第3話 Temporary Residence 寄留 1

 目覚めた時、部屋には明かりが満ちていた。余りの眩しさに目をすがめつつ、Kはゆっくり身体を起こした。

 南側の窓から朝日のようなものが差し込んでいる。だが・・・、確かここは。

 Kは昨日のことを思い出していた。この部屋は地下、それも相当深いところにあるはずである。

 それにも関わらず、その光は部屋の一角の厚いガラスの向こう側から惜しみなく降ってきている。ベッドを離れたKは、その一角に近づいて光源を確かめようとした。ガラスは光に満ち、その残余を溢れさせている。まるで朝の湖のようなてらいのない明るさであった。

 どうやら反射を利用して採光しているようだったが、その仕組みまでは良く分らなかった。きらきらと零れてくる光にKはそっと身を寄せた。光は懐かしく、眩しく、少しだけ暖かかった。

「おいでよ・・・」

 ふと、声が聞えたような気がした。

「こっちへ、おいでよ」

 呟きがそのユウの声に似ているような気がして、Kは降ってくる光の先を見つめた。

 そこには光の束が虹色に分光して、その向こう側を観ることはできない。


 その時、部屋の扉が小さくノックされた。Kは扉に駆け寄った。

「誰?イシさんですか?」

 ドア越しに尋ねると、

「朝食を持って参りました」

 答えたのは若い男の声だった。

「あ・・・」

 扉を開けると、そこには大きなマスクを付け、長い髪を後ろに束ねた男が立っていた。ゆったりとした白い裳裾もすそが地面近くまで垂れている。

「おはようございます」

 落ち着いた口調で男は挨拶をした。

「おはようございます」

 Kは慌てて挨拶を返した。すると、穏やかな目を微笑ませて、

「朝食はテーブルの上で宜しいですね」

 男は言いながら、ワゴンを部屋の中に入れると、確認するようにKを見た。

「あ、はい」

「どうぞごゆっくり。食べ終えられたころにイシ様が来られるということです。どうぞごゆっくり」

「分りました」

 小麦の少し焦げた匂いに空かせた腹と心が強く惹かれた。


 朝食のプレートにはトーストが2枚、牛乳とジュースがなみなみと注がれたグラスがそれぞれ一つずつ、焼いたベーコンとスクランブルエッグ、その他にナッツとバターが一片載っていた。

 豪勢と言うほどではないが、修道院の時の食事に比べるとずっと丁寧な作りで美味しそうな香りがした。

 そういえば、Kは思い起こした。昨晩は結局夕食を摂らなかったのだ。それを忘れるほどの圧倒的な存在感がこの建物にはあった。腹の虫が激しく鳴るのは一食分をぬいたためであろう。がっつくようにしてプレートの上にあるものを食べ終え、飲み終えると、Kは改めて部屋の中を見まわした。

 「シャワーを浴びよう」

 Kはひとりごちた。旅でついた汗や埃を落さないまま眠ってしまったのは迂闊な話だったが、昨夜の疲れを考えれば仕方のないことだった。だが、着替えを持ってきていない・・・。

 諦めきれずにシャワーのある浴室に向かった。浴室の方にも寝室と同じように地上からの光を取り込む仕組みがあって、作り付けのワードローブがあることが分った。それを開けてみると、何枚かの下着と、ベージュの着物が数着畳んでおいてあった。

 着物を取り出し広げて見ると、それは身体をすっぽりと包むような1枚の織物で、今まで着ていた上下に分かれたシャツとズボンとは全く違うものであった。さっき部屋に朝食を持ってきたものと色が違うだけで、同じデザインである。

「これは・・・」

 どこか頼りなげなその衣装に首を傾げたが、取りあえずシャワーを浴びることを優先した。下着は今まで着ていたものと変わらない。着ているものを脱ぎ、後で洗うことにして、Kはシャワーを浴びた。

 シャワーの水はちょうど良い温かさであった。修道院のシャワーは水だったので冬は凍えるほど冷たかったが、それに比べれば夢のような心地よさである。湯に暫く身体を打たせ、それから置いてあったタオルで身体を擦ると、ずいぶんとさっぱりとした。下着をはき、それからさっきの着物を取り出して恐る恐る首を通して見た。サイズはぴったりだったが、なんだか腰から下がすうすうして心許ない。着てきたものを桶に入れ洗うと、土埃で水が真っ黒になった。何度かすすぎ、絞った上で洗濯紐のようなものに吊した時、再びドアがノックされた。

