3話
梅雨に入り、雨の日がつづいた。
バイトのシフトを増やしたためか、組内の空気のせいか、疲労は蓄積していく。
親父の見舞いに行くよう何人かの組員に言われたが、俺は断った。
その日が来るまで、俺は会うつもりがない。
七月になると、ようやく梅雨が明けた。
曇天ばかりだった季節が過ぎ、青空が広がるようになった。
せいせいする天気に、晴れやかな気持ちが芽生える。
親父の件も、そろそろ決着がつく頃だろう。
俺は先々月ぶりに病院へ行った。
病室に入ると、以前よりも更にやつれた親父がベッドに横たわっていた。
「おお、やっと来たか」
こっちに来い、と言うように親父は俺に手招きする。
親父に近寄ると、痩せてしまった身体が随分と小さく見えた。
「誠二」
頼りない声だ。
俺は返事をせずに、次の言葉を待った。
「おまえに一億やる」
一億。
そんな金、どこに。
そう言おうとして、金の正体に見当がついた。
……組の上納金だ。
親父はこの日を見越して、組の上納金を貯め込んでいたんだろう。
「供子は死んで、誠一も死んだ。俺も死ぬ。あとはおまえだけだ」
親父は言うだけ言って、微笑んだ。
患者衣の胸元からは、親父の身体に刻まれた刺青の紋が一部分だけ見える。
極道の証であるその模様を、俺は何度恨んだかわからない。
極道の息子として生まれた自分の苦悩を、目の前の男は一生わからないまま死んでいく。
「組はどうするの」
「解散させる。あいつらも自由だ」
なにが自由だ。
ふつふつと、こみ上げてくるものがある。
それはどんどん熱を伴って、今にも煮えたぎりそうだった。
拳を握りしめて耐えたが、苛立ちは隠せそうにない。
「あの人たちは、組を辞めたとしても最低五年は苦しまないといけない」
言いながら、俺は正さんや直さんを思い浮かべた。
悪いことをした人達だったけど、決して悪い人たちじゃない。
でも、世間ではちがう。彼らは反社会的勢力だ。
その苦しみを背負わせて逃げて行こうとする親父のことを、俺は許せそうにない。
俺は親父の顔を睨みつける。
「母さんも兄ちゃんも、あんたがヤクザやってなかったら生きてたかもしれない」
一度栓が外れれば、止めようがない。
これまで蓋をしていた本心が、
「あんたがヤクザじゃなかったら、俺たちはもっと違う生き方ができてたかもしれない」
こんなの、たらればだ。
口からこぼれる言葉がどれだけ意味のないものかは、俺自身がよくわかっている。
こんなことを言っても、家族が生き返ったりはしないし、組員の未来が変わったりもしない。
息子に非難された目の前の男は、力なく笑った。
「そうだな。ごめんな」
これまで暴力や脅迫ですべてを得ていた親父は、ただ弱々しく謝った。
俺はそれ以上、親父の顔を見ていられずに病室を出ていった。
一億も、組員の今後も、自分の将来さえも。
すべてが俺の手に余る。
たった一人の肉親がもうすぐいなくなるというのに。
俺は実の親に対して、追い打ちをかけることしかできなかった。
早足で廊下を歩いていると、紗良が前からこちらに歩いてきた。
俺に気づいた紗良は、目を輝かせて駆け寄ってくる。
「お兄さんだ!」
駆け寄ってくる紗良を見ていると、俺は申し訳ない気持ちになった。
親父も俺も、本来は紗良と関わる資格なんてない。
どれだけ相手に優しく接したとしても、親父はヤクザで、俺はヤクザの息子だ。
紗良は訝しげに下から俺の顔を覗き込んでくる。
「お兄さん、元気ない?」
「そんなことないよ」
俺は答えながら、ポケットから財布を取り出した。
「今日もメロンパン買いに行く?」
「んー」
紗良は考えるような素振りを見せた。
別に、購買じゃなくてもいい。
病院には、カフェもコンビニもある。
狭い病院の中でくらい、紗良に好きなものをねだって欲しかった。
「別にメロンパンじゃなくても、なんでもいいよ」
「……なんでも」
紗良は、言葉の意味を確かめるように呟いた。
「遠慮しないでいいよ」
きっと欲しいものがあるんだろう。
紗良の何かを言いあぐねている様子で、なんとなく察せられた。
彼女はほんの少しだけ迷ってみせる。
けれど、それも一瞬で、紗良はすぐにいつもと同じ表情に戻った。
「メロンパン、はんぶんこしよ」
紗良の答えを聞いて、俺は自分を頼りなく思った。
それからはいつもどおりに購買に行き、屋上で買ったメロンパンを分けて食べた。
空はどこまでも青く、ときどき吹く風が気持ちいい。
紗良は美味しそうにパンを食べていて、俺はそれをただ眺める。
平和そのものだった。
ずっとこんな日々が続けばいいとすら思った。
「紗良ね、もうあんまり長くないのかも」
突然、紗良が口にした。
無邪気で天真爛漫ないつもの様子からは想像できないくらいに、今にも泣きだしそうな声音だった。
「最近あんまり身体の調子が良くなくて。お兄さんに黙っててごめんね」
本当に謝るべきは俺の方だ。
彼女の貴重な時間を、いつ終わるかわからない人生の一部を、俺に関わらせてしまったことが申し訳なかった。
紗良は柵を背にしてもたれかかり、俺の顔を見ながら反応をうかがっている。
彼女の華奢な身体は今にも消えてしまいそうで、柵ごと下に落ちていきそうな危うさがあった。
「謝らないで。俺は、誰かに謝ってもらえるような人間じゃないよ」
紗良は不思議そうな顔をした。
けれど、すぐに合点がいったようだった。
「おじさんたちが本当はわるい人だから?」
言われて、ドキリとする。
夏の気温のせいではない、嫌な汗を掻いた。
柵にもたれかかる紗良の表情は、メロンパンを食べていた時と変わらない。
きっと最初から、彼女は親父や俺がどういう人間か知っていた。
「おじさんは怖い人かもしれないけど、でも優しいし、一緒に話してて楽しかった」
紗良が言うには、購買で初めて会った時に、親父が手の届かない棚にあるパンを取ってくれたらしい。
それがきっかけでお互いの身体のことや家族のことを話す仲になった、と。
紗良は楽しそうに話した。
狭い病院で、いつ自分の身体がどうなるかわからない状況で、二人とも心細かったのかもしれない。
それでも、ヤクザの男と二人きりで話すなんて不用心だ。
いろいろと言いたくはなったが、紗良の顔を見ると俺は何も言えなくなった。
「お兄さんは怖い人なの?」
「…ちがう」
怖い人の子どもではあるけど、と付け足す。
自分の家族のことを知って、それでも自然に話してくれる人は初めてだ。
紗良の何も気にしていなさそうな様子に驚いたが、彼女の口から告げられた一言にはもっと驚いた。
「お兄さんが怖い人だったら、お願いしたいことがあったのになあ」
「……それは怖い人にしかできないこと?」
聞くと、彼女は嬉しそうに笑った。
これまで見た紗良の笑顔でいちばんあどけなくて、どこいでもいる子どもみたいだった。
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