03. 王妃の日常

 盛大に執り行われた結婚式から三ヶ月後。王妃の住まいである宮殿内を、密かに移動する二人の娘の姿があった。

「ラクシュミー様! 絶対タラ様にばれますって!」

「静かにしてちょうだい、ノウラ。気づかれてしまうじゃない」

 ラクシュミーが窘めても、ノウラはなおも不安がり、人影を見る度にびくりと肩を震わせた。

 ノウラはラクシュミーが嫁ぐ際、ジャーンシーから連れてきた娘だ。年はラクシュミーより二つ上だが、とにかく小心で明日の天気のことでも深刻な顔をして悩むのが趣味だ。

 幼い頃から一緒に過ごしているので気易くはあるのだが、まだジャーンシーでの生活に馴染めていないのか、すらりと高いはずの身体を縮め、始終びくびくしている。

(気持ちは分かるけどね。タラの怒鳴り声ったら、とっても恐ろしいもの)

 ラクシュミーにとって気晴らしは早駆けであり、遊びは剣術である。更に父の「お前を縛るものは何もない」という発言に、ラクシュミーは忠実だった。つまり、朝の祈りを終えると、王妃の宮殿を抜け出して馬に乗り、剣を振るうことを日課にしたのである。

 女らしい嗜みや慎ましさとやらをラクシュミーに押しつけるタラとの関係は、婚礼の日から三ヶ月の間で、険悪の一途をたどっている。ぴりぴりとした空気にノウラを始め、宮殿の侍女たちはすっかり萎縮していた。

 だが、ラクシュミーに譲る気など毛頭もない。今日もまた、馬に乗るなど言語道断と息巻くタラを、軽やかに無視して宮殿を出た。

 王妃という地位を考えるならば、その姿は布仕切パルダーに隠されてなければならず、移動にも輿を使うのが順当だが、ラクシュミーはノウラと同じく綿のサリーに身を包み、徒歩でジャーンシー城へと向かった。

 宮殿を警護している兵は、最早ラクシュミーを引き留めるのを諦め、門を出るのも見て見ぬ振りをしていた。

「ラクシュミー様……」

「マヌで良いわよ、ノウラ」

 無造作に落ちている牛の糞を踏まぬよう、慎重に足を運びながらラクシュミーが告げる。マヌは幼名時の渾名だ。ノウラもここに来るまではそう呼んでいた。

 ノウラはくりっとした丸い目をあちこちに泳がせ、やがて息を吐いた。

「やっぱり宮殿に戻りましょう、マヌ様。タラ・バイ様はとても長い間ネワルカー家に仕えていた方です。前にいた王妃様に命じられて、王子様を郊外の湖に沈めた張本人だって噂もあるんですよ? そんな方に逆らったら、マヌ様も沈められちゃいます」

「ノウラはわたしの剣の腕前を知ってるわよね? 簡単に沈んでやるもんですか。むしろ返り討ちにしてあげるわ」

 ラクシュミーの勇ましい返答が聞こえてないのか、ノウラはぶつぶつと続けた。

「前の王妃様はすごく野心家で、自分が王様になりたかったって……」

「その怖ーい王妃様は、金剛石ヒーラーを飲んで亡くなられたのよね。何度も聞いたわ。ノウラ、今はわたしが宮殿の主だってことを、早く覚えてちょうだい!」

 ラクシュミーが顎をそらしながら言い捨てると、ノウラは呻いて顔を手で覆った。

 周辺一帯を見渡せるバングラの丘にそびえる堅牢な石造りの城は、かつてここを治めていたオルチャの太守、ビール・シンが建てたものだ。ビール・シンは友人であるシャンプールの領主を招いて、尋ねた。

 ――新しく建てたあの城が見えるか?

 領主は答えた。

 ――まるで陽炎ジャーンシーのようだ。

 それがこの城名の由来だと、タラが教えてくれた。

 ラクシュミーの居所である王妃の宮殿ラーニー・マハルはそのジャーンシー城の麓にある。

 王妃の宮殿に住まうのはラクシュミーと、タラを筆頭とした侍女が十数名。下働きを含めても総数三十名程度の小さな世界だ。この中で、ラクシュミーは生涯を過ごす。

(頭で分かってても、実際には辛いものね)