「イシだ」

 扉の向こうから野太い声がした。

「あ、ちょっと」

 そう言いながら、ドアに駆けより扉を薄めに開けると、向こうからイシのいかつい顔が覗いた。

「どうしたのだ?そんなに慌てて」

 イシの問いに

「シャワーを浴びたところで・・・」

 と曖昧に答えると

「うむ」

 とイシは頷いたが、答えの先を待っているような響きがあった。

「着替えが・・・」

 Kの言葉に

「着替えは置いてあっただろう?」

 とイシは尋ねた。

「あ、でも・・・」

「まあ、いい。取りあえず扉を開けろ」

「はい」

 素直に扉を開けるとそこにイシが立っていた。

「なんだ着ているじゃないか」

「・・・」

 目の前にいるイシも同じようなものを着ていたが、色は薄い青だった。

「イシさんも・・・?」

「ああ、ここではこれが一般的な着物だ。外の世界には滅多に出ないからな。別に活動的な衣装を着る必要はない。俺もここではこれを着ている」

「そうなのですか」

「うむ、むしろここではこれを着ていないとまずい。余所者に間違えられる」

「そうなのですか?」

「そうだ」

 と言うと、イシはちょっと待て、というと部屋の奥の明かり窓の所に行った。そして、

「時間が来た。そろそろ行かねばならぬ」

 と告げた。

「これで、時を知る事ができるのですか?」

 Kの問いに、

「ああ、機械仕掛けの時計は少ないからな。ここには日時計がある。よほどの天気でない限り、覗けばだいたいの時間はわかる。修道院でもそうだったろうが、時間は凡その目安だ」

 とイシは答えた。

「シャワーの棚に履き物がある。それを使え」

 イシの言うとおり着物の入っていた棚の最下段に皮のようなものでできたサンダルがあった。母趾と第二趾の間に留め具のある、柔らかで履き心地の良いサンダルであった。

 それを履き、部屋を後にして、廊下に出るとひんやりと湿った空気と薄暗がりが広がっていた。といっても、何も見えないほどの闇では無く、暫くすると目が慣れてくる。人が十人ほど行き交うことのできる広い通路であったが、誰とも出会うことなく、イシとKは並んだまま歩き続けた。

「いったい、ここは・・・。ここにはどれほどの人が住んでいるのですか?」

「ここか、ここには500ほどだ。だが、ここの横には居住区がある」

「居住区・・・?」

「そうだ。そこには全部で2万ほどの人間が住んでいる」

「2万?」

 その多さに目を見開いたKであったが、イシは

「だいぶ少ない。以前は倍ほどはいたのだけどな」

 と答えた。

「少ない・・・のですか?」

「そうだ。ここで生きる人々には一定の資質が求められている。その資質を充たすことのできる人間が減っているのだ。まあ、その説明は俺からではなくこれから会う人に聞け」

「はい」

 突き当たりにゆらゆらと灯りが見えた。

「そこからは階段がある。降りていくのだ。何、今度はたいしたことはない」


 地下にあるその構造物は、壮大な高さを誇っていた。先ほどの階段を十段ほど降りたところに重い扉があって、それをイシが指さした。

「押してみろ。新しい世界への扉だ」

 イシの指示通り、押してみると重くはあったが、きちんと油が差されているのだろう、意外にスムーズに扉は開いた。その眼下には広大な広さの地下講堂が広がっていた。地下講堂の所々に仕切りのような高い壁が幾つかあるばかりで、それ以外は柱一つない。壁には全て棚のようなものが設えられているのが、ぼんやりと見えた。

 まるで、神殿のようだ・・・。そう、神殿。僕はその単語をいつ知ったのだろう?呆然とその景色を眺めているKに向かって、

「さあ、降りていこう」

 イシは背後から声を掛けた。

 見上げるほど高い天井は途中に吊された幾つかの灯りによって照らし出されてはいるものの、灯りはその全容を示すには余りに弱く、やがて薄暗がりに沈んでいく。K達が降りてきた階段もその薄暗がりの中に溶け込んで、判然としなかった。

 地表近くの壁にはそれを補うように幾つもの電灯が据え付けられていて、並び立つ幾つかの書架と、その奥にある施設を照らし出している。Kは呆然としたまましばらくその景色を眺めていた。

