Adolescene(思春期):(人類の終わりは世界の終わりではない II)

西尾 諒

第1話 departure:旅立ち 1


 修道院を出て、すでに半日が過ぎていた。

 先導している男は黙々と、揺らぐことのないペースで歩を進めていく。坂や疲れでKの足取りが重くなり距離が離れると、気配で分るのか男は歩を緩め振り向き、微かな笑みを浮かべる。仕方なしにKが足を早めて前に進むと小さく頷いて男は元のペースで歩き始める。そんなことが既に両手で数えることができないほど続いていた。滴り落ちる汗を拭うと、Kは再び男の背を追った。


 その日が旅立ちの日である事は修道院の皆が分っていた。Kもその日が修道院の期限となるものたちと同じく前日に準備をすませた。

 前日の夜は旅立ちに心がざわめき良く眠れなかった。その上、曽良が伝えたことの意味を咀嚼そしゃくする必要もあった。皆がおもむくのと別の場所?そこにはいったい何が自分を待ち構えているのであろうか?

 だが幾ら考えても、先行きの景色は見えなかった。幼い頃、集団で暮らしてきて以来、修道院以外での生活を知らないKに、明確な未来の姿は描くことはできないのは仕方のないことであった。よく眠れないまま迎えた朝早く、院長が呼んでいる、とドアをノックした曽良に告げられ、目をこすりながら院長室に共に入った時、院長とその男はテーブルを挟んで腰掛けていた。

 腰掛けていてもその男の背が高いことは明らかだった。院長よりも頭一つ、抜きん出た男は入室したKに顔を向けた。ただ、彼はフードのようなものを被り、マスクをしていたので、それらの奥に隠された容貌も表情も見ることはできなかった。修道院で一番偉い院長にさえ顔を隠すその姿は、どこか不遜ふそんな気がした。

 男はすっくと立ち上がり、片手を差し出した。その行為は、一見不気味さを醸し出していた男の雰囲気を溶かした。差し出された太い指は赤茶けていたが、それがもともとのものか、日焼けでそうなったのか、良く分らなかった。

 曽良が先にその手を握った。曽良が手を離すと、男はそのまま、Kに手を差し出し、Kは慌てたが見よう見まねでその手を握った。手を握る、という風習は修道院ではなかった。

 握った掌は甲と違って柔らかく白く、その感触から親しげな感情が流れ込んでくるように感じた。それは今まで感じたことのない感触だった。


「お前はこの人に連れられていくのだ」

 曽良に薦められるまま椅子に腰を下ろしたKに向かって院長はそう告げ、

「よろしく」

 とだけ、顔を隠したまま男は言った。掌と同じような柔らかな声であったせいか、Kは素直に

「はい」

 と返事をした。

 それで全てだった。修道院での6年の生活はあっけなく終わりを告げた。普通ならば皆が見送りに出る儀式があるはずなのだが、それさえなかった。院長と曽良だけが見送りに出て、男に連れられKは修道院を後にした。

 格段の寂しさはなかった。ユウのいない修道院はKにとって抜け殻の巣でしかなかったのである。


 十五度目の三叉路さんさろに来ると男は立ち止まった。三叉路のたびに男は迷うことも無く道を選んでいった。それまではなんとか遅れることもなく付いていったが、Kの額には玉のような汗が浮かび、脹脛ふくらはぎは張って石のように堅くなっていた。

 「休むぞ」

 「はい」

 喜色を浮かべる余裕さえなく、Kは地面に尻餅しりもちをついた。三叉路は、今やってきた道を断ち切るように右と左に分れて、誰一人行き交う人もない道が遮る物のない彼方へと続いていた。

 山を背にしたそんな風景を、Kは昔、どこかでみたことがあるような気がした。

「俺の名はイシという」

 突然、男は名乗った。その声は深みがあり、柔らかかった。院長にしろ、曽良にしろ院に住む大人達の出す素っ気ない響きとはどこか違っていた。それにしてもずっと沈黙していたのは何故であろうか?