 城に続く坂道を登りながら、ラクシュミーはため息を吐きそうになって、慌てて口を閉ざす。嫁いだことを、後悔したくなかった。

「大丈夫よ、ノウラ。ジェルカリーがいるもの。しばらくはごまかせるでしょう」

 年上の侍女の悲愴な面持ちを見て、ラクシュミーはことさら明るい声を出した。

 ジェルカリーはジャーンシーに移ってから出会った娘だ。馬場で働いているのを偶然見つけたのだが、顔がラクシュミーと良く似ていたのだ。特に目元は瓜二つで、オダニで顔を半分隠してしまえば見分けがつかないほど。

 ラクシュミーは早速、ジェルカリーを侍女にしようとしたが、当人が宮殿に住まうなどとんでもない、と固辞し、今は宮殿の洗濯人として働いている。

 このジェルカリーには密かな大役があって、ラクシュミーがこっそり抜け出す際の身代わりを演じていたのだった。

「それもばれたらタラ様に大目玉食らいます。とんでもないことですよ。まさか洗濯人が王妃様に化けてるなんて……」

「ジェルカリーにはなるべく人に会わないようにしてもらってるわ。大丈夫だってば」

 あくまで気楽なラクシュミーとは対照的に、ノウラは唇を尖らせ、眉を下げる。ラクシュミーは侍女を安心させるために微笑み「急ぎましょう」とノウラの手を取って引っ張った。

 婚礼の祝祭中、新年の祭りディーワーリーのように夜まで灯火が焚かれ、星座を模したようだった街も、ようやく落ち着きを取り戻していた。今の街の姿は故郷のビトゥールに少し似ている。

 ラクシュミーの生まれは東にある聖地ヴァラーナシー、父は旧マラーター王国の貴族である。旧というのは他でもない、ラクシュミーが生まれるずっと前に、なくなった国だからだ。

 ビトゥールで師事していた導師グルタートヤ・トーペーは、ラクシュミーにリグ・ヴェーダやラーマーヤナ、ギーターといったインドに生まれた人間なら知らぬ者のない叙事詩プラーナや、マラーター王国を築いた初代のマハラジャシヴァージーの物語を、幼いラクシュミーに語ってくれた。

 小領主の息子に過ぎなかった青年が、数々の困難を乗り越えてムガル帝国をも凌駕する強国を作り上げていく冒険譚は、幼いラクシュミーの心を躍らせたものだ。

 そのシヴァーシーは後継を定めず、彼の死後は失墜したマラーター王の権威を支えるため、宰相ペーシュワーが実権を握った。その末裔がラクシュミーの養父バージー・ラーオ二世である。

 だが、養父はシヴァーシーの様にマラーターの諸侯たちをまとめきれず、三度に渡る戦闘の末、東インド会社に頭を垂れることとなった。

 マラーター王国の残滓は、ラクシュミーが嫁いだジャーンシーのネワルカー家、グワーリヤルのシンディア家など、幾つかの有力諸侯の領地が藩王国として存続するに止まり、残りの領地は全て東インド会社のものとなっていた。

 坂を登りきった二人は何食わぬ顔で城門を通り抜け、中にある馬場へと足を向けた。中にはラクシュミーらを見て面食らう者もいたが、意に介さなかった。ノウラが小走りでついてくる足音を聞きながら、颯爽と城内を闊歩する。

 馬場に近づくにつれ、いつもと様子が違うことにラクシュミーは気づいた。兵や小者たちが続々と集まり、大声で何かを言い合っている。ラクシュミーとノウラは顔を見合わせ、急ぎ足で馬場を目指した。

「ノウラ、見て! 象だわ!」

 遠目でもはっきりと分かる巨体は見間違えようがない。温厚に見える生き物だが、物語に出てくる戦象は、広大な戦場を庭のように駆け巡り、容赦なく敵を蹴散らす勇ましさを持っている。

 ジャーンシーに十頭の象がいるとラクシュミーも知っていたが、こんなに間近で本物を見るのは初めてだった。少女は馬場の柵をぐるりと取り囲む人々を縫って、できる限り近づこうとした。

「すごい! タートヤから聞いた通りよ。乗ってみたいわね、ノウラ!」

「マヌ様、危ないですって!」

 サリーの端をノウラに引っ張られても、興奮したラクシュミーはもっと近づきたくて、身を乗り出すようにした。

(それにしても、何故こんなところに象がいるのかしら?)

