第2話
室温がわずかに下がった気がした。光の影響か、それとも緊張のせいか。
壁の表面がかすかに波打ち、微細なノイズのような音が耳に触れる。
「えっ、何これ……空調、死んでない?」
冗談めかした声が、思った以上に震えていた。
軽口でも叩いていないと、精神のバランスが崩れそうだった。
数十秒後、発光は唐突に止み、部屋は再び静寂に包まれる。
『適応準備完了。スキル“環境耐性Lv1”を付与しました』
「あ、増えてる……」
パソコンの画面には、新たなスキルが追加されていた。徐々に、この異常事態に慣れてきている自分が少し怖い。
――――
● 環境耐性
ダンジョン内の温度・湿度・空気の悪さに対する、最低限の生存性を確保する。
ただし「快適」ではない。
――――
「……なんだこの説明」
あきれつつも、内心ではかなりありがたかった。
ダンジョン内の空気が悪いだけで体調を崩すような余裕のない戦場では、こうした耐性の有無が生死を分けるのだろう。
どうやら、“適応準備”とは、ダンジョン探索を強制される人間を、最低限の運用仕様に整える工程らしい。
とはいえ、頭の中はまだ整理が追いついていない。
突然連れてこられ、神の名を騙る存在に謎の宣告をされ、気づけばチュートリアルが始まっていた。状況は意味不明の一言に尽きる。
「……考えても無駄か」
下手に“非協力的”と見なされれば、例の『爆発四散』が待っている。
今はとにかく、少しでも多くの情報を得るしかない。
再び扉の前に立つ。今度は覚悟を決めて、しっかりとドアノブを握った。
指先に力が入り、心臓の鼓動が徐々に早まっていくのが分かる。背中に、じわりと汗がにじんだ。
――ガチャン。
扉が開く。
その先には、見通しの悪い薄暗い通路。床には細い光のラインが矢印状に走っており、奥へと誘うように伸びている。
視界にはそれだけ。だが、異様なまでの静けさが、逆に不気味だった。
慎重に、足を踏み出す。
スニーカーのソールがコンクリートを踏むたび、音が過剰に反響する。
(大丈夫、これはチュートリアル。いきなり理不尽な死にはしない……はず。多分)
半ば自己暗示のような言葉を頭の中で繰り返しながら、矢印に沿って進んでいく。
数十メートルほど進んだ先に、厚みのある金属製のシャッターが立ちはだかっていた。
まるで軍用施設の格納扉のような無骨な意匠。その中央には、カードスキャナーらしきパネルが埋め込まれている。
「……どうせ勝手に開くんでしょ?」
予想は的中した。
何の操作もしていないのに、シャッターから電子音が鳴り、ゆっくりと上昇を始める。
その隙間から、冷たい風がこちら側へと流れ込んできた。
ブツブツ文句を言いながら近づいたとき、ふと足元に視線が向く。
「……いや、この服のまま行くの?」
Tシャツにスウェットパンツ。昨夜、アイスを買いに行ったときのままの格好だ。
防御力ゼロはもちろん、第一印象で“寝起きの不審者”と思われても文句は言えない。
「……せめて、装備支給とかないのかよ」
なぜか足にはスニーカーが履かれていたのが唯一の救いだが、トータルで見れば明らかに非戦闘仕様。
このゲーム的システムと、妙に生々しい現実感のギャップに、ツッコミも虚しくなる。
『ダンジョン・エリア1:初期領域への転送を開始します』
「転送!? 歩いて行くんじゃないの!?」
反射的に声を上げたが、反論の余地もなく視界が白く染まる。
次の瞬間――
「うわっ――!」
床が消えたような感覚。身体がふわりと浮き、そのまま下へ落ちていく。
重力の狂った空間。耳鳴り。そして――
――着地の衝撃。
地面は、乾いた砂かと思いきや、湿った土のような感触だった。
身体を起こすと、そこは明らかに先ほどまでとは異なる場所だった。
足元にはむき出しの土、その先には石畳の通路が続いている。
空気は埃っぽく、壁には発光する苔のような物質が広がっている。
まさしく、“ダンジョン”と呼ぶにふさわしい光景だった。
「……マジかよ。ほんとに始まったのか……」
目の前には一本道。幅は狭く、先が見通せない。
天井も低く、圧迫感があるが、なぜか足元近くまでは自然に視認できるようになっている。それだけでもありがたかった。
深く息を吸い、ひとつため息を吐く。
「……せめて敵が、優しければいいんだけどな。爆発四散だけは勘弁してほしい」
そうぼやきながら、俺は初めてのダンジョンに、一歩を踏み出した。
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