「イシ・・・」

「そうだ」

 そう言うと男は被っていたフードとマスクを外した。初めて目にした男の顔は異様と思うほどに大きく、今まで見たことの無いような、なめした皮のような濃い赤茶色をしていた。おそらく沈黙は、いつ自分の正体を明かすのか、考え続けていたのに違いない。実際、Kは見たこともない男の顔立ちに衝撃を受けた。

 だが、驚きと共にその色の醸し出す「質感テクスチャー」にKはどことなく懐かしさを覚えた。

 その原因がいったい何なのか、暫くの間思いつかなかったが、ふと目を逸らし遙か彼方にドナルドを埋めた山を見た時、その埋葬時に見た山の岩肌に男の肌の色と質感が似ているのだと思った。果たして懐かしさの源泉なのかはっきりと分らなかったが、しっとりとした赤土の岩山の色合いはその男の顔色と通じるものが、確かにあった。


「驚いたようだな・・・。恐ろしいか」

 Kの表情をイシは誤解したようだった。

「まあ、この顔色はここでは余り一般的ではないからな。変に驚かせても仕方ないから顔を隠して歩いているのだ」

 言い訳めいた男の呟きに、

「いえ」

 とKは答えた。確かに最初に見た時は驚いたが、その男の目は笑っているように優しげであった。

「腹が減ったか?」

「はい」

 正直にそう言うと、そうか、と男は笑った。

「俺もだ。だが、もう少し我慢しろ」

「喉も乾いています。腹はともかく・・・」

「ああ、そうだな」

 男は言うと、背に担いだ荷物をまさぐり、小さなひさごを二つ取り出した。

「飲め」

 その一つをKに渡した。小さな瓢にも拘わらずそれは持ち重りがして危うく落すところであった。イシはにやりと笑うと、もう片方の栓を抜き、口に当てた。一口で飲み干せそうな小さな瓢だったが、イシはずっとそれを口に当てており、喉仏はこくり、こくりと動き続けた。

「どうした、飲まないのか?」

 漸く、口を瓢から離すと、イシは不思議そうな顔でKに尋ねた。

「いえ・・・」

 答えて、Kも瓢の栓を抜き口に当てた。なみなみと水が溢れるように流れ込み尽きることがない。喉が十分に潤ってから口を離すと、不思議そうに瓢を手に取り眺めたKを見てイシは笑った。

「不思議だろう?」

「ええ」

「これは瓢のように見えるが、さまざまな技術が詰まったものなのだよ。俺には仕組みが良く分らないが・・・。空気にある、水を取り込むらしい」

「そうなのですか」

 持ち重りはするが、乾いた表面は修道院で夏に収穫する瓢箪ひょうたんと同じ感触しかしない。

「持っていけ。喉が渇いたら飲めば良い。ただ、余り飲み過ぎると身体が疲れる」

「はい」

 素直に頷いたKを励ますようにイシは言った。

「あとほんの少し歩けば、後は馬に乗る」

「馬?」

 Kは馬を知っている。しかし、Kの知っている馬とは乗るものではなかった。農作業ですきをひく、辛抱強い、力のある動物、それがKの知っている馬だった。そう言うと、イシは笑った。

「確かにな。そういう馬もいる。馬も人間もいろいろといるのだ。お前みたいな人もいれば、おれみたいな人間もいる」

 Kは黙っていた。何を言って良いのか分らなかったのだ。イシは戸惑ったようなKの表情に微笑んだ。

「俺の先祖はむかし、別の場所に住んでいた。馬などと言う物は知らなかったが、その時代に別の場所から俺たちと違う者たちがやってきた。そいつらは馬を使っておれたちを攻めた。そして俺たちはその地を追われた・・・そうだ」

 イシは自分の祖先に起きた悲劇を話すときも怒りを見せる事もなく淡々と話した。

「俺の先祖は馬を奪えば、攻めてきた者たちと互角に戦えると思ったらしく、彼らから馬を奪って戦い続けた。その結果、滅びた。誰も生き残らなかった」

「誰も・・・?」

 なぜ、滅んだ先祖の末裔まつえいがここにいるのだ?Kの呟きとも問いともいえる声に男は再び微笑んだが、その問いに応えることは無かった。

「馬は闘いに使う事もできる、乗ることもできる、働かせることもできる。使い方で色々だな」

「そうですね」

 Kは素直に頷いた。

「ということで、俺たちはもうすぐ、馬のいるところにつく。そこで飯と飲み物を取ろう。我慢するという事は大事だ」

 男は自分の発した言葉がさも、美しい真実だとでもいうように真面目な顔でそう言った。

「はい・・・」

 あらがっても仕方が無い。Kの手元には食料の飲み物も無い。イシという男が担いでいる荷物の中にそれがあるのか、或いはその「馬がいる場所」に備えてあるのかは知らないが言う事を聞くしかあるまい。