 修道院には一つの書物もなかった。字は覚えさせられ、毎日、院に伝わる「掟」を書かされたが、それは書という類いのものではなかった。

 Kはその書架から一冊の本を引き抜き目を通そうとしたが、灯りは余りに薄暗く文字は判然としなかった。諦めようとしたとき、突如、開いたページに光が差し込んだ。驚いたKが視線を上げると、天井の一角から差し込んだ光がKの視線を避けるように素早く動いた。もう一度、本を開くと再び柔らかな.、だが十分な明るさが手元を照らした。どのような仕組みかは分らないが、この施設には不思議な機能が備わっているようだった。イシは背後でそんなKの様子を何も言わずに眺めている。

 書物にある見覚えのある文字を辿っていると、不思議に時間が経つのを忘れ、Kは立ったままその本のページを何度もめくり続けた。そこに書いてあるのは「生命のなりたち」についての記述であった。

 太古、この大地は灼熱の地であり生命はどこにもなかった。気の遠くなるような時間の後、大地は冷やされ海が産まれ、そこに生命が誕生した。やがてそれは時と共に複雑なものに生まれ変わり、人間が産まれた。要約するとそんなことが書かれていた。

 Kは奇異な思いでそれを読んだ。いったい、これはどうして分ったのであろうか?これは真実なのであろうか?読めば、様々な証拠がそれを示していると書かれている。構成する物質の年代測定、様々な生物の残渣ざんさ、そうした証拠をもとにそうした説が成り立っていると書かれている。それがどんな方法によるものなのか、Kには想像さえつかなかったが、正誤を判断することは難しかった。もし、そうであっても、そうでなくても「それを検証することはできない」からである。

 そしてもう一つの謎は、「どうして生命が誕生したか」が分らなかったからである。生命は「それまでなかった」ものなのになぜ「条件が揃えば誕生するものだったのだろうか」それは無から有が産まれたようなものである。

 

 Kが更に読み進めようとしたとき、突然辺りが明るくなった。驚いて目を上げたKであったが、書を読んでいたために細めていた目に圧倒的な光が流れ込んだせいで、頭に衝撃が走り思わず手で顔を覆った。

「ようこそ」

 柔らかな中音域バリトンの声が響いた。それは今まで聴いたことの無いような、耳に快く響く音であった

 光の射す方角に、人影が見えた。

「驚かせてしまいましたかな。余りにあなたが熱心に読んでおられるので、暫く様子を眺めていたのですが・・・」

 目が光に徐々に慣れてくる。そこには白髪の下に瞳をきらきらと輝かす、背の高い赤ら顔の男が微笑みながら立っていた。男はKやイシと同じゆったりとした衣服を羽織っていたが、その色はオレンジのような色合いであった。その背後にイシと数人の人々がやはり微笑を浮かべて立っている。

「申し訳ありません」

 そう言いながら慌てて抜いた本を書棚に戻そうとしたKを押しとどめるように、

「どうぞ、そのまま。せっかく読み始めたのですから最後までお読みになるが宜しい。時間はたっぷりあります」

 男は言った。Kは躊躇った。すると、

 「わたくしがお持ちしましょう。後でお読みなさいませ」

 男の背後にいた人々の中から軽やかな少女の声がした。

「そうするがよい、鈿女うずめ

 男が言うと、するすると女が前に進み出た。女はKと同じベージュの着衣を羽織っていた。

「こちらへ」

 差し出した華奢な白い手を眺めながらKが読んでいた本を手渡すと、女は懐から紙を取り出して、それを開いた頁に差し込んだ。そしてKにちらりと視線を送ると、すぐに視線を落し、そのまま男の後ろへ退いた。

 「わたくしはアメノフユと申します」

 男は荘重な声で自己紹介をした。

「アメノフユさん・・・。私はKと申します」

「存じております。Kさん。ようこそシェルターへ」

「シェルター・・・」

 イシがヴァルハラと呼んだものの正体はシェルター、そうシェルターというのは身を守る為の遮蔽物のことである、とKは思い至った。しかしこの言語記憶は・・・どこから湧き出てくるのであろう?

