から安堵を覚えて、ラクシュミーは目を閉じた。

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