 先に乗り物があり、食料があり、と知ったことで力になるかと思ったが、実際はその逆であった。溜っていた疲労は休んだことで却って力を得たかのように、Kの足取りは反比例して重くなっていった。イシは変わらぬ足取りで歩いて行くので、距離ができ、ときおりKは早足で追いかけなければならなくなった。そして更に9の三叉路を経た時には出発してから半日が過ぎ日が暮れかかっていた。

「いったい、もうすぐ、というのはどのくらいのことなのだ」

 もうすぐ、と期待と希望を与えたイシの言葉をKは呪った。


 脚を引き摺るようにして追いついたKの前でイシが突然立ち止まった。余りに突然だったので、Kは脚をもつれさせて転んだ。その姿を不審そうに一瞥いちべつしたイシは、

「どうした?着いたぞ」

 とだけ言った。

 落日が遠くの稜線を染めている以外、道の横にさほど背の高くない木々が続く風景に変わりは無かったが、その少し先に曲がり角が見えた。

「良く歩いたな」

「・・・」

「次は左に行く。お前、今までの道をどうやって来たか、覚えているのだろう?」

 イシは淡々と言った。Kは頬を染めた。見抜かれていたのだ。左・右・右・左・・・。

 Kは三叉路がある度に、どちらの道を歩くのかを覚えていった。それに何の理由もなかったが、万一の時役に立つようにも思えたのである。

「あの場所から、ここまで24の分かれ道があった。その一つでも誤ればもとの道に戻り付く。抜け出せなくなる」

「もとの道?」

 男は深く頷いた。

「どうしてですか?」

「知る必要はない。我々はもうその場所から抜け出たのだ」

「抜けでた・・・?」

「そうだ。お前のいた場所はコクーンという名のラビリンスだった。そこからの正しい抜け道は一つしかない。しかしお前がもう戻ることはないだろう。そして、そこから抜け出る方法は、人が抜け出る度に変わる」

「そうなのですか・・・」

 Kにはその意味が良く分らなかった。

「そうだ。残念ながら覚えたことは無駄だ。だが、お前が覚えようとしたその姿勢は正しい。だからお前は選ばれたのだろうな」

 選ばれた?その意味を探ろうとしてKはイシを盗み見たが、イシは表情を動かすこともなく素っ気なく言った。

「行くぞ」

 イシの後に続いて曲がり角を左に曲がったとたん、そこは今までとは全く違う景色があった。多いと言うほどでは無いが、そこでは人々や馬が行きっていた。人の話し声、馬のいななき、どこからか聞えてくる赤子の泣き声。

 思わずKは耳に手を当てKは後ろを振り向き、五歩ほど退いて曲がる前の角に戻ったが、辿ってきた途の景色はもうどこにもなかった。曲がった筈のもとの道も同じように人馬が通る太い道だった。さっきまで見えた山の稜線はもはや視界から消えていた。

 まるで、魔法にかかったかのようであった。

「何をしている?」

 イシが振り向いた。

「ここは・・・?」

「ここ?・・・ここは現実の世界。大人になった人間が生きていく世界なのだ」

「現実の世界?」

「そうだ。ここは25層のコアにある世界。お前の生きていく世界なのだよ」

 イシはにやりと笑った。

 「院から出る道は、一見どれも人里に繋がるように見えるが、幾つにも分かれる道のうち、ここに繋がる道は僅か一本だ。そしてその道は最後の場所で交差を隠されている。もっとも層の全てに至る道は最後の場所で交差を隠されているのだがな」

「・・・」

「だからこそ、一番遠い道程なのだよ。そして一番最初に院をでねばならない。最後の交差は既に閉じた」

 謎のような言葉であったが、Kは微かに頷いた。そこは院から確かに遠く離れた道の場所であった。


 Kはもう一度、辺りを見回した。行き交う人々の表情は確かに修道院の大人達のものとは違っていた。悟ったような、しかしどこか諦念ていねんにも似た表情を浮かべていた大人達とは違う厳しい表情がそこにあった。

「さあ、いくぞ」

 イシの言葉に引っ張られるようにKは道を歩んだ。

 だがどういうわけか、ただでさえくたくたになっていた身体にどっと疲れが湧いて、一歩一歩が重く、歩く度に身体が傾いだ。まるで違う重力がそこには働いているかのようであった。