 ラクシュミーと同じ疑問を持つ者が周囲にもいたらしく「何があったんだ?」と問う声があった。

「あれは王様の象だよ」「供物を捧げるんだと」「あの象はガネーシャ神なのかい?」「寺院にお参りにでもいらっしゃるのかねえ」

 ガネーシャ神は最高神シヴァと最愛の妃パールヴァティ女神の息子。富と繁栄を司り、白象の頭を持つ姿で現される。それに準えているのだろう。

 ふうん、とラクシュミーは馬場の中央に引き出された象に目を戻す。白っぽい肌を持ち、黒い瞳は荒々しさの代わりに、長年修行に打ち込んだ隠者サードゥの如き穏やかさがあった。観衆の注目も気にせず、大きな耳をゆっくりと広げる様は、人界に囚われぬ霊性が宿っているようにも見える。

 やがて、馬場に次々と煌びやかな黄金が運び込まれた。これらの品々はマハラジャガンガーダル・ラーオから捧げられた物だ、という口上に周囲が湧いた。黄金の装飾品は、象使いの男たちが手際良く飾りつけてゆき、まるで祭の準備のようだ。

「……象じゃなくて、マヌ様に下されば良いのに」

 隣でノウラがぽつりとこぼした台詞は、どうやら誰の耳にも届かなかったようだ。ラクシュミーはノウラの肩を軽く突いた。

「ガネーシャ神への供物でしょ。陛下は信心深い方なのよ。立派じゃない」

「……マヌ様が良いなら、別に良いんですけどね……」

 ノウラは含みのある声で告げ、ぴたりと口を閉ざした。

(言いたいことがあるなら、はっきりと言えば良いのに)

 ラクシュミーは内心で不満をこぼし、振り切るように象に熱い視線を向けた。

(そういえば、近々寺院巡りをすると言っていたっけ)

 ネワルカー家の祖先を祀る寺院を訪い、夫が家長として祭祀を行う資格を得たことを報告する旅だ。出立時には、結婚したばかりの二人をお披露目する意味で、象に乗って街中を巡り、それから二ヶ月かけて聖地ヴァラーナシーを目指す。

 楽しみな反面、ノウラすら伴えない長期の旅路を、夫と二人きりで行かねばならないことに躊躇いがあった。

 夫のガンガーダル・ラーオは二回目の結婚で、年齢はラクシュミーより二十も上。加えてバラモンたる者、殺生は戒めるべきだ、として剣を振るうことはおろか、馬にさえ乗れない。筋肉の代わりに、ぶよぶよとした脂肪が詰まった身体では、無理もない話だ。

 宰相と現在の政治について話すより、過去の歴史に没頭するほうが好きで、書籍の蒐集家でもある。いずれにしても、ラクシュミーの興味と重なる所がなく、夫とどう接すれば良いのか、考えあぐねていた。

(だけど、これがわたしの義務ダルマよ。夫に仕えて、子供を産むことが、女の幸せ……)

 きゅっと唇を引き結び、ラクシュミーは言い聞かせた。

 占い師はガンガーダル・ラーオとの結婚が良いと告げたし、父も養父も、ラクシュミーは幸せになると断言した。

 ダルマとは規律であり、道徳であり、人の生き方そのものを指す。カーストに応じた掟を守って、現世を全うすることが善徳であり、来世に生まれ変わった魂はより良い高みへと至る。夫婦の縁もまた、前世から来世まで連綿と続いていく宿世である。

 バージーは拠点であったサーターラーを離れ、全く縁のないビトゥールに移住し、今は東インド会社が支給する年金で生活をしている。

 ラクシュミーの父はバージーの下、ビトゥールの裁判所で働くことになり、幼いラクシュミーも一緒に出入りしていた。

 バージーは、マラーターの宰相ペーシュワーとしては有能ではなかったかもしれないが、ラクシュミーにとっては優しい小父さんである。

 宮廷内を走り回るラクシュミーを『お茶目さんチャビリー』と呼んで可愛がり、養子のナーナーを遊び相手に寄越してくれた。父に代わってラクシュミーの縁談をまとめ、藩王国の王妃に相応しいだけの持参金ダウリも用意してくれた。

