2話

 桜は散った。

 それでも、親父はまだ生きている。

 親父が生きているうちは、俺が見舞いに行かなければいけなかった。

 紙袋に見舞い品と、親父の着替えを何枚か入れて、病院へ向かう。

 病室には、すでに組員が二人いた。

 俺が部屋に入ると、親父も組員の二人も、すぐにこちらへ顔を向ける。


「誠二さん、お疲れ様です」


 正さんは、いつものように頭を下げる。

 直さんも、正さんにならって俺に頭を下げた。

 病院でくらい、よしてくれたらいいのに。


「誠二」


 親父の声が弱々しい。

 もう、長くはないだろう。

 俺は親父の横たわるベッドへ近寄る。


「調子はどうだ」


 父性を含んだ親父の声に、少し苛立った。


「調子ってなんの? 組の心配?」

「そりゃあ、おまえの心配だよ」


 笑って、親父は言った。

 これまでに見たこともない優しそうな顔だ。


「ちゃんと寝てんのか。メシは食えてるか?」


 そんなの、見ればわかるだろ。

 口には出さなかったが、俺は怒りを覚えた。

 けれど、親父は俺を気遣うように視線を向けてくる。


「これで、なんか食え」


 親父は、革財布から一万円札を取り出した。

 まるで小遣いを渡すように、俺の手に握らせてくる。

 半ば無理やりに渡された一万円を、自分のポケットにしまった。

 許すわけではないけれど、慈悲だと思うことにした。


「もうすぐ紗良ちゃんが来る。それで、あの子にも好きなもん買ってやれ」


 親父は満足そうだった。

 俺にはわからない。

 他人を傷つけて、脅して手に入れた金を、どうして誇らしげに手渡せるのか。

 どこにでもいる父親のようなフリをするなら、どうして最初から普通の父親でいてくれなかったのか。


「もういいよ」


 自分の喉から出た声は予想外に低い。

 手に持っていた紙袋を正さんに渡して、俺は病室を出ようとした。


「あ、お兄さん」


 この場に不釣り合いなあどけない声。

 病室のドアを開けた紗良が、なんの抵抗もなく部屋の中へ入ってくる。

 強面こわもての男ばかりの室内に、堂々と侵入する少女は異質だ。

 本当に俺たちが怖くないのだろうか。


「お兄さん、目のクマがすごくなってるよ」


 紗良はそう言って、俺の目もとを指さしてくる。

 その仕草が本当に無邪気で、彼女はここにいてはいけないと思った。

 ここは、紗良のいるべき場所じゃない。


「紗良ちゃん、購買に行こう。またメロンパン買ってあげる」


 俺は親父の病室を出た。

 紗良は何か言いたげだったが、何も言わずに俺の後ろをついてくる。

 病院内は相変わらず静かだ。

 清潔な建物内で、看護師さんがパタパタと歩く音だけが聞こえる。

 エレベーターはやはり途中の階では止まらずに、八階までやってきた。

 俺と紗良は、無言でエレベーターに乗り込み、一階への到着を待つ。

 なぜだか、この狭い空間だと何かを話す気にはなれなかった。

 紗良も口を開くことはなく、扉の上部にある階層のボタンをじっと見ている。


『イッカイデス』


 機械的な音声のあとに、ようやく扉がひらいた。

 俺は「開」のボタンを押して、先に紗良をエレベーターから出す。

 紗良のあとに一階のフロアへ出ると、なんだか息がしやすくなった。

 購買やカフェスペースには、ちらほら人がいる。

 スマホの画面を見ると、もう昼だった。


 カフェスペースのテーブル席で雑談する、患者とその家族と思わしき人たち。

 本を読みながら、珈琲を啜るおばあさん。

 新聞を広げて、パンを齧るおじいさん。

 目に映る人たちは、どの人もみんな穏やかで、それぞれの日常を過ごしている。

 その時、ふと病室にいる親父の姿を思い浮かべた。

 あの人もここにいる時は、ただのじいさんでいられるのかもしれない。


「もうね、あまおうのメロンパンじゃなくなっちゃった」


 購買の前で、紗良はようやく口を開いた。

 そういえば、前に限定の味だと言っていたような気がする。


「今は何味?」

「……宇治抹茶」


 紗良は、ぽそりと答えた。

 あまり嬉しくなさそうな反応に、つい笑ってしまう。

 どうやら、抹茶味は好きじゃないらしい。

 俺は抹茶味の代わりに、シンプルな味のメロンパンをひとつだけ買った。

 カフェスペースで食べようと、空いている席を目で確認する。


「紗良、屋上で食べたい」

「屋上?」

「うん。だめ?」


 色素の薄い瞳が、俺を見上げてくる。

 俺はとっさに「いいよ」と返してしまった。

 病院の屋上が開放されているか、そもそも勝手に入っていいのかもわからないのに。

 それでも、紗良に無垢な顔で見られると、出来るかぎりのことを叶えてあげたくなった。


「やったあ!」


 紗良は満面の笑みを浮かべて、エレベーターへと歩いて行く。


「ちょっと待って」


 俺は彼女に静止をかけた。

 近くを通りかかった看護師さんに、屋上に入ってもいいか質問する。

 看護師さんは、「いいですよ」と愛想のいい笑顔で答えてくれた。

 俺は看護師さんに軽く頭を下げて、紗良と屋上へ向かった。


 今日はよく晴れている。

 雲ひとつない青空で、太陽の光が目に痛いくらいだ。

 病院の屋上は、柵があるだけで殺風景だった。

 それなのに、紗良は満足そうだ。

 どことなく雰囲気が明るくなった気がする。


「お兄さん、メロンパン食べよ」

「今日もはんぶんこがいい?」

「うん!」


 紗良の声は弾んでいた。

 ずっと屋内だと気が滅入るのかもしれない。

 外の空気を吸えて喜んでいるんだろうと思った。

 半分に割ったメロンパンの片方を紗良に渡し、もう片方を齧る。

 二日ぶりの食事だった。

 砂糖の猛烈な甘さが、空腹の身体に染みる。

 そういえば、前に紗良とメロンパンを食べた日も、何も食べていない日だった。


「そういえば、おじさんってガンなの?」


 紗良は、なんでもないことのように聞いてきた。


「そうだよ」


 俺は正直に答える。

 別に、隠す意味も噓をつく必要もない。


「そっかあ。じゃあ、紗良と一緒だね」


 これもまた、なんでもなさそうに紗良は言った。

 俺の方が動揺してしまって、思わず紗良の顔を凝視ぎょうしする。

 紗良はどこか諦めているような、すべてを許しているような表情だった。


「紗良は、膵臓なんだ」


 「おじさんはどこ」と聞かれて、俺は「肺」と答えるまでに少し時間がかかった。

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