「着いたら身体を洗い、食事をして一晩休む。それから馬に乗ってもう少し先まで行く。休憩場所にはもうすぐ着く」

 「もうすぐ」再び繰り返されたその言葉だけが希望だった。


 今度の「もうすぐ」は本当だった。そう言われてから、5分ほど歩いた先に、木造の大きな建物があって、その前でイシは振り向くと、ニヤリと笑った。

「ここだ」

「はい」

 壁に手をつくと大きな息を吐いたKに向かって

「良く歩き通したな。今まで幾つかのコクーンから人を連れてきたが、ここまで一息でこれたのはお前が初めてだ」

「初めて・・・」

 ならば、それまでの人はどうやってここまで辿り着いたのだ?目線で尋ねるとイシは笑った。

「まあ、たいていは半分までのところで、音をあげる。そうしたら仕方ない。飲み物と食い物を渡し、一晩そこで野宿をする。中には一晩では済まない者も居たが」 

 Kはがっくりと膝をついた。そんな選択肢があるとは思っていなかったのだ。そんなKの様子を笑いながら眺め終えると、イシは建物の門をドンドンと叩いた。

「開けろ。客人だ」

 その声に応えるように、扉がギシギシと音を立てて開いた。


 二階にある部屋はイシと別々だった。

 修道院の部屋の倍ほどの広さの部屋にある作り付けのベッドは、修道院のものよりずいぶんと大きく、寝転がってみると、遙かに解放感があった。修道院のベッドは眠るだけには十分だったが何かが欠落していた。洗濯の行き届いた、糊の利いたシーツは心地よく、毛布は陽の匂いがした。ギシギシと音の立てる、湿った修道院の寝床はまるで動物のすみかだったように思えた。

 そのまま転がっていたら寝入ってしまいそうだったので、イシに命じられたとおり湯浴みをして、渡された服に着替えて戻ると、イシは既に席に座って大きな器から飲み物を飲んでいた。Kを見て軽く手を上げ、

「ここだ、ここ」

 と大きな声をあげた。

 そこは食堂のような場所だった。といっても修道院のように詰め込まれた修道士が肩と肩を寄せ合うようにして配膳された食事を食べるような場所ではなく、ずいぶんと広々とした空間で、その真ん中にイシは座っていた。他には片隅に、二人連れの男たち、そしてドアの近くには小さな子供を連れた一人の男が座っていた。色白のその男は長い灰色の髭を生やしており、翠色みどりいろがかった不思議な眼の色をしていた。イシとは全く違う特徴をしていたが、どこか似通った雰囲気を漂わせていた。その姿を見た時、Kはふとずっと昔、同じようにこのような場所を訪れたような記憶が蘇ってきた。

「どうした?」

「昔・・・ここに来たような気がします」

「そうか」

 気のなさそうな返事を寄越すと、イシは真向かいの椅子を指さすとKに座れと言った。

「料理は注文して置いた。お前も飲むか?」

 イシの手にしたガラスの容器には、黄金色の液体が揺れていた。

「いや、水でいいです」

「そうか、そうだな」

 言うと、テーブルの上に置いてあるピッチャーとグラスを指さした。Kは黙ってグラスに水を注いだ。

「確かに、お前はここに来たことがある。お前が今までいたところに連れられてきた時にな」

 そう言うと、イシはドアの近くにいる子供をちらりと見やった。

「お前や、別の場所に行く子供たちのかわりに連れられてきた子供たちの一人だ。あの子はお前の住んでいた修道院に行く。だがお前もあの子もこの世界にいたわけではない。ここは現実の世界だがあくまで中継点・・・いや結節点なのだ」

「結節点?」

「そうだ。いずれお前は知る事になるし、俺よりももっと詳しく知ることになろう。俺の知っている限りのことで言えば、あるときから、世界は重層的になった」

「重層的に?」

 Kの表情にイシは笑った。

「いや、重層的になったというより、重層的であったことが表面に出てきた、ということだ。その構造が現われる前、昔の世界というのはもっと単純だった。一つの構成、一つの時間軸。皆の目に見えたのはそうした単純な世界だったのだ」

「そうなのですか・・・」

 イシの言っていることは良く分らなかったが、Kは心が身構えるように警戒音を発しているのが分った。

 確かに、この世界は「自分が認識しているのと異なっている」ようであった。

 表情を引き締めたKをイシは興味深そうに眺めた。

「良い表情だな。お前は今まで俺が連れ添った人間と少し違う」

「そう・・・ですか?」

「ああ、どことはっきりは言えないが、な」

「イシさんが連れ添うのは僕と同じように修道院から出る人なのですか」

「いや・・・必ずしもそうではない」

「では?」

「俺が付き添うのは重層的な世界の層を超えるときだけだ」

「・・・。良く分らないのですが」

「まあ、そのうち分るだろう」

「先ほど、25の分かれ道の話をしたときにここまで一息にこれたのは私だけだと・・・」

「ああ、そうだ」

「それはあの修道院から、ということですか?」

Kの問いにイシは首を振った。

「コクーンは無数にある」

「無数・・・」

 Kの呟きにイシは少し慌てたように訂正した。

「無数・・・というのは正しくはないが、数えきれぬほど多く、だ」

「はい」

「その無数のコクーンとこの世界は常に25の三叉路で隔離されている。それを解くには3千3百万通りの選択肢がある。それを一つとして間違えずに選ばねばならない。俺はその案内役をしている」