「そうです。ここはシェルター。「鼠の巣」とも呼ばれていますが、正式にはN-T-2と呼ばれるシェルターです」

「N-T-2、ですか?」

「そう、その通り。昔の人々がこれらの書籍、そして様々な文化財を保護するために作ったものです。ここにあるのは書籍、書籍だけで五層になっていますが、その下に更に三層の文化財保護シェルターが存在しています。更に技術関連、医療関連・・・」

「ちょっと待ってください」

 戸惑ったようなKに表情に男は微かな笑みを浮かべ、

「そうですな。いきなりそんなことを言われても・・・。それについてはのちのち鈿女が詳しく説明します。よいな、鈿女?」

「はい」

 Kを見つめた女の表情は何か珍しいものを見るような好奇心に溢れていた。

「あなたには、この鈿女と一緒に働いて戴くことになります。よろしくどうぞ」

「あ、いえ、こちらこそ」

 Kの答えを聞いて、好奇心に満ちていた少女の表情に羞恥心しゅうちしんのような色が混じった。

 睫の長い、色白の少女だった。


 集まりはそれで終わり、翌日から同じ場所で仕事場と仕事の内容を鈿女から説明を受けるということだけが決まり、Kは解放された。帰りもイシが付き添ってきたが、Kの部屋の前に来ると、イシは右手を指しだした。

「俺はもう行かねばならぬ。さらばだ」

 イシは簡潔に別れを告げた。

 イシは去ると言っていたが、これほど早い別れになるとは思っていなかった。

「残念です。また会えますか?」

「そうだな、そういうこともあるかも知れない。俺は往来をしているからな。またここに来るかもしれぬ」

「他にも・・・こういう場所があるのですか?」

 Kの問いにイシは曖昧な表情を浮かべた。

「そういうことは俺に聞くな。だが、ここに戻ってくることはあると思う。既に何度か来ているからな」

 イシがこの場所で見せた慣れはそのあかしだった。

「待っています」

 Kの言葉にイシは苦笑を浮かべた。

「俺を待っていても仕方ない。ここで言われた仕事をするが良い」

「そうですね」

 Kは答えた。

「そうしたらまた、一緒に旅をできるでしょうか?」

「どうだろうな・・・」

 イシは首を傾げた。

「俺と一緒に旅をすることは必ずしも良いこととは限らない。だが、いずれ分ることよ」

 イシが差し出したままの手をKは握った。

「会えることを楽しみにしています」

「うむ」

 イシは力強く頷いた。そしてKの手を握ると耳元で

「約束を忘れるなよ」

 と囁いた。それはイシ自身の出生に纏わる秘密のことに違いなかった。Kは、果たしてそれが分かるのか、と心許なかったが、その分だけ強く頷いた。 


 イシが去った後、思いも掛けぬ喪失感がKを襲った。それまで、そうした感情を抱いたのはユウに対してだけだったような気がする。あんなに短い時間だったのに、イシは思ったより深くKの心の中に食い込んだようだった。

 そして、なぜかさくらのことを強くKは思い浮かべた。たった一度の交わりだったが、それはKにとって最初の交わりであり、どういうわけかさくらとイシはKの心のなかで結びつく存在だった。

 イシと再び会うことがあれば、またさくらというあの女とも会うことができる、そんな気がした。


 翌日、前日と同じ若い男が朝食を持ってKの部屋を訪れた。顔と身体を洗い、着替えをしたばかりのKがドアを開けると、青年はおはようございます、と挨拶して部屋の中へ入ってきた。その青年に向かって

 「あなたの名前は何というのですか?」

 Kが尋ねると、男は困ったような顔をした。

「それは・・・。私の名前が必要でしょうか?」

「できれば。僕に教えると何か不都合なことがありますか?」

「いえ・・・」

「僕の名前はKといいます。凄く単純。こういう字です」

 Kは朝食に添えてある紙のナプキンに部屋に置いてあった鉛筆でKの字を書いた。

「たった3本の線で僕の名前はできています」

「はい」

「あなたは?」

「くくちの、と申します」

「くくちの・・・?」

「ええ」

 男は口に出したことを悔やんだかのように、一瞬、ため息をつくと、

「妙な名前ですよね」

 と呟くと鉛筆と紙を取り出して「くくちの」と書いた。

「私は五本。曲がりくねった線です」

「僕よりは良いんではないですかね?Kなんてなんだか単純すぎて」

「そうでしょうか?」

 男はそういうと、K・・・さんと小声で呟いた。

「呼びやすいです。でも僕の名前は呼びにくいでしょう。くくちの・・・。その上、なんだか妙なのです。僕は名前を呼ばれると、心が鷲掴みにされるような気がして。だから余り人に名前を呼ばれたくないのです」