 養父への感謝は絶えない。親の恩に報いるのも、娘たるラクシュミーのダルマだろう。

「マヌ様。今日は馬に乗るのは諦めて、戻りましょう。今ならタラ様にもばれませんよ」

 こそこそと耳打ちしてくるノウラに、ラクシュミーは手を合わせ、上目遣いで侍女を見つめた。

「待ってよ、もう少しだけ」

「そう言ってこの間も、見つかっちゃったじゃないですかっ」

 ノウラは唇をへの字にして訴え、ラクシュミーはそうだったかしら、ととぼけてみせた。

 王妃らしく振る舞え、という義兄ナーナーの忠告は一週間と保たなかった。四日に渡る婚礼の儀式には耐えたものの、まだまだ終わりそうにない宴に、ラクシュミーは早々に膿んだ。

 ノウラを無理矢理説き伏せ、まだ祝祭の余韻が続く宮殿を抜け出した時の開放感は、他の何にも例えようがなかった。己の結婚祝いで街に出て、実際に楽しんだ王妃は、インド中探してもラクシュミーだけだろう。

 宮殿に戻ってから、憤慨したタラから長々と説教を食らったことは言うまでもない。

「おまけに私を撒いて、知らない男の人と歩いてらっしゃるし……思い出しただけで、卒倒しそうです」

 祭の喧噪の中、一国の王妃の姿を見失ったことを、ノウラは「あの時は死を賜る覚悟をしました」と悲壮な面持ちで振り返り、「大袈裟よ」とラクシュミーがいなした。

「困ってる人を助けるのが、そんなにいけないこと?」

 ラクシュミーは唇を尖らせる。スリに遭遇したイギリス人青年を助け、ついでに道案内をしただけで――露店を冷やかしもしたけれど、あくまでついでのついでだ――、どうしてここまで責められねばならないのだろう。

 あの人波の中、かの青年は水面に浮かぶ一滴の油だった。まだ来て日も浅いと、ラクシュミーは一目で分かった。

 ビトゥール邸にもたびたび姿を見せたイギリス人は、皆東インド会社の社員たちだった。今でこそ養父の監視のためだと分かるが、事情を知らなかったラクシュミーは、引き留めるナーナーを振り切って、好奇心のおもむくままに質問責めにしたことがある。

 例え、下らない質問でも、彼らは邪険にせず、幼いラクシュミーともちゃんと目線を合わせ、流暢なマラーティーで答えを返し、時に冗談すら言う余裕もあった。

 彼らは一様に礼儀正しく、インド各地を巡っているせいか日に焼けていて、ヒンドゥスターニーからペルシャ語までを流暢に操る。

 それもそのはず、彼らは何年にも渡りイギリスでトップクラスの教育を受け、なお且つ会社が経営する養成学校を出ている。語学を初めとして、インド歴史や法律の知識、政治経済まで叩き込まれた、いわば精鋭だけがこの地を踏める。

 あの青年も、見事なヒンドゥスターニーを紡いだ。一朝一夕の努力で身につくものではないだろう。

「マヌ様はもうご結婚されたんですよ。それでなくても女性なんですから、パルダーの内側にいるのが当然じゃありませんか」

 女は初潮を迎える頃から、男の目に触れずに生活することが望ましい。だが、ラクシュミーに限りこの戒律はないことにされていた。養父は婚礼の打ち合わせで、ラクシュミーがパルダーの掟を知らぬことを伝えていたはずだ。

「わたしにとっては当然じゃないわ! それをタラ・バイに分からせるのよ!」

「――左様でございますか」

 ラクシュミーが拳を握りしめ、力説したところに冷ややかな声が降ってきた。少女二人は肩を震わせ、恐る恐る振り向く。

「ラクシュミー様の仰る常識に、理があるならばわたくしも従いましょう。じっくりお聞かせ願えますか?」

 案の定、背後には怒りを押し隠したタラ・バイと数名の侍女がおり、周囲の人垣が割れてちょっとした見世物になっていた。

 ラクシュミーは覚悟を決め、タラに向き直ると腰に手を当てた。

「ええ。もちろん、そのつもりよ。ノウラ、宮殿に戻りましょう」

「えっ、はっ、はい!」

 ラクシュミーの突然の変節に、ノウラはきょとんとしながらも、機会を失うまいと力強く頷いた。ラクシュミーは来たときと同じく、堂々と歩を進め、タラたちを先導する。華やかなサリーの群が去った後、その場には沈黙が落ちた。

「……あれが、王妃殿下?」

 ややあって、呆気に取られたような呟きが、誰かの口からぽつりとこぼれる。馬場の象のことなど忘れたかのように、ラクシュミーの小さな背をいつまでも見送っていたのだった。

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