「ということは・・・イシさんはその数え切れないほどの場所からの道を覚えているということですか」

 イシは謎めいた表情をしただけで、問いには答えなかった。

「あの子も、僕と同じように修道院へ行くのですか。僕の来たところなのだろうか」

 そう言いつつ、Kが視線を送ると、その子を連れていた男が、その視線を遮るように子供の方に身体を寄せた。

「あまりじろじろと見るな。あの男もおれと同じで、お前達を連れ回る役をしている。何か事故があれば責任を問われるのだ」

「はい」

 Kは素直に頷いた。

「それに、あの子が行くのは別の場所だ。修道院ごとに人の入れ替わる季節は異なる。お前が来た場所に子供がやってくるのはもう少し前の時期であったろう?」

「・・・そうですね」

 子供は連れてきた男の影から、怯えたような、だが興味を持ったような視線をKに送っていた。その興味に気づいたのか、連れの男は立ち上がると子供を促して部屋を出て行った。去り際に、然り気無くイシに向かって頷いたようであり、イシもやはり小さく合図をしたようだった。

「知り合いですか?」

「いや・・・」

 イシは小さく首を振った。

「だが、あの男はおれと同じ、滅びた民族の再生だ」

「滅びた民族・・・」

「それもやがてお前の知るところとなろう」

 イシはそれだけ言うと、目の前の食べ物を指さした。

「取りあえず、喰え」


 飯を食い終え、部屋に戻って電気を消すと同時にKは眠りに落ち込んだ。夢・・・は見なかった。


 翌朝、目覚めたのはイシの呼び声のせいであった。窓の外からその声は響いてきた。眼を擦りつつ、窓を開けるとイシが見知らぬ男と一緒にKの方を眺めてきた。その男の傍には四頭の馬が佇んでいて、そのうち二頭は男達と一緒にKの方を見やっていた。

「降りてこい」

 イシは喚いた。

「いつまでも寝ている法があるか。もう出るぞ」

 そんなことを言われても、と思いながら急いで着替えると荷物を調ととのえ、Kは階段を駆け下りた。イシは見知らぬ男と親しげに話していた。Kが姿を現すと、その男は、遠慮したかのように口を閉ざした。

馬喰ばくろうの喜多だ。いつも世話になっている」

 イシが紹介すると男は首を竦めた。

「馬に乗ったことはあるか?」

「いえ、初めてです」

「そうか。この世界では馬に乗ることに慣れねばならない。だが初めてなら仕方ない。一番人に馴れた馬で行こう」

 人に馴れた馬、というのは老馬であった。四頭のうちで一番毛並みは悪く、色艶もくすんでいたが、優しい眼をしていた。Kが乗っても暴れ出すことはなく、静かに佇んでいた。

「脚を踏ん張って尻を少し、浮かせよ。馬の背に当たるのは骨だけだ。そうすれば馬は上手く動く」

「はい」

 そうは言っても、初めての馬は難題であった。余り上手い乗り手でないと悟った馬は、少し悲しげな表情をしたが、暴れ出すこともなく、主人を初心者なりに温かく受け入れる事を決めたようである。

「余り速くは走らせないが、歩くより遅くては何もならん。背筋を伸して、おれについてこい。停めるときは手にした手綱を引け。その時は腰を下ろして良い」

「わかりました」

 そうは言ったが、不安を抱えたまま、Kは馬を走らせた。馬もその不安を感じたかのように、時折首を回して後ろを窺うようにしていたが、やがて馴れたのか速度を落すこともなく前の馬に付いていくことを決めたようであった。


 半時間ほど走らせた後、イシは急に馬を停めた。広い道には、彼らと同じように馬に乗って往来をする人間が多かったが、その大半は男であったがその内の一人を見るなりイシは手を上げ、向こう側から来た人馬もイシのすぐ傍に停まった。少し離れて馬を走らせていたKは用心深く、馬の手綱を引き、イシの馬の後ろについた。