「そうですか、ではこれからなんとお呼びしたら良いのでしょう?」

「僕の名前を呼ぶ必要がありますか?」

 青年は

「そうですね。たとえば、何かが欲しいとき、呼びかける必要があるでしょうから」

「そうですか、そうですね、そんなときは君と呼んでくれれば良いです。あなたと私しかいないですから」

「そうですか」

 Kはそれ以上、くくちのを追い詰めるようなことをしたくなかった。

「では・・・君」

「はい、なんでしょうか?」

「もしできたら、牛乳をもう一杯持ってきてくれるとありがたいんですが」

「分りました」

そう答えて、すぐに戻ろうとしたくくちのに

「いや、今日はもういいのです。明日から」

「そうですか。分りました。そのように致します」

 青年は微笑を口の端に浮かべた。

「食事を終えたら、昨日の広間へおいでくださいとの鈿女様からの言伝がございます」

「ああ・・・分りました」

 Kは答えた。長い睫を携えた横顔が瞼の裏に浮かんで・・・消えた。


 食事を終え、暫く躊躇った後にKは昨日と同じ通路を通って階下へと向かった。なぜ躊躇ったのか、K自身にも良く分らないが、なぜか鈿女と呼ばれる美しい少女と二人きりになることが気重に感じられたのだ。

「どうしてだろう?」

 Kは自問した。

「美しい娘だ。さくらよりも恐らく年も若い。僕のことを嫌ってもいないようだ」

 そう思いつつ、Kは薄暗い通路を進んでいった。女という生き物を知って僅か2日のうちに、Kはその存在が自分たちにとってとてつもなく重い存在であることを知っていた。その重さが彼の心にのしかかっていたのかもしれないし、情を交わしたさくらに義理を感じていたのかも知れない。


 階段を下り、広間へと降りていくと昨日は置いていなかった大きな机が書棚の前に運び込まれていて、その上に二つの灯りが置かれていた。鈿女はその一つの灯りの下で何冊かの書物を脇において何かを書いているようだった。

 空気の動きで察したのか、或いは忍び足でもその跫音が届いたのか、Kが近づくとふと、少女は顔を上げて眩しそうにKを見た。

「おはようございます」

 くっきりとした声だった。その声の調子にKの重い気持ちは溶けた。

「おはようございます」

 そう答えると、Kは鈿女の斜向かいに置いてあった椅子に腰掛けた。

「では、明かりを」

「明かり?」

 Kの不思議そうな顔を一瞬、見つめると鈿女は小さく頷いて息を吸った。そして、澄んだ高い声を放った。その声に応じるかのように、広間のあらゆる壁が光を帯び、輝きだした。その光はKの部屋に降りそそいでいた明かりと同じ性質を帯びていたがその何倍も、いや何百倍も明るかった。余りの明るさに顔を覆ったKに向かって、

「さあ、先ずこの広間にあるものを全てみてみましょう」

 鈿女はKの手を取った。


 鈿女の起こした灯りも圧倒的だったが、溢れかえるような光の中にそびえ立つ棚の風景は更に圧倒的だった。高さは恐らく15メートルほどの書棚は机の置いてある場所から、奥へと無限であるかのように続いており、その真ん中にやはり15メートルほどの通路が開いていた。

「これは・・・」

 膨大な書物が山脈のように連なっていた。先が見えぬほどの広大な敷地に連なる書棚それぞれが光を帯び、中に入った書物を浮き上がらせていた。

「どれほどの数が?」

「数を聞いてなんとなさいます?」

 鈿女は尋ねた。

「もし、数を知ってその数に押し潰されては何もなりますまい。ナブ・アヘ・エリバのように」

「押し潰す・・」

 確かに圧倒的存在感があった。しかし、ナブ・アヘ・エリバとは・・・どういう意味だ?

 鈿女はそんなKの疑問を知ってか知らずか、手を握ったまま前へと進んだ。書棚はどこまでも続いていた。左右に70まで数えたときに向こう側の限りが見えてきた。そこに至るまで更に18、合計88の棚が並んでいるのだった。

