問.傍線部における主人公の心情を答えよ

下田 空斗🌤

答.

「好きです、先生」


 口を突いて出た俺の言葉が、教室の静寂を破り湿った空気を震わせた。西陽にしびが差し込む窓の向こうからは、運動部員の掛け声がかすかに聞こえて来る。


「あ、その、この主人公はきっとそういう感情だったんだろうな、と」


 咄嗟とっさに取りつくろう声はうわずっていた。机の上の問題用紙がこすれる音が、やけに大きく聞こえる。


 教壇に肘をついていた先生は、少しの間——俺にとってはカップ麺が作れてしまいそうな程の時間——目を丸くして俺を見つめ、そしてき出すように笑った。


「北原くん、今は何の時間だったかな?」


 先生は背後の黒板を右手の甲でコツコツと鳴らす。


「前期中間試験、現代文の再試……です……」


 チョークでデカデカと書かれた字をボソボソと読み上げた。同学年でこの科目の再試受験者は、俺一人だけだった。


 うんうん、とわざとらしい頷きに合わせて、セミロングの後ろ髪がサラリと揺れる。彼女のその動きをつい、目で追ってしまう。いつもの授業中も、今この時も。


「現代文に限らずだけど、登場人物の心情や筆者の伝えたい事を読み取ろうとする力は非常に大切よ」


 そう語りながらカツカツと鳴るヒールの爪先は、俺の方へ向いている。


「そして感情とは自発的なもの。自然と湧いて出るもの」


 俺の前の席の椅子をギィと引き、膝下まで丈のあるタイトスカートを気にしながら腰を降ろす。


「だからこそ無感情でいる事はまず無いし、場面場面で様々な感情を抱いているはずよ」


 手を伸ばせば届く距離にあるつややかな唇。そこからつむがれ続ける文章を、俺の脳が懸命に理解しようとするが、ちぐはぐな積み木のように上手く組み立てられずにいる。


 顔が火照ほてるのを感じる。耳の裏が熱い。鼓動が高鳴る。


 反射的に先生から顔を逸らす。その最中さなかの視界の端、彼女の左手薬指が映り、ギュッと胸が締め付けられた。


「すみません。変なことを口走って……」


 知っていた事だ。分かっていた事だ。なのに、今更どうした。眉間に力を込め、こぼれそうになるモノを抑え込んだ。


 。倫理的にも法的にも許されるはずが無い。こんな気持ちを、いだいていいはずが無い。それを分かっていたのに、俺は——


「なぜ謝るの?」


 先生は、普段と変わらぬ口調で、そう言った。


「だって、その……」


 言葉に詰まる。その続きは決まっているのに、口が動かない。後ろめたさ、と表現すればよいのか、事実を切り出すのがひどく恐い。


 俺の頬に彼女の視線を感じる。俺が言い終えるまで待つ、決して助け舟は出さない——そんな含みのある視線を。


「……俺は、先生のことが好きです。恋愛感情としての。でも、先生は先生で、ご結婚もされていて……」

「そうね」

「だから、好きになったらいけないのは分かってるんです。それなのに、どうしても気持ちが抑えられなくて、つい……」


 限界だった。これ以上続ければ、きっと何もかもあふれてしまう。奥歯がきしむほど噛み締め、どうにか押しとどめた。


 空調の効いた室内だが、背中がじっとりと濡れていく。呼吸が荒くなる。


 彼女が、天井を見上げながら、すぼめた口から深く長く息をいた。身体の中の空気がからっぽになるんじゃないか、というほどに。


「北原くん。君の好意はあくなの?」

「……はい」

「じゃあ、良い好意とは何かしら?」

「え……?」


 良い、好意……? 頭の中で反芻はんすうしてみたが、これと言った答えが浮かばなかった。


 俺の抱いている好意の逆——つまりは、倫理的にも法的にも問題ない好意……? なんだかしっくりこない。


「今から私が話すことは、あくまで私の持論でしかなくて、決して満点の回答では無いわ」


 俺はいつの間にか顔を上げていた。彼女の眼は、かつて無いほど力強く、吸い込まれそうな程だった。


「——好意に善悪は存在しない。なぜなら、感情を湧き出させない事は不可能だから」


 言葉の意味を咀嚼そしゃくするより先に、先生の右手が消しゴムを掴み上げた。


「これが心だとしましょう。心が何かに触れ、そして動かされれば——」


 木板をこすった消しゴムから、小さな茶色の塊が生み出され、それを左手でむ。


「こうして感情が生まれる。当然、好きという気持ちも感情のひとつ」


 感情と名付けられたそれが、彼女の白く滑らかな指に挟まれ丸め込まれていく。


「心がある限り、感情は生まれ続ける。止めようは無い。だから、好意という感情を抱くことに罪悪感を持つ必要は無いの」


 なんとなく分かる気がする。だが、まだどうしてもに落ちていない。


「で、一般的に言われる、好意の先にある感情とは何だと思う?」

「え、あ、愛情……ですか?」


 思春期ゆえか、どうしても愛という単語を発する事への抵抗感は拭えない。なんともむずがゆい。「その通り!」と大声と共に立ち上がった先生は、机の迷路を右へ左へ往復し始めた。


「愛情とは十人いれば十通りの、百人いれば百通りの解釈がある、非常に難解な感情。それを読解しようだなんて、無茶な話よ」

「でも文学作品にはほぼ必ずついて回りますよね」

「まったく困ったことにね!」


 こんなに感情的になる先生を見るのは初めてで、思わず笑ってしまいそうになった。それが伝わったのか、彼女の口の端もわずかにゆるんだ。


「私も長らく悩んだわ。愛情とは何ぞや、不義理とは何ぞや、とね。そして、私なりに、ひとつの結論に至った」


 歩みを止め、キュッとこちらへ向き直った。


「困らせない事、よ」

「困らせない……?」


 校庭に面した窓に背を向けると、机に腰掛け足を組み、ゆるく伸びた自身の影へと視線を落とす。


「結婚するまで……いや、結婚した後も。夫以外の人に好意を抱くことは、あったわ。私も、人間だからね」


 さっきまでの熱のこもった論調とは打って変わった、かぼそい独白のような語り口だった。


「でも、夫だけは、私の為に困らせたくなかった。心配させたくなかった。傷付けたくなかった。誰よりも、愛しているから」


 あいしている——その六文字を紡ぐ瞬間、彼女の、ふっと微笑ほほえむような、その横顔を、俺は今後一生忘れられないだろうと、直感した。


 なぜ彼女を好きになったのか、ずっともやが掛かったようにボンヤリしていた。それが今、ようやく晴れた気がする。


 不思議と、哀しくはなかった。


「誰かを好きになるのは勝手。決して悪いことでは無い。大切なのは、好きな人を困らせない事よ」


 下校のチャイムが鳴る。この時間の終わりを告げていた。


 教壇に積まれた教材や筆記具を手際良く片付けながら、先生は俺にこう言った。


「というわけで、私を困らせないでね、北原くん」


 悪戯いたずらっぽく笑いながら黒板をコンコンと叩き、先生の足音は廊下へと消えていった。


 手元の答案には、空所がまだ残っている。


 街並みに沈みゆく夕陽が、やけにまぶしく感じた。




 夏休み明けの期末試験、現代文の結果は学年三位だった。


 もう二度と——

 再試を受ける事は無いですよ、先生。

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