 イシと向こうからやってきた男はKの聞いたことの無い言葉で話をしていた。身振りが混じった、不思議な抑揚のある言葉でまるで音楽のような響きをしていた。

やがて、二人は馬上の儘、手を打ち合わせるような仕草をして、向こう側の男が馬を動かした。男はイシと同じような顔つきをしていて、Kの傍らを過る時に、にやりと笑ってウィンクをした。Kがどぎまぎしている内に、男と馬は一挙に速度をあげ、去って行った。

「休むか」

「はい」

 身体はともかく、初めて馬に乗ったせいか、緊張していたのだろう、馬を下りた後首と腰に疲労感があった。

「まあまあの腕前だ。初めて乗ったにしては上々だ」


 丘の上からみた景色は異様であった。

 遙か彼方にみたこともない高い突起物があちらこちらに建っている。それは四角や円筒、或いはきりのような様々な形をしていた。だが、その内の幾つかは途中で折れ、無残な景色を晒していた。

「あれは・・・?」

「あれはお前達の先祖が作ったものだ。」

「作った?」

 Kは改めてその景色に目を遣った。

「そうだ、昔はああした建物に人は暮らしていたらしい。何といったかな,

monticulos de termitas abandonadosと言った男がいた」

「・・・」

 男の発する聞き慣れない言葉にKが不思議そうな顔をすると、

「うち捨てられた蟻塚、ということらしい」

「蟻塚・・・」

 その言葉にも馴染みがなかった。

「ああ、ここではないが、俺の故郷の近くでは、小さな生き物が塔を作る。おれは実物はみたことはないが聞いた話では乾いた大地に、幾つもの高い塔があることもあるそうだ。人間がその小さな生き物だとしたら、あの塔は、その景色にそっくりらしい」

「そうなのですか」

「そうだ、さっきの言葉もその国の言葉だ」

「国・・・」

「うむ」

イシは頷いた。

「国、或いは生れた場所といってもいい。昔は国、というものがあった。そこで話される言葉が何なのか、は国が決めていた。そうした仕組みのことについて、お前はやがて学ばざるを得ないだろう」

「そうなのですか・・・国・・・」

「俺がしっている限り、人間というのは小さな集まりを次第に大きくしていくことによって仲間を作り、おおきくなる事によって力をつけ争いに勝ってきたのだ。その最大の単位が国なのだ。だがある日、人間はその仕組みを捨てねばならなくなった。お前はそのことをいずれ学び、人間がどうするべきなのかを考えねばならなくなる」

「・・・」

「俺の仲間も、俺自身も国によって滅ぼされた一族だ。そのために俺はもう一度、生を享けることになったらしい。俺が望んだことではないが、俺の役目がそれであれば仕方ない」

「そうなのですか・・・」

「ああ。お前にもそれなりの役目が割り振られたのだ。でなければ俺と一緒に旅をすることはなかっただろう」

「私たちは、あそこに向かっているのですか」

Kは「うち捨てられた蟻塚」を指でさした。

「いや」

イシは首を振った。

「方向はそうだが、行き先は違う。うち捨てられた蟻塚のある場所は、風がよくない。おそらく、建物のせいで風が妨げられたりするのだろう。今は誰も住んでいない。行き先はそのずっと先だ」

「そうなのですか」

「だが、馬で行けばそうはかからない。あと一晩、どこかで宿を取ることになるが、あさってには着くだろう」


 イシの走らせる馬の跡を追うのは最初のうち、容易ではなかったが、しばらくするとコツをつかんだせいか、なんとかその跡を追うことができるようになった。だが、もしイシが本気を出せば、あっという間に引き離されるだろう事も分った。イシは鼻歌のようなものを歌いながら平然と進んでいったが、Kは馬を制御するのに必死であった。イシが進む道は「うち捨てられた蟻塚」を大回りするように進んでいったが、その道の周りにも、蟻塚ほど大きくはないものの、廃墟のような建物があちこちに点在していた。