「凄いですね」

 Kは思ったままのことを言った。

「これはどうやって集めたものですか?」

「志のある人たちが語らい合って、互いに融通したものです。これと同じようなものが、世界にはもう3つあります。本当は10あるはずだったのですが」

「10・・・」

「ええ、ですが残りの7は駄目になってしまいました」

「・・・」

 どうして、と聞くのがなぜか躊躇われた。握った鈿女の掌が少し強く握り直された。

 そして突然光は落ちた。


 もとの机のあった場所に戻るのには、鈿女が握った手と別の右手に持ったしょくだけが頼りだった。ゆらゆらと揺れる炎のようだったが、素性を尋ねると鈿女は首を振った。

 「ここでは火は使いません」

「火は・・・使わない?」

「ええ、もし燃えてしまったら困るでしょう」

 そう言うと、少女は燭を持ち上げ書棚を照らした。

「ああ・・・」

「これは炎に似せた光です。熱もありません」

「そうなのですか・・・」

「火は私たちの味方であり敵でもあります。光も同じ。先ほどもうしました残りの7つの書庫は全て燃やされてしまったのです」

「燃やされた・・・誰にですか?」

「それ以上の事は私には・・・。もしお知りになりたければ司書長様に聞いてください。或いはあなた自身が調べてください。この書庫の中にはそれを知る手がかりがあります」

 少女は頑なな表情をすると美しい睫を伏せた。

「司書長様・・・?」

「アマノフユ様のことです」

「ああ」

 Kは頷いた。昨日出会ったバリトンの美しい声の男のことであった。

「では、もう一つ、別のことを聞いて宜しいですか?」

「何でしょう?」

「あなたの声で、この広間には光が満ちた。なぜですか?」

「ああ、そのことですか。何の不思議もございません」

 少女は目見まみをあげた。

「そうなのですか、僕には見当も付かないのですが」

「それは・・・。この場所とわたくしがそういう風に作られたからです」

「・・・」

 分ったような分らないような答えだった。

「では、昨日の光もあなたが・・・?」

 Kの問いに少女は恥じらうように顔を染め、頷いた。

「でも、どうして光を入れたままにしないのです?」

 Kの問いに

「光は書物を壊します」

 即座に鈿女は答えた。

「この光は明るさはありますが、書物に影響のある光線は極力、取り除いています。それでもなお光はものを照らす代わりにものを壊します」

「なるほど・・・」

 Kは頷いた。全ての事柄は何らかの代償を常に求める。そういうことなのだ。

「それに・・・」

「それに?」

 Kの問いにどこか愁いを帯びたような表情を見せた少女は、

「智は闇の中に置いた方が宜しいかと」

 不思議な言葉だった

「しかし、それでは・・・智は無駄になりませぬか」

「ええ、もちろんですわ。だからこそ選ばれし者たちのみがここにくることができるのです。智はそうした者が大切に扱うべきものなのです。愚かなものたちが智を使えば悲劇が起こる、そうではありませぬか?」

「・・・」

 その問いに対する答えは持ち合わせていなかった。

 それにしても彼女の言う事を信じれば自分も「選ばれし者」なのだろうか?そして、選ぶのは一体誰であるというのか?

「それで・・・僕はここで何をすれば良いのでしょう?」

「そうでしたね。先ずそれを説明しなければなりませんね」

 少女は微笑むと、繋がれたままの手を引っ張った。

「ここには、様々な書があります。それらを分類して再統合する、それが仕事です」

「再統合?」

「ええ・・・」

 少女はKの問いを予期していたように少し表情を強張らせた。

「作り直す・・・ことだそうです」

「作り直す?」

「ええ」

 鈿女は目を伏せた。

「そういう命なのです」

「命・・・」

 ここにくる前、ドナルドの葬儀の時に同行した曽良も同じ言葉を使っていた。

「命とは何ですか?」

「命は命です。この世を正しく導くために発せられるもの」

「それは誰が、どうやって発するのですか?」

 Kは問い詰めた。

「詳しくは父に・・・いえ、司書長様に」

 鈿女は口に手を当てた。

「司書長様は、あなたの父親なのですか?」

 少女は目を伏せた。

「そうです・・・」

 この世界で「親」と「子」が一緒にいる、というのをKは初めて見た。

「しかし・・・それは」

「そうです。とても例外的なこと。その理由もいずれあなたは知る事になるでしょう」

「・・・。しかし、これほどの書物をあなたと僕の二人だけで・・・なんとかできるとは思えません」

 Kは率直に言った。

「無論です」

 鈿女はあっさりと答えた。

「ですが、この仕事は数代に亘り、先ほど申し上げたとおり様々な場所で行われてきたのです」

「なるほど」

「ですから、私たちはまだひもとかれていない書物を繙き、それを既に解明されているものと関連付け、読み進めることを求められています」

「そうすることで何かが起きるのですか?」

「何かが起きる、或いは何かを起こさせない。そういうことだと聞いています」

「何かを起こさせない・・・?」

「ええ」

「司書長様もずっとこの作業に携わってこられました。そしてこのたび、あなたを迎えてその仕事を終え、智の統合をするお仕事につかれることになりました」

「智の統合・・・」

「代々、持ち回りで行う仕事です。さきほど申し上げました通り、今は7つの場所で同じ作業が分担して行われています。しかし、それを統合して関連付ける作業は5年に一度、各所のものたちが集まって一堂で行うことになります。そしてそれは5年の後、この地で」 

「・・・」

 思いもしなかった成り行きにKは呆然としていた。いったいこの少女は何を言っているのだろう?

「私が教えて差し上げるのはここまでです。さあ、仕事にとりかかりましょう」

 少女は書物棚を向き直った。

「あなたが来られるまで、暫くの間、私が一人で読み解き整理して参りましたけど、今日からは二人で執り行うことになります。その最初は・・・」

 鈿女が軽く右と左の人差し指を触れあわせると、書棚の一つ、右の手前から5番目の書棚が薄緑色の光を帯びた。

「あそこに参りましょう」


「私たちは宗教、哲学、人文科学を主に司っています」

「・・・」

「先ずは基本的な命題・・・。これは既に何十度かの智の統合の会議によって参加者が共有したことにより導き出されたことです。この世界における最大の問題は智の跛行はこうだという認識です」

「智の跛行?」

 その時、Kは不思議な感覚を覚えた。それまで「跛行」などという言葉を聞いたことが無かったのにも関わらず、それが「足並みがそろわずふらふらと進む状態」である、ということを明確に認識したのだ。

「ええ。つまり、知的な作業をおおざっぱに分類したとき、例えば科学の分野と人文の分野が、『共に進むことができない』という命題です。これは主に西方、昔オイロパと呼ばれた地域にある施設から提唱されたもので、そこでは科学、とりわけ生命学と科学の分野の研究を取り扱っているものがいます」

「そうなのですか・・・」

軽く頷くと少女は書棚から一冊の薄い本を引き抜いた。

「まずはこれから・・・」


 Kはその本を読み始めた。短い章で成り立つ簡潔な文章が並んでいるもので、一時間もしないうちに読み終えた。

「やはり・・・」

 鈿女はKの様子をじっと眺めていたが、Kが本を置くと呟いた。

「やはり?」

「ええ」

 鈿女はKの置いた書物を手に取るとパラパラと頁を捲った。

「あなたにはこの本が読める」

「ええ」

Kは怪訝な目で鈿女を見た。

「では、こちらを」

鈿女は今度は別の棚から前の書物よりもかなり厚めの本を引き抜いて、Kに手渡した。

「これですか?」

「ええ・・・」

 Kは目を通し始めた。書き方は先ほどの書に似ていたが、その趣旨は全くというほどに異なっていた。最初の書物が真理を諦観のような静の中に見つめて透視するようなものだったのに、この書は、遙かに攻撃的な動の書であり、動こそが人間の在り方だと説いていた。

 読み終えるにはさっきより少し時間が掛かったが、Kは暫くするとその書を机の上に置いた。

「いかがでしたか?」

 鈿女の問いにKは自分の抱いた感想をそのまま伝えた。

「・・・」

 鈿女は話し終えたKをじっと見つめた。その表情はどこか敬愛と畏れとが交じったような表情であった。

「司書様が仰っていたのは本当だったのですね」

鈿女の言葉に、

「どういうことですか?」

とKは尋ねた。

「あなたはこちらの書も、こちらも」

と、机の上に置かれた書物を指し示すと、鈿女は囁いた。

「どちらもあっという間に読み終えました。でも、この本は全く異なる言語で書かれたものです」

 Kは置かれた書物に目を遣った。確かに・・・。書物の表紙に書かれた文字は全く異なるものであった。だが、Kにはいずれもその文字が何を意味するのか明確に分った。それは異なる山の景色でも、いずれも「同じ山」というような同質性を持っていた。

「なぜでしょう・・・」

 Kは呆然としていた。

「それはあなたがある使命を帯びてこの世に生を承けたから、と私は聞いております」

「使命・・・」

「そうです」

「それは何でしょう?」

「いずれ、あなたは私たちの歴史を学ぶことになりましょう。あなたの能力があればそれは容易いこと。ですが、先に見えているものがあれば辿り着くのはより容易であろうとの司書様のお言葉もありました。ですから、私からお話しするようにと」