「ここには誰も住んでいないのですか?」

 大声でイシに尋ねると、

「そうだな」

 イシは振り向きもせずに答えた。

「昔は沢山の人間がここに住んでいたらしい。今よりも遙かに人が多かった。まあ、構造もそうだったからな」

「構造・・・」

「ああ。昔はこの地に全ての人間が住んでいたのだ」

「・・・」

 イシの言う事はよく理解できなかった。だが、それを今尋ねても明快な回答が返ってくるような気はしなかった。

「今は、人々はどこに住んでいるのですか?」

「これから行くところには結構な数が住んでいる。とはいえ、ここは島だ」

「島?」

「島というのは海に囲まれた土地だ。と言っても分るまい」

「・・・はい」

「川が流れて海を作る」

「聞いたことがあります」

 Kが言うと、イシは首を傾げた。

「そうか?コクーンには海はない。またコクーンに住む者は海を知らぬ筈だが」

「海を見たことはありません、ですが・・・」

 Kはイシに死んだユウの話をした。イシは興味深げに聞いていたが、

「そのような幼い子供が、か・・・。なぜ海のことを知っていたのか」

と驚いたように呟いた。

「ええ。僕にも分りません。それでその島が、どうしたのでしょう」

 うむ、とイシは言葉を続けた。

「ここも国があった頃には1億ともそれ以上とも言われる人数が住んでいたらしい」

「1億?」

 途轍もない数字だな、とKは思った。どうやってそんな数を勘定したのか、想像が付かなかった。

「今はどのくらい・・・なのですか?」

「この第1構造にか?」

「第1構造・・・?」

 ああ、とイシは困ったような顔でKを見た。

「そうだな、まあ、いずれ分る。そうだな正確な数字は後で聞くがよいが、800万ほどだと聞く」

 800万・・・。それでも十分にKの想像を超える数であった。

 「どういうわけか、土地はいくらでもあるのに、人はあの辺りにだけ集まり、そしてその土地に多くの人々が住むために建物を高くしていった」

「・・・」

「それだけではない。建物を高くしているのに、同時に地下にも穴を掘ったのだ。そこに様々な物を通すためにな」

「様々なものを?」

「ああ、道や川、そして鉄路・・・」

「鉄路とはなんですか?」

「大きな乗り物だけが走る道だ」

「・・・」

 大きな乗り物?

「他にも色々と通した後がある、どうやら電気なども通していたらしい」

「電気もですか?」

「ああ。今はあそこへ立ち入るのは禁じられている。建物から何が落ちてくるか分らぬし、歩けばどこが崩落するか分らない」

 それが、大回りをする理由なのだ、とイシは言った。

「途中にも幾つかそういう箇所はあるが、だいたいは場所が分っているしそれなりに補修もしてある」


 道を行き交う人々は決して多くはなかったが、途切れることはなかった。集落は10軒ほどの集まりが視野から途切れるほどのことがなく、散在していて、それぞれの近くに田畑が広がっていた。

「ここらへんは、余り修道院の景色と変わりません」

「そうだな」

イシは頷いた。

「住む人々も余り変わらないと思えるのですが」

「確かにな」

 道行く人々は確かに善良そうで、すれ違う度に目礼を交わし、かといって馴れ馴れしくもなかったが、修道院の大人達とさほど違いはないように思える。

「だが、それは我々の目にそういう風に映るだけ、なのかもしれぬ」

「・・・」

 もし、イシや曽良のいうように、ここにいる人々と元いた世界の人間に違いがあるなら、それは何なのだろうか、どうやって見分けるのであろうか・・・そして、その見分けが済まないうちに死んでしまった人間、例えばユウはどちらの人間だったのであろうか?

「私はこの世界で何をするのでしょうか?何を求められているのでしょうか?」

「さて、それは俺の知るところではない。俺が命じられたのは、お前をあの場所から、これから行く場所へと連れて行くことだけだからな。向こうへつけば、おのずと知る事ができよう」

 Kは沈黙した。


「そろそろ日が暮れる。宿を取ることにしよう」

 イシは馬に柔らかな鞭を当てた。その意を明確に悟ったかのように馬は脚を早め、Kも同じように馬に鞭を打った。躍動する馬との接点に一瞬、快感が走った。その快感は流れ星のように煌めき、そしてどこかへと消えていった。夕闇の紫の先にイシと馬が小さくなっていくのを認め、Kはもう一度、ゆっくりと馬に鞭を入れた。


 宿の前にはまるで、イシとKがやってくるのを事前に知っていたかのように二人の男が立っていて、馬をおりた二人から手綱を受け取ると馬を運んでいった。大きな宿だったが、泊まっている人の数は少ないのか、開け放たれた扉から入ったときも閑散とした雰囲気が漂っていた。右手には宿の奥へ続く大きな渡り廊下があり、その奥は暗がりへと消えている。