「・・・はい」

「この世界は・・・既に何度か滅びかけております」

「滅びかけた・・・」

「ええ」

鈿女は頷いた。

「確実に言えるのは4度、一度は地震、一度は洪水、一度は火、それらは有史以前の事柄ですが伝説として残っておりました」

「・・・」

「それらの伝説はもちろんこの書の中にあります。しかし最後のものは有史の中、に存します」

「それは・・・」

「戦争です。しかし、実際は戦端は開かれなかった。その代り、とある怒りが戦争に関わる全ての人を殺し、この世界の動きを止めたと言います」

「・・・」

「その経緯は司書様が詳しくあなたにお伝えすることになっております。なぜか、そのことは書にすることを堅く禁じられているのです」

「ですが・・・」

 鈿女は目を上げて広大な書棚を見上げた。

「この施設を作ることに賛同した10の団体、彼らはその戦闘を止めるために尽力すると同時に後世に歴史を伝えることを目指してこの施設を作りました。そしてその団体に関わる人から一人も死者はでなかった。つまり怒りを買う人はひとりもいなかった。それが我々の正しさを証明していると考えています」

「怒り・・・それは誰の怒りなのですか?」

「それを神というのは容易いことですが、私たちにはわかりません。しかし、それが何か人智を超える強力なものであることは間違えありません」

「・・・」

「しかし、彼らは私たちを屈服させようとしているのではない、私たちはそう考えています」

「それはなぜでしょう・・・?」

「もし屈服させようとするならこれほど迂遠なことをする必要がないからです。自ら姿を現し、人類を奴隷のように扱うか、ないしは鏖にすればすむこと」

 鈿女の言葉にKはなるほど、と頷いた。

「ですが・・・」

「はい」

「いよいよ、私たちはその怒りが最後の段階に入っているのではないか、と恐れています」

「それは・・・」

「これ以上の理不尽を続けるならば、人類は滅びても構わないと・・・彼らが考えているのではないかと」

「それは何故ですか」

「それは・・・司書様からお話しがあるとおもいますが・・・一言で言えば」

「はい」

「教えがないからだと・・・」

「教えがない」

「ええ・・・ですが、それについては司書様からお聞きください。何が起きたのか、そしてどうしてそこに教えがないと思うのか、それについてはわたくしからの説明では十分ではないと思いますから」

「そうですか、分りました」

Kはため息をついた。どうも、この世界には計り知れぬ秘密があるようだった。

「それにしても私は・・・なぜ、さまざまな言語を知っているのでしょう?」

 Kにとってはそれは大きな謎だった。K自身、日常で使う言葉の読み書きには困ることはなかったが、それは修道院に行く前、まだ幼い頃に学んだからで、その言葉を使うことはあってもそれ以上の言葉を学ぶような機会はなかった。

「それに関わる別の伝説があります」

 鈿女が答えた。

「伝説・・・」

「はい。それも怒りに関わること、ですがその時は滅亡に繋がるような怒りではなかった、そう伝えられています」

「それはどのような・・・」

 何か悪い予感がした。だがKは聞かざるを得なかった。 

「古代、人間は同じ言語を有していた。ですが、ある民族が天に通じる塔を建てようとして、それを阻まれた。その阻む手段が言語の分裂だったという」

「・・・」

 一瞬、Kには鈿女の言葉の意味が分らなかったが、途端に眼前に広大な土地、そこに聳える灰色の塔が浮かんだ。

 雷鳴が轟きその塔が粉砕される場面が脳裏に映し出された。しかし、なぜか塔から墜落した人々は悲鳴を上げ地面に打ち付けながらも、立ち上がり四方八方に逃げ出したのだ。とてもあり得ない光景だった。なぜなら彼らが墜落したのは雲にも達する塔の上からからで、地面に叩きつけられたらとても生きていることのできないほどの高みからだったからである。Kはその高みと地上を自在に目視できた。墜ちていくものの恐怖の表情も地面に叩きつけられた時の衝撃も全て目にした。壮絶な光景にK自身が恐怖の叫びを上げた瞬間、

 肩に置かれた手にKは正気を取り戻した。

「見えたのですね」

 鈿女は囁いた。Kは頷いた。身体はまだ震えていた。その震える身体を鈿女は背後から抱いた。

「大丈夫です」

身体の震えはまだ止まらなかった。だが鈿女の柔らかな乳房がKの背から震えを少しずつ吸い取っていった。

「やはり、あなたは・・・」

 鈿女は彼の身体を抱きながら呟いた。

「父が・・・いえ、私たちがずっと探し求めていた人だったのですね」


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