 暫くすると正面にあった戸が、がたりと音を立てて開き、そこから老いた男がいざりでてきた。戸の奥はやはり暗がりでどことなくひんやりとした空気がそこから漂ってきた。

「お泊まりで?」

 小さな声であったが、しっかりとしたよく通る声であった。

「ああ、一晩ねぐらを貸して欲しい」

「承知致しました。おふたりさま、明日のお立ちでございますね」

「うむ。飯も頼む。馬にも喰わせてやってくれ」

「承知致しました。部屋は御二つで」

「ああ、そうしよう」

 イシはKを振り向くと微笑した。

「それの方が良く休めるであろう」

「お荷物は?」

「いや、たいしたことはない。自分たちで運べる」

「そうですか。おい、桜、梅花」

老人は後ろを振り向くと呼ばわった。

「お客様達をお部屋へ」


 桜と梅花という二人の若い娘はまるで双子のように似ていて、美しかった。修道院には女性は一人もいなかったが、女性というものが存在していることは知っていた。それにしても、コクーンとイシが呼んだ、あの修道院がある場所から出ても一向に出会うことのなかった女性が突然、目の前に現われたときは驚きと共に、羞恥しゅうちにも似た感情をKにもたらし、Kは

「どうぞ、こちらへ」

 という言葉にさえ、うつむき、その後ろをついていくことがせいぜいであった。Kを先導したのが桜という娘なのか、或いは梅花というほうなのか分らなかったが、その娘はほの暗い廊下を進んでいくと一つの扉の前で立ち止まった。いつの間にかイシの姿が消えていたのは、既にその途中のどこかの部屋に入ったのだろうが、Kはそれさえ気づかなかった。

 「それでは、ごゆっくりと」

 部屋に通すと、謎めいた微笑を浮かべて去ろうとした女性に、

「ちょっと・・・」

 と思わず声を掛けたKを娘は少し驚いたように大きな瞳で見つめ、

「はい?」

と問い返した。何といえば良いのか、分らずにKは頬を真っ赤に染めた。

「あなたは・・・桜さんなのですか、それとも・・・」

 しどろもどろの口調で尋ねた。

「わたくしは桜でございます」

 娘はにっこりと笑みを浮かべるとそう答えた。

「ゆっくりとお休みくださいませ」

 去って行った娘はその華やかな笑みと甘い体臭を部屋に残していったかのようで、Kは荷物を床に置くとベッドに寝転がった。ベッドは修道院にあったものと比べれば、ずっと大きく柔らかかった。

 初めて出会った女性の姿は激しい感情をKに呼び起こしていた。それは今までにない感情・・・敢て言えば、似たものはユウを初めて見たときのそれに少しに通っていたが、もっと原初的な動物的な感情であった。Kはベッドの上で何度か反転した。

 疲れていたのだろうか、Kはそのまま眠りに入ってしまったかのようだった。だが、ふと部屋の中に誰かがいると感じて薄く目を開けた。

 あの・・・甘い香りがさきほどよりずっと強く匂っていた。柔らかな手がKの頬に触れ、そしてそれよりも更に柔らかな何かがKの唇に触れた。Kは腕を上げ、覆い被さってきたものを抱きしめた。

「さくら・・・」

「ふふ・・・」

 さっきの娘の笑い声が耳元で柔らかく響いた。

「なまえを覚えてくださいましたか?」

 その問いには答えず、Kは強く女の身体を抱きしめたが、それ以上どうしたら良いのか分らなかった。ただ、下半身が熱かった。馬を跨いだときに感じた微かな快感の何倍もの快感が身体に走って消えては、更に強さを増して襲ってきた。女は少し困ったような表情をしたが、その表情がKの欲情を煽った。Kは女の胸の先が少し痼って自分の胸板を刺激するのを感じた。それは重みのある柔らかさに支えられ、恥じるように堅くなっていた。Kは右側の膨らみに手を伸し、そして唇で吸った。

「そんなに強くは・・・」

 そういって女は身体を捩った。柔らかさ白い肌がKの身体から離れ、腋のふさふさとした獰猛な黒い毛が白い肉体とコントラストを為しているのが見えた。甘い香りが漂った。

 力を緩めたKの下腹部に女はゆっくりと手を伸し、Kを自分に導いていった。すぐに暖かい感触にKの一部が呑み込まれていった。女はゆっくりと息を吐いてKを向かい入れるとKの身体を抱きしめた。

「おいでなさいませ」

 耳元で甘い囁きが聞え、Kの制御が弾け飛んだ。まるで18年の禁欲を全て補うかのように激しく何度もKは挑みかかり、女はそれに応じた。7度・・・或いは8度であったろうか、Kが全てを女の身体に満たしたとき、Kは女と交わったまま深い眠りに落ちた。



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